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deux
烈己の仕事は在宅で通信販売会社のカスタマーサービスだ。
大抵はチャットやメールでの対応になるが、たまに電話問い合わせの客がものすごいモンスタークレーマーだったり、アホみたいにエロいことしか言わない変態からの時もあって、ストレスになりやすい職種だ。
だが、顔が見えない相手に脅されても、ブチ切れられても、エロいことを言われても、そこそこ流せるから人間不思議なものだ。
あまりにも酷いやつからの電話は本部へ回せば終わるので、その点も烈己には楽だった。
そして何より金が良い。
電話を受ける側のストレスを鑑みて設定された給料は、烈己的には少しくらいの理不尽なら鼻歌混じりで聞いてやりますよと、なるくらいには貰えるので、自他共に認める気の短い烈己だが、この仕事は案外気に入っている。
そんなことよりも、先日の見合いでちょっと気合の入ったスーツを買って貴重な貯金が減ったことのがストレスレベルとして高いほどだった。
そもそも、相手があのαでなければここまでストレスにもなっていなかったのだが……。
"逆の立場だったら烈己は素直に、間違いだったんですね、じゃあ仕方ないですねって笑って言えた?"
親友の声が不意に脳裏をよぎり、烈己はイライラしかけていた自分を少しだけ大人しくさせた。
「俺だったら……もう、絶対ブチ切れてたよなぁ……あれ以上に醜態晒して、相手の間違いを許さなかっただろうなぁ……考えるだけで恥ずかしくて吐きそう……」
あのαに申し訳ないことをしたと思う反面、侮辱されたことが許せなくて、自分のプライドばかり優先してしまった……。
店で会った時、相手は何も自分を責めてこなかった上、自分と番になっても構わないとまで言ってみせた──その上、消えて無くなるような金に目が眩んで簡単に番になったら自分 のが後悔するみたいに……。
「女の尻のが好きなのに……俺と番になっても良いだなんて、あいつは遺伝子上の相性が良ければ男のΩでも良いってことか? あっ、てか、そうだよ俺、あいつのことぶん殴ってお前より良いα見つけてやるって、さらに追い討ちかけたんだった〜」
痴漢に間違えるよりも更にとんでもない真似をしたことを危うく忘れかけていた烈己は、料亭での自分の行動が鮮明に思い起こされ、烈己は更なる後悔の念で口から泡でも吹きそうだった。
仕事の休憩のアラームが鳴ってパソコンの前から退くと烈己はリビングへと向かい、部屋の隅に小さく作ってある仏間の前に正座して、亡き母の位牌と幼い自分を抱いて笑っている思い出の写真を見つめた。
「お母さん、ごめんね。俺本当にダメな息子だ……、強く生きるってこういうことじゃないのに……全然うまく出来ないや……」
──強い子になってね、烈己。
Ωだからって絶対自分を卑下したりしないで、私はΩに産まれて良かったと思った。だって、烈己を産めたんだもの。αにはそんなこと、ひっくり返ったって出来やしないのよ。命を繋ぐことができるなんてこれ以上強いことがこの世にあると思う?
