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なんでですか 糸川さん 01

 毎週土曜の十七時に、糸川の家の最寄り駅で待ち合わせ。だから糸井は、駅に十六時五十五分に着く電車に乗る。  そのサイクルが定着して、一ヶ月が経った四月下旬。糸井はいつもの電車のいつもの車両から降りて、改札を出た。  南口に出て大きな楓の木の下に立っていると、いつもほぼ時間通りに糸川が現れて、一緒に早めの夕食へ向かう。行き先はファミレスだったり定食屋だったり、その場の気分で二人で決める。コンビニで適当に買い込んで糸川の部屋で食べたりもする。  几帳面な印象の糸川は意外と食べ物に頓着しない人で、自宅で料理は一切しない。社食でヘルシーメニューを摂るようにしているから大丈夫なのだと言い張って、冷凍パスタが敷き詰められた冷凍庫の中身は相変わらずだ。  部屋に着くと、きちんと靴を下駄箱にしまって、室内はいつでも整然としている。  だけど朝は弱くて、日曜はたいてい昼まで寝ている。その隣はやたら寝心地が良くて、糸井も一緒になって寝坊してしまう。  ちゃんとしてるんだかそうでもないんだか、よくわからない印象なのは初回から変わらない。考えていることもまったく読めない。口数が少ない上に普段の表情が乏しすぎて、たまに笑ったりするとぎょっとしてしまうレベルなのだ。  すごく端正な、きれいな顔をしているのだから、愛想が良ければものすごくモテるんじゃないかと思う。メガネの奥で冷たい目をして、こんなお下がりのセフレの相手をしている時間が勿体ない。  そうは思うが、もしかしたら糸川も三島と同じタイプなのかもしれない。  糸井が長年思いを寄せて、七年間セフレ関係を続けた相手である三島も、特定の恋人というのは作らない主義だった。  理由を聞けば、端的に「面倒くさいから」と返された。糸井は三島の傍にいるためには、面倒くさくない存在であり続けなければならなかった。  三島への気持ちを押し隠して、どんな扱いを受けても平気な顔をして、糸井は三島の傍にいられることを願った。  ……結局あっさりと切られてしまったけれど。  胸に痛みを返してはっと我に返ると、時計は十七時二十分を指していた。まだ糸川は姿を現していない。 (珍しい。時間には正確な人だと思ってたのに)  携帯を確認するが、時間変更の連絡は来ていない。  糸川は誰かみたいに当日に急に呼び出すようなことはせず、いつも二日前には必ず糸井の都合を確認してくれる。今回も律儀に伺いを立てて、いつも通りの待ち合わせとする旨の連絡がやり取りの最後になっている。  単純な遅刻だろうか。もしかしてまだ寝てる? そうだったらむしろ面白い。  家の場所はわかっているが、直接行ったら迷惑だろうか。電話を入れた方がいいか。しかし本当に寝ていたら起こしてしまうだろうか。  どうしようかと逡巡していたら、不意に後ろから左の肩を叩かれた。 「ごめん糸井くん、遅くなった」  聞き慣れた糸川の声に振り返って、糸井は驚いて目を瞠る。  いつもこの待ち合わせにはカジュアルな服装で来て、夜はラフな部屋着を纏っている糸川が、スーツ姿で立っていた。 「えっ。どうしたんですかその格好」 「コスプレみたいに言わないでよ。今日休出だったんだ。昼までで終わると思ってたら、長引いて。ごめんね遅れて」 「いえ、全然……」  髪型もいつもの感じとはちょっと違って、いかにも仕事のできそうなビジネスマン然としたその姿に糸井は気後れしてしまう。 「はー、疲れた。もう牛丼買って帰るとかでいい?」  けれど中身はやっぱり糸川で、自宅へ向けて歩き始めたその後ろを追いながら、糸井は「サラダはつけましょうね」と笑った。  道沿いの牛丼屋で大盛のサラダセットを二つ買う。夕食代はいつも糸川持ちで、それは糸川の家にわざわざ来てくれているのだからということで譲ってくれない。糸井はお言葉に甘えて、毎回奢ってもらっている。  駅から程近い糸川の部屋に着くと、玄関のドアを閉めてすぐ、糸川はいつも糸井のくちびるにちゅっとキスをする。