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第5話 気持ち
オオキリの跡取りが到着した日の夜、俺はさっそく舞台に立つことになった。急きょ用意された野外舞台には降雨祭と同じくらいの観衆が集まっている。
当初、舞台は金持ち が好んで使う屋内の劇場が予定されていた。ところが俺が踊ると聞いた街の人たちが「金持ち だけなんてずるいだろ!」と騒ぎ、大勢が見られる野外舞台に変更された。
俺としてはどちらの舞台でもかまわないが、より大勢に見てもらえる野外舞台ならますます気合いが入る。最後なんだと思うと、さらに気持ちが入った。
(それに最後まで大勢に見てほしいからな)
俺はこの日のために仕立てた袖の長い衣装に身を包み、気合いを入れてから舞台に踏み出した。袖、裾、それに帯には朱色の地に金の刺繍が施されているが、これは復活の象徴でもある火の鳥を表したものだ。短い茶髪には朱色の組紐を編み込み、同じく茶色の目の周りにも朱色の化粧で俺自身も火の鳥を模す。
吉祥の舞ならではの姿をした俺が舞台の中央に立つと、地鳴りのような歓声が上がった。大勢の声が空気を震わせ、それが自分の肌に当たるのがたまらなく心地いい。
最高の気分で始まった踊りに、観客だけでなく俺自身も夢中になった。鳥のように軽やかに舞いながら、指先を伸ばして観客の視線を集める。誰一人俺から視線を外させないというように全身で火の鳥を舞った。
野外舞台周辺は、あっという間に大歓声に包まれた。弦楽器や打楽器の音がかき消えるほどの歓声に、俺は興奮で体がゾクゾクするのを止められなかった。
(やっぱり俺は踊るのが好きだ)
踊っている最中、体中がそんな気持ちでいっぱいだった。
俺は大勢の前で踊ることが好きだ。大歓声を浴び、大勢から名前を呼ばれるのが好きだ。俺の踊りで観客たちが興奮すれば俺も興奮するし、大勢の視線に晒されるのもたまらなく気持ちがよかった。
いつまでもこうして踊っていたい――やっぱりそう思った。だって、ここは俺がようやく手に入れた場所なんだ。ようやくこの手に掴んだ憧れの舞台だ。
――ようやく……と同じところに立てる……!
最後の音を聞きながら両手を天に伸ばしたとき、不意に頭に浮かんだ言葉にこめかみがズキッと痛んだ。瞬間的な痛みですぐに治まったが、踊っているときにそんな痛みを感じたのは初めてで一瞬うろたえてしまった。
(あれは何だったんだろうな)
舞台から降りても痛みのことが気になった。何よりも痛みの直前に思ったことが引っかかった。
「誰と同じ舞台に立てるって思ったんだ……?」
こんなに気になっているのに、なぜか名前の部分がはっきり思い出せない。
「誰かと一緒の舞台に立ちたいなんて思ったことはねぇんだけどな」
捨て子の踊り子たちとは切磋琢磨してきたが、同じ舞台に立ちたいと思ったことは一度もない。同じ時期に正式な踊り子になったからか意気投合したカイムに対しても、そんなことを思ったことはなかった。というよりも、俺は自分が舞台に立つことにしか興味がなかった。
「何なんだかな」
奇妙な言葉と痛みのせいで、せっかく気持ちよく終わるはずだった踊りの後味が悪くなってしまった。いつもなら冷めない熱と高揚感で体も心も最高なのに、不完全燃焼のように体の奥が燻る。
「せっかくの吉祥の舞だったってのに、最悪だ」
思わずそうつぶやいた俺の声に「疲れたのか?」という低い声が重なった。
「また勝手に入ってきたのか」
「警備の者たちは僕を止めないことに決めたようだぞ?」
「ったく」
ため息をついた俺に、トリヤが肌触りのいいタオルを差し出した。楽屋には俺が用意したタオルがあるが、それよりも遥かに柔らかくていい匂いがする。金持ち が使う高級品だなと思いつつ、「ありがとな」と受け取って首の汗を拭った。
「……で、わざわざタオル寄越しに来たわけじゃないんだろ?」
「僕としては断ってほしいことを頼みにきた」
「なんだそりゃ」
「兄さんがタマに会いたいそうだ」
