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ひらいて、むすんで。 -sideF- 03
絶望的に身体中がだるいのに、頭のどこかに起きなきゃという意識が引っ掛かっていて、糸井は無理に瞼を上げた。
(あれ……どこだっけ、ここ)
寝起きの脳が完全にボケて、一瞬居場所を見失う。
素肌を包む布団が温かい。けれど、それ以上に温かい人肌が触れていることに気づいて、一気に糸井は覚醒した。
ここは糸川の部屋。ここから糸井の家までは電車で五駅分。歩くには遠いし深夜割増のタクシーは薄給に厳しい。
(今何時!?)
間接照明がついたままの薄暗い部屋は時間の感覚がわからず、壁の時計を振り仰いで糸井は慌てた。もうすぐ二十三時。終電が近い。
今からすぐに出て走れば間に合うかと、転がるようにベッドを降りたところで、隣で眠っていた糸川が目を覚ました。
「ん……? どうしたの?」
脱ぎ捨てていた服をかき集めながら、糸井は糸川に頭を下げる。
「すみません糸川さん、俺寝ちゃったみたいで。電車終わっちゃうんで、すぐ帰ります」
「えー?」
億劫そうに体を起こして、糸川はメガネをかけた。
「明日朝から予定があったりするの?」
「……いえ、何もないですけど」
「じゃあ別に帰らなくてもいいじゃない」
糸川の手が糸井の手を取って、ベッドに引っ張り戻そうとする。
「泊まっていけば」
「でも……」
その先を、糸井は口に出すことをためらった。さっき糸川からも、三島と比較するようなことは言うなと怒られた。確かにセフレ同士で比較されるのは気分のいいことではないだろう。
「……用が済んだのに、いつまでも部屋にいられたら嫌じゃないですか?」
なので、あくまで糸川個人の考えを訊く形の問い方にしてみた。
三島は、事後の時間を一緒に過ごすことをひどく嫌った。抱いた相手を気遣わなければならないような空気になるのが煩わしかったらしい。
終わったらそれぞれシャワー浴びて解散。そういうものだと思っていたから、糸井もそれに疑問は感じないようにしてきたのだ。
そんな糸井の問いかけの陰にしっかり三島の姿を見て取って、糸川は小さく舌打ちした。
「するだけなら風俗行くかデリヘル呼ぶよ。僕は糸井くんといると癒されるから、一緒にいたいと思うけど。それって迷惑?」
眉間に皺を寄せて訊かれて、糸井は考える前に首を横に振っていた。
「迷惑じゃ、ないです。全然」
「……ならいいけど」
眠気が覚めたのか、糸川はベッドを降り、のそのそと下着だけ穿いてクローゼットを開けた。中から部屋着一組と、まだ紙のタグがついた新品の下着を取り出して糸井に差し出す。
「シャワー浴びておいでよ。風呂はあっち。洗面台と洗濯機は脱衣所。後で歯ブラシ出しとくし、服は全部洗濯機に入れといて。シーツとかと一緒に回して、朝には乾いてるから」
てきぱきと指示され、有無を言わせず糸井は風呂場へ送り込まれた。
泊まることになった実感がわかないまま、シャワーを浴びて体を拭いて。糸川に借りた部屋着に袖を通しながら、ついその匂いを嗅いでしまう。
さっき借りたハンドタオルと同じ、柔軟剤の匂いがする。深く吸い込んでいたら、彼シャツ、などという言葉がよぎって糸井は頭を振った。
(うわぁ、発想がキモい……糸川さんは彼氏じゃないよ……)
でもうっかり彼氏妄想してしまうくらい、事後の糸川は彼氏然としていた。
力尽きて転がった糸井の体を抱いて、大丈夫? と気遣いながら髪を撫でて、額にキスをくれた。あまりの心地よさに糸井がうとうとと眠り込んでしまうまで、たくさんハグとキスをしてくれた。
――糸井くんといると癒されるから。
糸川はそう言っていた。
癒されたのは糸井の方だと思っていたが、糸川のことも癒せていたなら何よりだ。あのハグとキスは、ペットにしているような感覚だったのかもしれない。それならそれでいい。糸井は身に余るほど幸せだったから。
(……俺、何も知らなかったな)
あんなに優しい、幸せなセックスが存在するってこと。
