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なんでですか 糸川さん 03

 ふと目が覚めると、部屋の中が真っ暗だった。何時だろうかと体を起こそうとしたら、馴染みのない痛みに声が出そうになった。 (いっ……た!)  背中から腰にかけての筋肉痛みたいな痛みと、腰の低い位置の鈍痛、あとはあそこがちょっとヒリヒリする。  思い当たる節はありすぎて、自分に呆れて糸井は深くため息をついた。  このところ糸川の好むスローセックスに慣れていたから、久々のハードな動きに身体がついていかなかった。体力に見合わないオーバーワークだったのに、気持ちよすぎて止められなかった。  なんとか夜中の二時半を指す時計を確認して、起こしていた体を横たえる。その布団に清潔なシーツが敷かれていることと、自分が上下ともきちんと部屋着を着ていることに、糸井は気づいた。 (糸川さん……ちゃんと後始末してくれたんだ)  途中で言おうと思って言いそびれたのだけど、昨日は場の勢いもあって、事前にバスタオルを敷いておくとかイくときにティッシュで押さえるとか、そういう配慮を怠ってしまった。それで自分はのうのうと寝こけて後始末を糸川一人に押しつけてしまったのだから、糸井はとても申し訳なくなった。  隣を見やると、糸川は糸井に背を向けて、横向きで眠っている。寝顔が見たいなと思ったけれど、体を起こすのが億劫すぎて諦めた。  昨日、自分の行いが糸川を怒らせたと気づいたときには肝が冷えた。手加減しないから覚悟しろと言われ、どんな目に遭わされるのかと恐怖だった。  けれど結局、今糸井の身体はどこも傷んでいない。最中だって、痛いことは何もされなかった。いつもより糸川は激しくて、少し意地悪だったけれど、糸井を傷つけるようなことは一切しなかった。 (……なんでですか、糸川さん)  静かにゆっくりと上下している背中に、ひっそりと問う。  なんでそんなに優しくしてくれるのか。三島から引き継いだセフレになんか、情をかけたところで糸川には何もメリットなどないだろうに。  かけられた情けに、浮かれている自分がいる。  あれほど愛した相手からも得られなかった安らぎを、単なるセフレから与えられていることがひどく滑稽で惨めだった。どれほど三島にとって自分が不必要だったかを思い知るから。 (あのね、糸川さん……俺はね。三島さんにとっては声も要らない、体だけあればいい存在だったみたいなんです)  情事の際の声を、鬱陶しいと言われたことがあった。  どれほど本気で三島がそう言ったのかはわからない。ただその時の気分で、たまたま耳障りに思っただけで、いつも黙っていろというつもりではなかったのかもしれない。  それでも、糸井はそれ以来、なるべく声を堪えるようになった。三島を不快にさせないようにするために。  声を必死で噛み殺す様は、結果的に三島の嗜虐心をそそり、興奮してもらえたという点では成功だった。けれどそれが無意識の癖にまでなってしまったのは、長年の哀しい努力の結果だ。  糸川はそれを、余裕ぶっていると非難したけれど。 (余裕とか、そういうつもりじゃなかったんです。俺はただ、無防備に声を出したりするのが怖くて……)  いつも不安だった。何が三島の気分を害するか、探るのに必死だった。捨てられないように。三島の都合の良いように。そうするのが当たり前になっていた。  本当はそうじゃなかったんだと今になって知る。  糸川の傍にいるのはつらい。糸川が、当たり前のように糸井に優しくするから。それらを与えられてこなかった自分を知るから。  愛されなかったことを思い知るから。  泣きたくなる理由がわかった。糸川に優しくされる度、糸井は三島に駄目押しの失恋をするのだ。  いつまでこんな思いをしなければならないのだろう。優しくされるのがつらいとか、愛した人にとっての自分の価値のなさを再認識し続けるとか、あまり精神衛生上よくない気がする。  ……糸川が飽きたら。  そうしたら、終わるのだと思う。こんな不毛な関係ごと。 (……あれ?)  じわりと涙が込み上げて、糸井は困惑した。  泣きたくなるタイミングがずれていやしないか? 今は三島のことではなく、糸川との関係の終わりについて考えていたはずなのだけど。  横を向き、糸川の背中に触れてみる。浮き出た肩甲骨の下に、額を押し当てる。  温かい熱がある。この熱もいつか自分から離れていくのだと、想像したらとどめていた涙が瞼から溢れた。  何かがバグったらしい。涙が止まらなくて、ズッと鼻をすすったら、眠っていた糸川が身じろいだ。 「ん……ん? どしたのいといくん」  半分夢見心地のはっきりしない声を上げ、糸川は目を閉じたままこちらへ寝返りを打つ。 「あ、いや、なんでも」  見られてはいないとわかりつつ、なんだか気まずくて糸井は目元を手で隠した。取り繕おうにも、鼻がグスグス鳴って泣いているのがバレバレなのが恥ずかしい。  顔を上げられないでいたら、向かい合った態勢で、ぎゅう、と抱きしめられた。 「よしよし。だいじょぶだよー……」  背中に回された腕が、小さい子をあやすように何度もさすってくる。びっくりして固まっていたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。 「よしよし……」  糸川の手が止まる。糸井を抱き込んだ態勢のまま、また糸川はすやすやと寝息を立て始めた。 (……寝ぼけてた?)  呆然と、糸井は糸川を見上げてみる。が、そこには安らかな寝顔があるだけで、何の感情も読み取れなかった。 (二十八の男に、よ、よしよしって)  寝ぼけていたにしたって甘すぎるというか、何だろう、ペット扱いが過ぎるというか。  おかしすぎて、沸き上がる笑いを噛み殺して噛み殺して、必死で抑えるうちに別の涙が出てきた。  おかしいのに、笑えるのに、胸がなぜだかぎゅっとしめつけられるように痛む。  なんでだろう。さっきからなんだか変なんだ。頭と涙腺が噛み合わないみたいで。悲しくもないのに、涙が出るんだ。  糸川の胸に、そっと頬を預ける。温かいそこから、ゆったりとした鼓動が聞こえる。  抱かれたまま糸川の心音を聞いていたら、ふわふわと眠気に引き込まれた。 (なんでかな……こんなふうに気持ちが安定しないのは。ねぇ……糸川さん……)  瞼が閉じて、そのまま眠りに落ちていく。  夢の中で、ぷかりと宙に浮いたハート型が、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。 <END>

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