トリヤの言葉に少しだけ眉が寄った。舞台の後に金持ち に呼ばれることはよくあるが、余所の街の金持ち に呼ばれることはあまりない。とくに俺は一番人気の踊り子だから、この街の金持ち が会わせたがらないのだ。
しかし今回会いたがっているのは俺の踊りを希望したトリヤの兄だ。オオハギのご当主様も協力しているとなれば断るのもおかしな気がする。
(だけどなぁ)
どうにも会いづらい。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。
「断ってくれてかまわない」
「いや、さすがにそれはできねぇだろ」
「どうしてだ?」
「どうしてって、俺を指名してくれた金持ち だからだよ。それに、声をかけてくれたおかげで今夜舞台で踊ることができたんだ」
「僕の兄だからという理由は含まれないのか」
「それを言うなら、会いたくねぇのが本心だ」
「なぜ?」
「なぜって……」
ひと言で言えば面倒だからだ。金持ち が踊り子を恋人にするのはこの街くらいで、余所の街では愛人程度にしか思われていない。そんな踊り子にのぼせ上がっていることを知られたくなくて、トリヤはこの街に滞在していることを黙っていたに違いない。
それなのに、トリヤが“前世からの恋人”だと言っている俺が会えば面倒くさいことになるのは目に見えている。
「じゃあ、断っていいな?」
「いや、だからそれはできねぇって言ってんだろ」
「断ったところで兄さんは気にしない」
「俺が気にするんだって。それに礼も言っておきたいしな」
俺の言葉にトリヤが小さなため息をついた。そうして「ホテルで会うことになるだろうから、着替え終わる頃に迎えに来る」と言って楽屋を出て行った。おそらく俺の返事を伝えに行ったのだろう。
「そういや、もう楽屋に私服置いてなかったな」
以前なら金持ち に呼ばれたとき用にそれなりの私服を何着か用意していた。それも舞台に立つことがなくなったからと、少し前に片付けた。
どうするかなと思いながら衣装棚の扉を開けると、着てきた私服の隣に見慣れない服が下がっていた。見ただけで俺の私服とは値段も質も違うことがわかる。
「トリの仕業か」
おそらく、俺が最後の準備をしているときに置いていったのだろう。こういう気の利かせ方は金持ち らしいな呆れながらも、つい口元が緩んでしまった。
「せっかくトリが用意してくれたんだし、ビシッと決めとくか」
トリヤが持ってきたタオルに顔を埋めると、たまに彼自身から感じる爽やかな香りをほんの少し感じた。その香りはどこか懐かしく、気がつけばホッとしている自分がいる。
「ま、トリの兄貴に何を言われたとしても受け止めるくらいはしてやるか」
同居人としてのトリヤは案外悪くなかった。いや、いい同居人だったと思っている。
一度も街の外に出たことがない俺に、トリヤは外の世界の話をたくさん聞かせてくれた。珍しがる俺の質問は面倒だっただろうに、嫌な顔一つせずに教えてくれもした。
それにトリヤは踊りや楽器のことにもえらく詳しかった。俺とトリヤ、それにカイムの三人で夜更けまで舞台の話で盛り上がるなんて日もたくさんあった。おかげでカイムは新しい舞に挑戦する気になっているし、俺だって稽古の幅が広がった。
もちろん金持ち らしい感覚のズレを感じることもあるが、それだって最近はおもしろいと思っているくらいだ。
「それに俺は恋人じゃねぇからな。そこまでひどく言われることもないだろ」
“前世からの恋人”だと言っているのはトリヤだけだ。金持ち じゃない俺と親しくしていることには眉をひそめられるだろうが、わかっていて突き放さなかった俺にも落ち度はある。嫌みを言われたとしても、そのくらいはおとなしく受け止めてやろう。
「さて、着替えるか」
汗でグッショリと濡れた衣装を脱ぎ、薄荷水を混ぜたぬるま湯に浸したタオルで体を拭う。髪もぬるま湯ですすいでから、トリヤが持ってきてくれた上質なタオルでしっかりと水気を拭った。
「おぉ、さすがは金持ち のタオルだ。あっという間に乾くな」
つい独り言が出てしまうのは、内心寂しいと思っているからかもしれない。