それが亡き母の口癖だった……。小さい頃、Ω特有の華奢な体が原因でいじめられていた烈己に何度も言って聞かせた。
母は烈己が17歳の時にあっさり事故で逝ってしまった……。誰とも番になることなく、最期までたった一人で──。
「お母さん……。誰かと家族になるって、どんななんだろうね……お父さんがいたらどんなだったかな……、姉弟がいたら、それってどんな感じだったんだろう」
お母さんは恋をしたのかな──、
誰かを愛していたのかな──、
「もっとたくさんお母さんのこと、聞いておけば良かった……」
烈己はなんだか急に寂しくなって正座を崩し、三角に折り曲げた膝におでこをつけて、座ったまま丸く小さくなった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
休みの日、烈己は家に篭るのもなんだか気分じゃなくて、自宅から二駅隣に作られた複合商業施設をぶらぶらと散歩がてらに歩いて回った。
たまたま目に入った半地下へ続くギャラリーのポスターに見覚えのある顔があり、烈己は駆け寄った。
ポスターにはあの見合いで会った憎きαの顔が載っていて、【故大澄 花月 写真展】と書かれてあった。
「故? えっ、なに、あの人亡くなった、の……? 嘘……」
烈己の顔からは一気に血の気が引いた。もし自分が痴漢と間違えたせいで彼が社会的地位を失い、それが原因で自殺でもしたんだとしたらと、恐ろしいことしか想像出来ずに烈己はその場にしゃがみ込んでしまった。
頭がぐるぐるして、膝が震える。
自分は相手に謝罪するどころが、命を奪ってしまったんだと、涙が勝手に溢れてきた。
「大丈夫ですか?」
頭の上から声を掛けられ、一瞬それを声だと理解できずに烈己が反応できずにいると、再び「大丈夫ですか?」と声と共に肩に優しく触れられた。
声を掛けてくれた相手の顔を震えながら見あげると、そこちはポスターと同じ顔があって、烈己は「ヒッ!」と心臓を抑えながら仰け反った。
「……ああ、アンタ。あの時俺をブン殴って切れて帰った人じゃないですか」
「ゆ、幽霊っ? えっ、あっ、ひっ、うっ?!」
「幽霊……? ああ、あのポスターですか? あれは俺の双子の兄貴です、残念ながら俺はこの通り死んでませんよ」
不本意ながらも烈己は男に支えされ、ようやく立ち上がることが出来た。
「双子……」
改めてポスターに映る姿を見ると、目の前の男より少しだけ若く、そしてぶっちゃげ小綺麗だ。烈己の目の前にいる男はα特有のオーラもなければ、小綺麗さがない、不潔というわけではないが、なんだか物凄く自分を雑に扱っている気が烈己にはしたのだ。
見合いの時も彼は形だけの、喪服みたいな何度も着たこともあるような黒のスーツにノーネクタイ、髪もブラシでとかしただけの自然体で、前日に美容院で髪を綺麗にしてきた烈己とはまさに対照的な手抜き具合だった。
あの熱量の無さに、この男は自分に一切興味もなければ、番を持つことにも興味はないのではないかと思ったし、番になることに対してネガティブな事しか言わないことも気に入らなかった。
行政機関に見合いを申し込んだのは烈己だけで、それにヒットした相手がたまたま彼だった。彼には拒否権もあったのに、なぜかあそこにわざわざ現れた。
烈己には全くもってこの男の心理が読めなかった。侮辱されたことも十分腹が立ったが、あまりにも読めないことだらけだった。
「お兄さんが……いたんだ」
「ええ、3年前に死にましたけどね」
「3年前?」
──自分の母親と同じ年 ……。
「何か?」
「ううん、別に」と烈己はかぶりを振って俯いた。そして「見ても良い?」と男に尋ね、彼は「もちろん」と答えた。
烈己には写真のことはわからないけれど、彼の兄が撮った写真たちは暖かった。
人物よりも被写体は自然や景色が好きなのか、花や木々、そこに現れた野良猫、誰かが忘れて行った公園のベンチにある帽子、そんな中で河原に座った誰かが絵を描いている姿を後ろから撮った人物写真が一枚だけあって、烈己は足を止めた。
「これ……」
顔は見えないけれど、隣に立つ弟である彼だと烈己は気付いた。それが展示会場にある、彼の撮った唯一の人物写真だった。
