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糸井くんのNGラインを聞いてみた

 枕元で携帯がメッセージを受信して、バイブの震動で目が覚めた。  半覚醒状態でもぞもぞと携帯を探ろうとして、自分の胸元に丸まった熱の存在に、糸川はビクッと覚醒する。 (わ……糸井くんだ)  糸井が糸川の胸にくっついて、赤子のように丸まって寝ている。糸川はそれを抱きしめて寝ていたようだった。  間近に糸井の寝顔がある。ほんの少しくちびるが開いていて、キス待ち顔のように見えるのに、デレデレと自分の顔が緩んでいくのを糸川は自覚した。 (は~、かわいい。超かわいい。一生こうしてたい。毎日こうして寝たい)  見ているだけでたまらなくなってきて、糸川はキスしたい衝動を必死でこらえる。 (ていうか寝ながら僕、願望丸出しすぎだろ。くっつきたい欲求強すぎて引くわ)  そうは思うが、その欲求はおさめがたく、触れないギリギリに顔を寄せる。視力の低い裸眼で糸井の顔をよく見るには接近が必要だ。  そうして近づいて、あれ、と糸川はその寝顔に見入った。瞼の縁が赤く、目頭付近に白い跡が残っている。 (――え? 泣いた?)  ギクッとして、そんなはずはないと、糸川は昨夜の記憶を手繰った。  確かに昨夜は、いつもより糸井の体に負担をかけるようなことをしてしまった。あのとき、糸川の理性は完全に置き去りになっていた。  だって糸井が、あんなことをするから。  風呂上がりにうたた寝していた糸川のぺニスを口に含み、淫靡な音を立てて美味しそうにしゃぶりながら、自分も興奮して自慰をして。あまつさえ、糸川が口内に吐出した精液を喉奥に溜め、見せつけるようにしてから飲み込んでみせた。  普段の糸井の清楚なイメージとはかけ離れた猥褻な姿に、糸川は平常心を失った。  あんな手管は、誰かに仕込まれたに決まっている。その誰かとは、他に経験がないという本人の言を信じるならば一人しかいない。  三島にも同じようにして、そうやってあいつを喜ばせてやったのかと、考えただけではらわたが煮えくり返って、簡単に糸川の嫉妬心のキャパを超えた。無防備に奥歯で噛みしだいてしまったアサリの砂みたいな嫉妬の感触は、つい声に出してしまった通り、『最悪』だった。  糸井が三島と過ごした七年を、なかったことにはできない。それがなければ今こうして一緒にいられることはなかったのだともわかっている。  それでも糸井が三島のために、三島を想って身につけた技巧などの恩恵に与るのは癪に障って仕方がなく、糸川は少しでも自分との行為で上書きしてやりたくて躍起になってしまった。  三島に仕込まれた糸井などではなく、素の糸井に触れたくて。  だからといって失神するほどの負担を強いるつもりはなく、糸井が突如脱力して動かなくなったとき、糸川は大いに慌てた。そして予想を超える糸井の感度の高さに驚いた。  崩れた糸井を抱き起こして名前を呼んでも反応はなく、糸川自身は未達のまま行為を中止した。それからすぐに糸井の身仕舞いをし、ベッドメイクをして清潔な状態で寝かせたのだが、そのときも糸井は泣いてはいなかったように思う。  なのに今糸井の目元に涙の跡があるということは? 途中で起きて泣いた? どっか痛かった? 悪い夢でも見た?  青くなって固まって、糸川は内心でわたわたと動揺した。  糸井のことを大事にする、というのは糸川の中で至上命題としていることで、糸井に怖い思いも痛い思いも絶対にさせないことを己に誓っている。  しかし昨夜の嫉妬に駆られた自分の行いは、糸井に涙させる原因となり得たかもしれない。 (うわー、ごめーん! もうしない!!)  内心で猛省して、糸川は糸井の寝顔に向けて謝罪した。  それから二十分ほどして、糸井は目を覚ました。