(今夜でトリとの同居も終わりかもしれねぇってことだもんな)
まさかそれを寂しく思う日がくるとは思わなかった。出会ったときは最悪だったのに、いまでは一緒に広場に行けなくなるのかと思うだけで寂しい気持ちになる。
「いや、元の生活に戻るだけだ」
頭を一振りし、よけいなことは考えないようにしようと気持ちを切り替える。それでもいつもと違う自分にため息をつきながら、トリヤが用意してくれた服に着替えた。
「踊っているときとは随分印象が違うね」
「そうですかね」
「舞台でのきみは、まさに踊りの神の申し子のようだった。しかし、こうして舞台を降りた素のきみも魅力的だと思うよ」
「ありがとうございます」
礼を言いながらも、手の甲を撫でている指からそっと右手を取り戻す。トリヤの兄であり次期オオキリのご当主様だという男は、なぜか何度も俺の手を取っては撫で回した。いい加減やめてほしいのだが、強く拒否していいものか悩んでいる間に……また右手を握られてしまった。
「トリヤがこの街に滞在していると聞いたときには、どういう風の吹き回しだろうと思ったんだけどね。なるほど、こんな素敵な踊り子がいたら近くにいたくなるのもよくわかる」
「ご贔屓が増えるのは、ありがたいことです」
「きみが一番人気だというのもよくわかるよ。あんな踊りを見せられたら他の踊り子には目が向かないだろう」
「それは、どうも」
「ぜひわたしの屋敷でも踊ってほしいくらいだ」
「あー、それはちょっと、難しいというか……」
俺はもう半分引退したような状態だから人前で踊るのは難しい。今回は街の金持ち たちの総意があったから踊ることができただけだ。そもそもこの街の踊り子が余所の街で踊ることはない。余所の金持ち の屋敷で踊るということは、踊り子ではなく愛人になるということだ。
(そういうことを知らないはずはないよな)
それでも誘うということは……兄弟揃って何なんだかな。呆れていると、今度は右手の甲にキスをされてしまった。「参ったなぁ」と小さくため息を漏らしたところで、部屋の扉が勢いよく開いた。入ってきたのはトリヤで、手にしていたトレーをテーブルに置くと次期ご当主様から俺の手を奪い取った。
「勝手に触らないでくれないか」
「おや、トリヤにしては珍しい反応だ」
なぜかむすっとしているトリヤが、「端に寄って」と言いながら俺の前に立った。「なんだ?」と思いながらもソファの端に尻を動かすと、俺が座っていたところにトリヤが腰を下ろす。
(なるほど、次期ご当主様から俺を離したいってことか)
次期ご当主様は一人掛けソファに座っているが、テーブルに沿って置いてある長椅子の右端に座れば腕が届く。だから右端に座るように勧めてきたのだろう。おかげで何度も手を握られる羽目になったが、そこにトリヤが座れば、もう俺の手を掴むことはできない。
(それにしても、いまのはあんまりいい態度じゃねぇよな)
いくら兄弟とはいえ、兄として気分が悪くなるんじゃないだろうか。そう思って次期ご当主様を見ると、少し目を見開いてからクスクスと笑い出した。
「いや、本当に珍しい。心まで鉄面皮と呼ばれているトリヤがここまで変わるとはねぇ」
トリヤのほうは兄の言葉を無視することにしたのか、自分で持ってきたトレーからコーヒーカップを取って口に運んでいる。そんな弟の様子がおかしいらしく、再び次期ご当主様が笑い出した。
「なるほど、ぞっこんということか。それなら婚約の話を蹴ったのもよくわかる」
「……え?」
次期ご当主様の言葉に俺のほうが反応してしまった。
「おや、トリヤから聞いていないのかい? 半年ほど前、トリヤはこの街の金持ち 一族のご令嬢との婚約が決まったんだ。今回、降雨祭に来たのも婚約者に会うため、だったはずなんだけどねぇ」
隣でコーヒーを飲むトリヤを見た。視線に気づいたトリヤがチラッと視線を向けたが、とくに何か言うこともなくカップを傾けている。
「今回、わたしがこの街に来たのは婚約の話をどうするか最終確認をするためなのだよ。おっと、そう睨むものじゃない」