男は黙って次の写真へ進んでいったが、烈己はなんとなくその写真から目を離せなくて、レンズ越しに兄が家族を見つめる視線や想いに、勝手に同調してしまった。
距離が空いてしまった男を追いかけることはせず、烈己は自分のペースで次の写真へ足を進め、そして眉を下げた。
最初の花や木々の写真たちから一変して、彼の写真たちは突然温度を失った。
モノクロ写真が増え、建物が作る影たちを撮り始めていた。ビジュアル的に美しくはあるのに、なぜかひどく寂しい。光が差す地面に落ちる一枚の枯れ葉、誰もいない公園、誰かが理不尽に壊した空き家の窓、明るさの欠片を失った写真たちはまるでそこから悲鳴をあげているようだった。
──写真を撮っている彼はそこにある"死"を見つめている気がした。
顔をこわばらせながら最後の写真へとゆっくり烈己が進むのを、男はこちらを向いて待っていた。
男と一緒に並んで見た最後の一枚は、セルフポートレートで、鏡に映る自分に向かって彼がシャッターを切っていた。
言われなくともわかった。
これは生前最後の彼の姿なんだと──。
写真の中の彼は自分の姿を全く愛していない。
無表情で虚で……機械的に押されたシャッター音がそこから聞こえるようだった。
「ありがとうございました」と受付の係員に声を掛け、烈己は早足でギャラリーを後にした。
階段をゆっくり登ってくる音が後ろからして、烈己は慌てて目を擦った。
「あんまり楽しいもんじゃなかったでしょう。すみませんね」
「謝んなくて良い……俺が見たいって言った。それに、綺麗だったよ、すごく」
烈己は男の顔を見ることなく、背中越しのまま感想を告げた。
「今更だけど、俺、名乗ってもなかったね……鶏冠井 烈己 。アンタは?」
「大澄 ……天地 」
「大澄さん……、この間は本当にすみませんでした。俺カッとなってちゃんと謝れなくて……それに、殴ったりしてすみませんでした」
今度はちゃんと大澄の方へ体を向け、烈己は頭を下げた。
「兄貴が死んだ弟には優しいんですね」と大澄は嫌味っぽく笑う。
「そんなんじゃないっ、なんでアンタってわざとそういう言い方ばっか……」
──弱い自分を見せたくなくて、いつも強がって……それは、別にΩだけじゃない……。親友から静かに諭された言葉を烈己は思い出す。
「俺……ほんの少しだけど、アンタのこと、わかった気がする。ほんのちょっと、ミリだけど」
「へぇ、生意気なこと言ってくれますね、アンタまだハタチかなんかでしょ」
男はうっすらと口の端を上げてみせた。
「だから、ミリ。ゼロよかマシだろ」
「俺から一つ質問があるんですけど、いいです?」
「なに?」
「アンタはまだハタチくらいでしょう。なのにもう一生の相手を見つけたいなんて、なんで思えるんです?」
「なんでって、俺はただ家族が欲しいだけだよ」
「は? 家族? 恋人じゃなくて?」
「そう、恋人じゃなくて、家族。同じ家に住んで、いつも最後は同じ家に帰って来て、ただいまって言える相手。約束なんてしなくても必ずそこにいる相手。子供が生まれたらもっと最高。その分のただいまがたくさん聞ける」
少しだけ頬に温度を灯して烈己はせつなそうに微笑んだ。
「つまりアンタは自分の寂しさを埋めるために誰かを利用するってことですか……」
暖かい未来を想像する烈己を切り裂くように大澄は乱暴に言い放った。
「なっ……」
「フラれておいて良かったです。そんな重荷、俺なら背負いたくありませんからね。写真展見てくれてありがとうございました。じゃあ、頑張ってイケメンスパダリα探してくださいね。さようなら」
大澄はあっさりと体を翻し、再びギャラリーの階段を降りて行った。
いつもの烈己なら瞬発的に噴火して怒り散らすのに、なぜか頭は冷えたままだった。
「……俺の……寂しさを埋める……ため……?」
自分が思う未来像が、家族像が、頭の中でぐしゃぐしゃになっていく。烈己はヨロヨロと近くにあった壁に寄りかかり、ずるずると最後にはしゃがみ込んでしまった。
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