最近やっと慣れてきたそれに今日は初のスーツオプションがついて、糸井はまたどぎまぎした。 「……どうかした?」  くちびるが離れるなり真っ赤になってしまった糸井に、糸川は不思議そうに問う。 「いえ、あの……なんか今日糸川さん、感じが違うから」 「あぁ、これ?」  言いながら糸川はネクタイを緩め、流し目を寄越してにやりと口角を上げた。 「惚れた?」  糸川の語彙ではなさそうなその軽薄な台詞に、糸井はきょとんとしてしまう。 「いや」 「即答かい」 「え、惚れたって言ってほしかったです?」 「言ってくれても良かったんだよ?」 「あはは、言わないでしょ~」 「言わないのか~」  軽口を叩きあって、いつものように糸川は靴をしまい、糸井は靴を揃えた。  リビングのテーブルに牛丼を置き、糸川がグラスとペットボトルのお茶を準備する。糸川一人なら缶ビールを開けるところだが、糸井が体質的に酒を受け付けないので、二人の食事はいつもノンアルコールだ。  食卓でも、特に会話は弾まない。糸川は無口だし、糸井も口数は多い方ではないので、適当につけたテレビの話題でぽつりぽつりと会話する。  仕事や、プライベートに立ち入るようなことは、糸井は一切話題にしない。元セフレの三島が、自分の領分に踏み込まれることをひどく嫌ったから。そして今の自分たちも、あくまでセフレの関係であるから。 「明日天気崩れるんだって。今日天気良かったよね」  天気予報を見ながら、糸川がぽつりと話題を振る。天気の話なんて、無難中の無難だ。 「そうですね」  話を膨らませようもなくて、糸井は適当に相槌を打つ。その糸井を、牛丼を食べ終えた糸川が、頬杖をついて不意に凝視した。 「糸井くんって、休みの日とか何してるの?」  今しがたセフレの間柄でプライベートの話などしないものだと思ったところだったのに、思いきり踏み込まれて糸井は思わず凝視し返した。 「……糸川さんちに来てます」 「……そうだね。……訊いちゃまずかった?」 「いえ、そんなことはないですけど。興味ないでしょう?」 「なかったら訊かないと思う」 「……社交辞令的なアレかと」 「あ、そう」  頬杖をしたまま薬指で目尻を引き下げて、糸川はひとつため息をつく。 「三島がさ」 「えっ!?」  その名に過剰反応して、糸井は弾かれたように糸川を振り返ってしまった。食いつきかたがあまりにも不自然なのを自覚して、糸井は頬に血をのぼせる。  赤面して目を泳がせた糸井に、糸川はメガネを押し上げながらまた深いため息をついた。 「……三島が、糸井くんは出版社で装丁デザインの仕事をしてるって言ってたから。平日は忙しいのかな、とか、うちに来てないときは何してるのかな、とか思ったんだけど」  三島が、自分のいないところで自分を話題に出してくれていた。  それだけのことなのに、切られておいてなお、糸井は胸がいっぱいになってしまう。未だに長い片恋は、糸井の中から消えてくれない。 「……うちは小さい会社なんで、平日も無茶苦茶に忙しいってことはないです。部署によるんですが……」  露骨に三島を意識してしまった気まずさに、糸井は俯いてぼそぼそと喋る。 「今は毎週呼んでもらってるけど……前は暇な休日には、カメラ持って家の近所の河川敷を歩いて、素材集めしたりもしてました」 「素材?」 「自分で撮った画像を加工して装丁に使うこともあるんです。画家さんの絵と合成したり。もちろんプロの写真家さんの素材使うことも多いんですけど。風景撮るのが好きなので、ほぼ趣味です」 「へぇー」  眉を上げて、ふわりと糸川が顔を綻ばせた。 「糸井くんの撮った写真やデザイン、見てみたいな。今度持ってきてよ」  その微笑みに、糸井の心臓が妙な具合に跳ねる。  糸川が表情を変えること自体がレアな上に、整った顔立ちは時々ドキッとするくらいきれいなのだ。 「……はい、今度」  こんなのどうせ社交辞令だ。わかっているから、頷きながら糸井は曖昧に笑った。

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