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──ひと昔前の話。
人類は中性化の一途を辿り、婚姻率の急低下と共に、少子高齢化問題は更なる深刻化を迎えていた。
その結果、長年倫理的観点から禁忌とされていた、多能性幹細胞を用いた遺伝子操作による人類たちが世に誕生することとなった。
そして、人工的に生まれたヒトの多くは男女性だけでなく、第二の性であるα 、β 、Ω を持って産まれる特徴がみれられた。
さらに安定した人口増加を目指すため、行政機関は未婚者たちが希望する際には、遺伝子登録管理された中から遺伝子上出生率の相性が良いとされるβとβ、或いはαとΩを引き合わせた。
行政機関が紹介するのはあくまで遺伝子上による相性であり、離婚率がゼロかというと、それは全くもって別の問題であったので、その制度は今でも人々の間で賛否両論を呼んでいる。だが、結果として事実、成婚率は人工遺伝子を持つヒトが誕生する前と比較して数倍も跳ね上がり、人口の上昇に一役も二役も買っていたのは火を見るより明らかだった。
烈己は決してそのシステムに意義を唱える側ではなかったし、それどころか自ら望んで申し込んだ身だ。
今回、運命的相性のαに会えるのだと胸躍らせ、若い烈己には普段縁のない、行政が無料で用意してくれた高級料亭へと足を運んだ──筈だった。
そう……、そこへ向かう電車に乗るまでは──。
大して混み合ってない日曜の上り電車は乗車率60%といったところだった。ドアに向かって立ちながら外を眺める烈己は、さっきからどうも尻の当たりが落ち着かない。気のせいかとも思ったが、やはり何かが故意的に当たっている。
次第にエスカレートし始めるそれがハッキリ何者かの手だと認識したとき、自分が痴漢されていることを烈己は理解した。頭に血が上った烈己は勢いよく振り返り、尻のそばにあった男の手首をきつく掴み上げた。
「変態!」と烈己は眉を吊り上げながら、その手の持ち主である男の顔を睨んだ。周りの乗客は烈己の声に驚き、視線は一気に手首を掴まれた男へと集中する。
だが男は、誤魔化すわけでも狼狽えるわけでもなく、ただボーっとした顔で「へ?」と聞き返してきただけだった。
「アンタずっと触ってたろっ」
「……触るって、何をです?」
「白々しい……」烈己は沸々と湧き上がる怒りと共に、さらに掴んだ手に力を込めた。
「俺フツーに今寝てたんすけど……寝惚けてなんかやらかしてました? もしそうならスンマセン」
男は気怠げにひょこりと首から上を曲げただけで、反省するどころが自分がしたことすら認めなかった。
興奮して視野狭窄になっている烈己をよそに、男は不意に視線を横へ流した。男と目が合った別の男は慌てて視線を逸らすと、ゆっくりと次の停車駅で開く反対側のドアの方へと移動し始めた。
「……興奮してるとこ申し訳ないんすけど、ちょっとだけこの手離して貰えないです?」
そんな男の無茶な提案に烈己はもちろん乗るわけがなかった。
「ハァ?! 離したら逃げるつもりだろ! 次の駅で降りてもらうからな!」
「降りるのは全然構わないんですけど……」
二人が温度差のある問答を繰り返している間に車内には次の停車駅のアナウンスが流れ、数名の乗客がドアへと動き始めた。
男は烈己に掴まれた腕を引かれ、抵抗なく素直にドアへと進んだ。その間も男は先ほど自分から視線を逸らした男を見失わないよう静かに目を凝らす。
ドアの開閉チャイムが鳴ると同時に男は烈己の手を簡単に振り解き、一気に走り出した。
「逃げんなっ痴漢!」焦った烈己が叫びながらホームへ出ると、男の前を更に別の男が逃げるようして走っているのが見えた。
「えっ……?」
驚いた烈己が目を丸くしていると、前を逃げていた男はあっという間に捕まり、すでに地面に押さえつけられていた。
慌てて烈己がそばまで駆け寄ると、地面へ押さえつけられた男は、腰上で手首の関節を極 められ、あまりの痛みからか必死に「ごめんなさい」と何度も情けない声で喚いていた。