気持ちなんかないのに、途中ちょっと、両想いみたいな錯覚をしてしまった。それくらい、なんだか満たされてしまって。
もし、好きな人にあんなふうに抱いてもらえたら、どれほど幸せだっただろう。
三島が、あんなふうに抱いてくれたなら。
もうそんなことを夢想する意味もない。三島は糸井を抱いてはくれない。
幸せがどんなものかを、知ってしまったから今思い知る。彼との思い出に、幸せな時間などなかったことを。
糸井が幸せを教わりたかったのは、糸川からじゃない。三島からだったのに。
(三島さん……三島さん……)
笑った顔が大好きだった。彼はその笑顔で、今日、自分へ終わりを宣告した。
恋が叶わないまま終わってしまったことを知って、糸井は少しだけ泣いた。
リビングへ戻ると、糸井が借りたのと似たような部屋着を着た糸川が、キッチンでガサガサと冷凍庫をあさっていた。
「……お風呂、お先でした」
声をかけると、振り返った糸川がちょいちょいと糸井を手招きする。何だろうかと見に行くと、糸川はレンジの前に袋を六つほど並べた。
「さすがにお腹すかない? 夜中の冷凍パスタは罪深い美味さだよ。一緒に太ろう。どれがいい?」
どれでもどうぞ、と言われても、こういうときに糸井は選べないたちだ。本当は相手がほしいと思っているものを自分が先に選んでしまったらと思うと、どれを選んでいいかわからなくなってしまう。
「糸川さんはどれが好きですか?」
その遠慮を察したのか、糸川はちらりと糸井を見て、冷凍庫を引き出した。
「各種類何個かずつ常備してるから、どれでも選んで」
二段に分かれた冷凍庫の下段には冷凍パスタが縦向きにびっしりと詰まっていて、思わず糸井は吹き出した。ちゃんと商品名が上に来るように揃えられていて、取り出しやすくなっている。
「こっれ……狂気ですね! 自炊なんかしてなるものかって、並々ならぬ決意を感じるんですけど。あ、うどんもある」
脱いだ靴をいちいち下駄箱にしまう几帳面さがこんなところにまで顕れるのかと、妙にツボに入って糸井は爆笑した。
これを糸川が夜な夜な、カロリーを気にしながらレンジにかけていると思ったら、なおさら笑いは収まらない。
「はは、は、やばい、お腹痛い」
腹を抱えて、笑いすぎて涙のにじんだ目を擦っていたら、不意に糸川が糸井の肩に手をかけた。
(……え……)
驚いている間に、糸川のくちびるが、糸井のくちびるに触れて離れた。
「……やっと笑ったね」
くしゃっと糸井の髪をまぜて、糸川は口元を緩める。そして何事もなかったように、袋を一つ取って糸井に背を向けた。
「僕はボロネーゼにしよ。糸井くん、選んだら残りしまっといて。はいこれ、皿」
「……あ、はい」
トマトクリームのパスタを選んで残りの袋を冷凍庫にしまいながら、糸井はおや? と首を傾げた。
確かに糸川は糸井とキスをしないとは言っていないし、糸井も拒まなかったけれど、それはあくまでセックス中の行為の一環としてという話ではなかっただろうか?
(うん? なんで糸川さん今キスした?)
外袋からパスタの内袋を取り出しながら疑問符いっぱいに糸川を見やると、糸川はレンジの時間設定をしながら、大あくびをしているところだった。
「貸して、先に糸井くんの温めるよ。僕風呂に入ってくるから」
メガネのフレームの下から指を潜らせて、目を擦りながら糸川は糸井の分の皿を受け取る。神経質そうに見えたかと思ったらすごく緩んだ姿を見せたり、なんだか変わった人だ。
(セフレに対する態度も、三島さんとは全然違う。世の中にはこんな人もいるんだな……)
加熱開始のボタンを押して、糸川は大きく伸びをした。
「糸井くんのが終わったら僕のもレンジかけといて。六〇〇ワットで五分半だって。終わったらそのへん置いといてくれたらいいし」
「はーい」
ふらふらと風呂場へ向かう背中を、とても不思議な気持ちで糸井は見送った。
<END>
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