「兄さんが余計なことをベラベラしゃべるからだ」
「余計なことじゃないだろう? おまえがどうするのかしっかり確認してくるようにと父さんから言われているんだ」
「答えは変わらない。僕は興味も関心もない女性と結婚する気はない」
「うん、それは聞いている」
「それ以外の答えはあり得ない」
「なるほど、決意は固いということか」
次期ご当主様の言葉に、トリヤは返事をすることなくカップをテーブルに置いた。そうして足と腕を組み、同じように足を組んで微笑んでいる次期ご当主様をじっと見つめる。
「おまえはそれでいいとして、彼のほうはどうだろうね」
「どういうことだ?」
「なんでも、おまえは“前世からの恋人”だと言って彼に言い寄っているそうじゃないか」
「事実だからな」
「しかし、彼はどう思っているのかな」
次期ご当主様の視線が俺を見た。隣に座っているトリヤもこっちを見ている。
「あー……それは何というか」
ここで「違います」と言っていいのかためらってしまった。もしトリヤが本気で婚約を嫌がっているのだとしたら、邪魔するのは悪い気がする。だからといって「前世からの恋人です」とも言えない。
(いまだにそんな感覚も前世の記憶もないんだよなぁ)
「なるほど、言い寄っているのは間違いないようだね」
「タマは照れ屋なんだ」
「はぁ?」
こんなときに何を言い出すんだとトリヤを見た。すると、フッと笑ったトリヤが「僕たちは“前世からの恋人”で間違いない」と言い、組んだ足を解いて体ごと俺のほうを向いた。
「……なんだよ?」
声をかけたがトリヤは無表情のままだ。無視する気かと眉を寄せていると、急に無表情の顔が近づいてきた。驚いて仰け反ったが、逃がさないとばかりにさらにトリヤが近づいてくる。
「ちょ……っ」
「黙って」
そう囁いたトリヤの鼻先が触れた次の瞬間、少し開いていた唇を塞がれてしまった。
(な……に、しやがる……!)
咄嗟に肩を押し返したが、覆い被さるようにのし掛かってきたトリヤの体はビクともしない。それでも逃げようと頭を動かしてはみたものの、すぐさま後頭部に手が回って完全に動けなくなってしまった。
それからは、ただひたすらキスが続いた。唇に吸いつかれ何度も舐められる感触に首が粟立つ。久しぶりのキスだからか、体の熱が一気に上がった気がした。
(いや、踊った後だからだ)
思わずそんな言い訳を頭の中でしていたが、それだけじゃないことは自分でもわかっていた。
本当に嫌ならぶん殴ってでも止めればいい。のし掛かられている状態でも急所を蹴り上げれば離れることができる。これまでもそうやって気に入らない相手から逃れてきた俺なのに、殴ることも蹴ることもできなかった。それどころか熱心なキスに夢中になりかけていた。
トリヤとキスをしたのは、これが二度目だ。一度目はうなされていたのを起こされたときだったが、あのときは触れるだけのキスだった。
しかし今回のは違う。肉厚な舌に我が物顔で口内を蹂躙され、上顎も歯列も舌も頬の粘膜に至るまで何度も舐め回される。それがたまらなく気持ちよくて、かつてのどの恋人にも感じたことがないくらい興奮した。「もっとだ」と求め、気がつけば俺の舌はすがるようにトリヤの舌に絡みついていた。
――トリ。
不意に夢の中の俺の声が聞こえた気がして、体の芯がゾクッとした。一瞬こめかみに痛みを感じたものの、すぐにキスの快感で消える。俺は必死にトリヤの舌に吸いつきながら、両手でトリヤの服を掴み縋るようにキスをしていた。
「ん……っ」
唇が離れた瞬間、思わず濡れた声を漏らしてしまった。そのくらいトリヤとのキスは官能的で気持ちがよかった。
同時に、触れ合っていた場所がなくなり急激な不安に襲われた。なぜそんな気持ちになったのかわからず、快感と混乱に動けなくなる。
「なるほど、どの街でも噂話はあてにならないということか」
「だから、タマは照れ屋だと言っただろう?」
「わかった、わかった。そう睨むんじゃない。わたしは一応、おまえの兄なんだよ?」
「父さんには兄さんから話をしておいてくれ」
「自分で話さないのかい?」