その姿から真実を一気に把握した烈己は、全身の力が抜け落ちてしまったのか、その場へガクリとしゃがみ込んでしまった。
「人違い……? うそ……俺……」
ホームでの騒動に駅員たちがやって来て、男は「痴漢です」と静かに真犯人を明け渡した。
「言ったでしょう。俺は寝てたって」
呆れたようなため息を混ぜて、男は烈己の顔を見ることなく背中越しで告げる。
「ご、ごめんなさい……」
「──それに、寝呆けてたとしてもアンタの尻なんか興味ないですから」
動揺して落ち込んでいた烈己は、男の無礼な言葉で繊細に傷付いたΩ像を瞬間で失い「はぁ?!」と剣呑な声と共に男を睨み上げた。
「どうせ触るんなら俺は女の尻のが好物です。アンタみたいな貧相で硬い尻なんて興味ないです」
「はぁあああ──?!」
「あのぅ……お取込み中すみません……。被害者の方もご一緒に事務所まで……」と、申し訳なさそうに駅員が声を掛けるが、烈己は「すぐ行くんでちょっと待ってください!」と早口で返す。
「貧相で硬いなんて何でわかる?! やっぱりお前が痴漢してたんだろ!」
座り込んでいた烈己は颯爽と立ち上がると、男の前へと周り再び男を睨み上げた。
「そんなの見たらわかりますよ、それともそんなに自信あるんですか、尻」と、男は顎をしゃくった。
「お前よくも痴漢の被害者相手にそんなこと言えるな! 無神経にも程があるっ」
「そっちこそ、俺を犯人だと間違えて警察に突き出そうとしてたんですよ、俺だって被害者ですよ。痴漢はね、やってないって証明が何より難しいんです。アンタの勘違いでこっちの人生危うく終了するところだったんですからもう少し事の重大さを理解した方が良いですよ」
「〜〜〜〜〜〜ッ」
「わかってます? これが冤罪だって、アンタのただの勘違いだったって」
男はわざと語気を強めて烈己の罪を白日の下に晒す。
男に諭され、半ば侮辱され、烈己は湧き上がる羞恥と怒りを隠しきれず、紅潮した顔のまま不服そうに
「すみませんでした!」と乱暴に謝罪した。
「アンタ親から謝罪の仕方習わなかったんです? まぁ、もう良いです。用事があるんで俺は失礼しますよ。次から電車に乗るときはドアにご自慢の尻をくっつけて乗ってくださいね」
「お気遣いどうも!」
頭から怒りの湯気が上がっている烈己をよそに、男は何事もなかったかのように再び上り電車が来るホームへと戻って行った。
烈己はその背中を強く睨んでから顔を勢いよく背けると、駅員と共に事務所へ向かった。
結局、烈己は約束の時間より30分遅れて見合いの場所へ到着し、先に店側へ連絡を入れていたとはいえ、申し訳ない気持ちで心を埋めながら、まだ見ぬ運命の相手へと思いを馳せ、襖の引き手に手を掛けた。
「──なのにっ、襖の向こうにいたのがよりによってアイツ。あの傲岸無礼 なあのクソα!」
烈己はこの日のために購入した、薄いアプリコットカラーに近いベージュスーツに身を纏い、明るいオレンジのネクタイに薄い茶色のチェックシャツといった、アースカラーで全身をコーデして柔和なΩを装っていた。
今はその柔和さの欠片もなく、シャツボタンとネクタイを緩め、幼な顔に似合わない風貌で荒っぽくバーカウンターで酒を煽っている。
「妊活するから酒はもう辞めるって言ってなかったっけ?」
そう隣の席から穏やかな声で烈己を諭すのは、中学高校で長年の親友だった同性でΩの江 だ。
親友の都合でいきなり呼び出されていながら嫌な顔ひとつせず、江はカウンターに頬杖をつきながら烈己の愚痴を黙って聞いてやっていた。
「妊活なんて、しばらくない! 行政にクレーム入れてやる! あんなクズ男を俺に紹介しやがって、タダじゃおかねぇ!」
「まあ、あなたも相当なモンスターだけどね」
「ふざけんなっ、俺は外見 は可愛い!」
「外はね。だけどそのかわり中身は乱暴だわ、凶暴だわ、短気だわ、起伏は激しいわ、後先考えないわ、金に弱いわで……」
