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side もう一つの物語⑥

カルムは一瞬何が起こったのかわからなかった。 背中を強く地面に打ちつけて悶絶する。 涙目で上を見上げれば丸い灰色の空がどんよりと穴を覆っていた。 灰色の空からざあざあと降り注ぐ水の針が全身から熱を奪っていく。 どこかで雨をしのげないか───穴を見渡すと、ちょうど祠の真下辺りだろうか、深い空洞と思われる闇があった。 それは大きな魔物の口にも見えた。 少しためらった後、カルムは空洞の中に入っていった。 真っ暗闇の中を手探りで一歩ずつ確実に進んでいく。 何も見えないというのにカルムの中に恐ろしさは微塵もわかなかった。 静謐な闇の世界に神経は研ぎ澄まされて、頭も冴えわたってくる。 それは闇を越えた先に、光でなくとも大切な何かが、守らねばならぬ何かがあると直観が囁いていたからであり、ほんのちょっとの強すぎる好奇心が背中を押したからでもあった。 進んでは行き止まり、進んでは行き止まりを何回か繰り返しながらも新たな道へ進んでいく。 どのくらい時間が経ったのかはわからない。 ふいに大きな広い空間に出た。 空間からたゆたゆ眩しい光の波になれるまでカルムは目をしぱしぱさせ、飛び込んできたその荘厳な景色にあっと息を飲んだ。 そこには黄金色に輝く泉があり、泉の中央には琥珀色の樹木が翡翠の葉を茂らして紅玉のような赤く燃える木の実をつけていた。 人ではなしえない超然とした美しさに感動していたカルムは、次の瞬間、ばっと地面に伏せた。 ひゅんとカルムの頭上を紫色の火の玉が通り過ぎる。 そのままごろごろと地面を転げ回り、続いて投擲された投げナイフが突き刺さるのを回避し、跳躍をつけてダンッと体を一回転させながら後ろへ跳ぶ。 向き直った襲撃者の顔を見てカルムは全身から血の気が引いていくのがわかった。 「さすがだな、カルム。ジョナサンさんの鍛錬の賜物か。」 ソンジュは獰猛な笑みを浮かべながら短剣のきっさきをカルムに向けていた。その瞳は冬の湖のように冷たい。 カルムは最高潮に混乱していた。どうしてソンジュがここにいる?なぜ僕を殺そうとする? ショックと悲しみと絶望がカルムの心を引き裂いた。 日々の鍛錬で鍛え抜かれた体はひらりひらりとソンジュの攻撃を紙一重にかわしていく。 しかし、心は何本も鉄の楔が打ち込まれたかのように痛んだ。 一瞬の隙がカルムに生まれ、ソンジュに右肘を切りつけられる。焼けつくような痛みに、カルムは顔をしかめた。 尚も追撃してくるソンジュの懐に飛び込み、思い切り腹に体当たりをぶちかます。 「ぐほっ!」 ソンジュの手から放り出された短剣をすかさずキャッチする。 「……はは。やっぱりお前は本気じゃないと殺せないか」 小さく切なそうに呟かれた言葉は、しかししっかりとカルムに届いた。 「カルム。俺はお前を殺したい。」 ソンジュはどこに隠し持っていたか、ダガーを構えていた。 先ほどまでとは違う綺麗でどこか儚げな笑みを口元に浮かべ、すべてを呑み込むようで何かを渇望している夜空色の瞳をまっすぐカルムに向けた。 「僕は君とともに生きたいよ。ソンジュ。」 カルムは短剣を構えて、本心を告げた。 こぽこぽと泉の水が湧き出す音が二人の間を支配していた。 「カルム───!!」 突然響いた声にカルムが気をとられた隙に、ソンジュは素早い身のこなしで闇の中にかき消えていった。 追いかけようとしたカルムを声が制止する。 「そこで待ってなさい、カルム!!」 駆け寄ってきたのは、小柄で黒の丸めがねがトレードマークの父の従兄弟のジョージだ。 「何を考えてるんですか、カルム!!襲撃されたとき、頭でも強く打ちましたか!?ここは封印の間。守護者でさえ有事の際以外は立ち入ることを禁じられてる間ですよ!!」 問答無用とばかりにジョージに左腕をむんずと掴まれあれよあれよという間に空洞から出て穴まで戻ってきた。 上を見るとセイヤンが心配そうに穴を覗き込んでいた。 「カルム、あなたにお説教をしたいことは山ほどあります。……しかし、今は蜂蜜酒を飲んで体をあっためなさい。あなた、死人のように青白いですよ」 ジョージから蜂蜜酒の入ったボトルを受け取りグビリとのどに流し込むと、体が息を吹き返すのがわかった。 「カルム、封印の間で何かありましたか?」 「いえ、何もありませんでしたよ。話すことは何も。」 カルムはグビグビッと蜂蜜酒を飲むと、ぷはあと息を吐き出した。 穴から見上げる空は灰色でどんより分厚い雲に覆われた丸い空だった。 「ああ、いかれてるな」 切りつけられて殺されそうになってもソンジュはカルムにとって大切な友達だという事実に変わりはなかったし、心のどこかでは自分を殺せないとわかっていた。たぶん、友達だから、いや好きだから信じたいのだ。短い間とはいえ誰よりも罪の意識に苦しみながらも光の道を懸命に歩もうとするソンジュを、物事を見かけで判断せず本質を理解しようとするソンジュをみてきた。ソンジュは自分をアンヘルさんを裏切るような男ではない。 『はっ?アホかお前は。俺はそんなくだらない常識なんか信じない。誰かの常識に縛られているより、俺はお前と……そのな……一緒にいる方が大事なんだよ!』 なんだよ、文句あるのかよ、はっ?顔が赤い? バカいえ、これは……そう夕日!夕日の色だ! 優しい夕焼け色に染まった空が脳裏をかすめた。 ああ、そのときからだ、そのときから僕はソンジュを─── グビーっと蜂蜜酒を一気に飲み干した。 顔がカッカッと熱い。 空をもう一度見上げれば、雨はすでに止んでいて、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。 「この先、何があっても君を信じる」 小さな小さなカルムの呟きを空の光は吸い込んだ。

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