「あの人は面倒くさい。それに、あなたは僕の兄さんなんだろう?」
「やれやれ、突然手のかかる弟になったな」
次期ご当主様が立ち上がったのが見えた。それに合わせて立ち上がったトリヤの姿に、なぜか不安にも似た寂しさに襲われる。「何か変だ」と思ったものの、俺の手はトリヤの袖を引き留めるように掴んでいた。
そんな俺に少し驚いた顔をしたトリヤは、すぐにいつもの表情に戻り俺の手を軽くポンポンと叩いた。
「きみたちが想い合っているのはよくわかった。それだけ官能的なキスを見せつけられたうえに、かわいらしく縋りつく姿まで見せられたのでは疑いようもない」
「だから、タマは照れ屋なんだ」
「そのようだな。しかし、弟とその恋人に見せつけられる日が来るなんてね」
「タマをいやらしい目で見るな」
「そういう目で見たくなるように仕向けたのはおまえだろう? 責任を取ってあげなさい」
「当然だ」
次期ご当主様の言葉を聞いた俺は、ソファに半分寝そべっている状態の自分の体を見た。はじめに目に入ったのは、薄手の白いシャツにぷっくりと浮かんだ乳首だった。気のせいでなければ濃い赤色まで透けている。さらに下へと視線を動かすと、ズボンの前立て辺りが大きく膨らんでいるのが目に入った。それは間違いなく勃起している状態で、緩く足を開いているからかよけいに目立っている。
(いつの間に……)
これまでも人前でキスをすることは何度もあった。しかし、こんなふうにあからさまに興奮したことはない。馬車の中で戯れに触れ合うときだって、自分の昂ぶりは自分で調整できる状態だった。
それなのに、たかがキスだけでこんなにも体が欲情してしまっている。「まさか」と戸惑いながらも、トリヤのキスにときめいてしまった自分をたしかに感じていた。同時に小さな違和感も感じている。
(まるで誰かの感情が入り込んでいるような感じだ)
この興奮が誰のものなのか一瞬わからなくなった。
「もしかして、これがそう なのか……?」
“前世からの恋人”に出会うと感じるという特別な感覚がどういったものか、当人にしかわからないと言われている。人によっては雷に打たれたようだとか、悲しくないのに涙が止まらなくなるだとか言われているが、それは本や演劇での表現だ。だから、本当に出会ったときの状態は誰にもわからない。
「これが、そうだってことなのか?」
わからないが、はっきりとした違和感はある。これがもし本当に“前世からの恋人”への特別な何かだとしたら……そう思いながら、扉の辺りで兄を見送っているトリヤの背中を見た。
(なんだ……?)
トリヤの背中に、一瞬別の誰かが重なって見えた。胸が妙にざわつき、心臓がやけに早く鼓動を打つ。自分の体が一瞬にして暗く深い闇に飲み込まれたような気がした。
「こういうのも、特別な何かってことなのか?」
わからない。だが、苦しい感情はすぐに消え戸惑いだけが残った。
「……どうせなら、記憶が蘇ればいいのにな」
それが“前世からの恋人”だと実感するのに一番手っ取り早くて確実だ。形のないものに縋るのなら、感覚よりも記憶のほうがよほどいい。
「いつか、思い出せるのかな」
こんなことを考えるなんて、俺はすっかりその気になっている。いや、“前世からの恋人”なんて関係なくトリヤのことが好きだ。
そんな自分をおかしく思いながらも、どこかすっきりとした気分だった。
(何をあがいていたんだろうな)
俺はとっくにトリヤの気持ちを受け入れていたに違いない。それなのに無理に拒み続け、俺には踊りしかないのだと思い込もうとしていた。踊りのためにトリヤは必要ないと思っていた。
(実際、俺には踊りしかなかった)
その踊りも今夜で最後だと覚悟を決めた。だからなのかもしれない。
「踊りのない俺には、もうトリヤしか残ってねぇってことか」
扉を閉め、振り返ったトリヤの顔を見た瞬間、それでもいいかと思えた。そんな自分に呆れるやらおかしいやらで、小さく笑ってしまった。
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