聞くに堪えない、勝手に耳の方から拒絶しそうな程の凄惨な単語を一本一本指を折りながら親友は並べ立て、モンスター烈己はたまらなくなって「もうやめてっ!」とその数える手を握って制止する。
「自覚、あるんだろ? 100%の烈己で許されるのは親友 までだよ。だけど番は別。お互い支え合って成り立つの。お前ばっかり優先してたら相手だって疲れちゃうし、フェアじゃないだろ?」
江は綺麗な細い指先で烈己の鼻をつつくと、長いまつ毛を伏せながらしっとりと微笑んだ。二つ隣の席にいるαらしき男が、その仕草へさきほどから熱い視線を送っていることに鈍感な烈己ですら気付くほどだ。
「お前こそ、よく言うよ。4年同じαと付き合っておいてまだ番になってやらないとか、生殺しじゃんかよ」
「馬鹿だなぁ、烈己は。こっちは噛まれたら死ぬまで逃げらんないんだよ? 4年なんてまだまだ可愛いもんじゃない。それにねぇ、発情期になるまで我慢してからするセックスって最高に良いの。何回してももうおさまんなくて、タガが外れて理性も何もかも飛んで全身が溶けちゃいそうに──んんっ」
「もう黙れ、このドSエロΩ」
聞いてるこっちが恥ずかしくて烈己は両手を使って物理的に江の口を塞いだ。
人のことをモンスター扱いしてくるくせに、結局この親友も十二分に別の意味でモンスターなのだ。
江の恋人は二人と同じ高校に通っていた同級生のαだ。派手に目立つα特有のオーラを纏う奴でもなかったが、運動神経が良くてバスケ部のエースだった。
それなりにモテてもいたが、その当時から江という眉目秀麗なΩの恋人がいたため、それと刺し違えようとするような愚か者はまずいなかったし、何よりαの彼が江に夢中なのは、誰の目にも明らかだった。
「てゆうか、知ってるやつのそー言う話聞きたくないから、マジで」
「俺は烈己の話いつも聞いてるのにずるくない?」
江は薄ピンク色の唇を尖らせながら不満を漏らす。
「そーだけど……、今日は惚気禁止。俺が落ち込んでる日にやめてくれ」
嫌でも烈己の脳裏には高校時代から見てきた江の恋人の顔が浮かんでいた。無愛想とまではいかないが、とにかく口数の少ない男だった。最低限のコミュニケーションしか取らないような、ある意味バスケ馬鹿。
どうしてあんな奴がこの魔性のΩを口説き落とせたのか、学校の七不思議になってもいいくらいだと、付き合いだした当時は学校内で噂になったほどだ。
「今日会った人とはもう会わないの?」
「当たり前だろ、アイツは俺を侮辱してきたクソαなんだぞ」
「でも痴漢を捕まえてくれた人なんでしょ? 恩人でもあるのに、お礼どころがキレてサヨナラってあんまりじゃない?」
「なんで顔も見てないαの肩を江が持つんだよ!」
「別に持ってはないよ。そりゃあ腹は立つかもだけど、向こうもやってもないのに電車の中で痴漢ですって周りの人に発表されてさぁ、その人も結構気の毒だと俺は思うよ?」
全然腑に落ちないと顔に書いている烈己を理解しながも、親友は優しく諭してやる。
「ね? 腹が立ってたのは烈己だけじゃないかもしれないよ? 逆の立場だったら烈己は素直に、間違いだったんですね、じゃあ仕方ないですねって笑って言えた?」
全くもってそんな自分を想像できない自分に辟易しながら、烈己は酒を再び煽ると俯いてしまった。
「烈己は芯の芯は素直で優しい子だって俺は知ってる。これから番になる人にもちゃんと知って貰わなきゃ、勿体無いよ? 烈己」
子供でもあやすみたいに、綺麗な指で烈己の髪をすきながら、江は柔らかな笑みを浮かべた。
「もし次に別のαに出会えた時は、少し大人になってみて? 口から悪い言葉が出そうな時は先に深呼吸。烈己は弱い自分を他人に見せたくないんだろうけど、弱い自分がない人なんてこの世にいない。αだってそれは一緒だから。ね?」
烈己は声を発することなくゆっくりと小さく頷いた。
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