その間飽きもせず寝顔を眺め続けていた糸川は、それを悟られないように携帯を見ていたふりをしようとして、通知ランプが点滅しているのに気づく。そういえばさっきメッセージが届いた音で起こされたのだと思い出して、それを開封する。 『見て! めっちゃうまい』  三島からだったそのメッセージは、その一言に円卓いっぱいの中華料理が並んだ写真が添えられていて、心底どうでもよくて糸川は目を据わらせた。 『死ね』  それだけ返して携帯を脇に置くと、ぼんやりと開ききらない目をしばたかせていた糸井が糸川の方を向く。 「あ……おはようございます」  位置的に見上げる形になった糸井は上目遣いで、少し寝ぼけたようなその表情をふにゃりと綻ばせた。  糸川ほど無愛想ではないが、糸井もさほど面相のバリエーションを見せるタイプではなく、たまに見せるこうした警戒心のない柔らかい笑みは、対糸川限定で高い殺傷能力を持つ。まんまと撃ち抜かれた糸川は、胸を押さえてせめてもの盾とすべくメガネをかけた。 「おはよう。……あの、糸井くん」  起き上がって、糸川はベッドに正座する。 「昨夜は、ごめん。糸井くんにすごく負担をかけてしまったんじゃないかと思って。申し訳ない。体は大丈夫?」 「……え? あ、いや」  一瞬きょとんとした糸井は、慌てて起き上がって糸川の正面に正座した。 「全然! あれくらい平気です。むしろ優しくしてもらった方だと思うし。気にしないでください!」  フォローしてくれる糸井に、糸川は安堵する。が、その一方で、それなりのことをやった自覚があるのに『あれくらい平気』『むしろ優しかった』などと言われ、もやっとした澱が糸川の胸に蟠った。  糸井と関係を持ってから、実はずっと気になっていたことがある。  訊くのは野暮だと思うし、あまり聞きたい話でもないので控えていたが、今後糸井の嫌がることをしないようにするためにも、今がいい機会なのかもしれない。 「あのさ、糸井くん。前からちょっと、聞いておきたかったんだけど」 「はい?」 「言いたくなかったら言わなくていいんだけどね」 「?」  パンドラの匣の蓋に手をかけた心地で、糸川は意を決した。 「糸井くんの、NGラインってどこ?」  訊かれた糸井は、よくわからない顔をして首を傾げている。 「NG?」 「ええとつまり、セフレとして、これ以上のことはできませんやれません的な」 「……あー。的な」  糸川の質問の意図を汲んで、やや神妙な面持ちで糸井は顎をつまんだ。 「……質問に質問を返すようですが、糸川さんはハードSMの趣味はお持ちですか?」  問い返されて、糸川は表情を消す。 「ソフトもハードもありません」 「スカトロも?」 「ないです」  言下に、いっそ食い気味に返すと、糸井はほっとしたように笑った。 「じゃあ大丈夫です。何してもらっても構いません。大抵のことはお応えできると思います」  待て待て待て待て待て!!  天使みたいな笑顔の前で、糸川は盛大に心のツッコミを入れた。  スカトロを含むハードSMプレイでなければ何でもOKというふうに聞こえたのだが、それは要するに、応えられなかったにしてもそういうことを要求された経験はあるということなんだよね!? (みしまああぁぁ!!)  殺意だけで人を殺せるなら、確実に今糸川は一人殺していた。 「……あ、でも」  固まったまま脳内で残虐な殺戮を繰り広げていた糸川の前で、ふと糸井が表情を曇らせる。 「ハードなわけではないかもしれないですけど……待ち合わせした駅のトイレでイラマだけして帰されるとか、手足縛ってエネマ入れて三時間放置とか、ディルド挿れた横から二輪挿ししようとするとか、イくとき首絞めたりとか、そういうのはちょっと……勘弁してもらえるとありがたいです」  すみません、と恐縮する糸井の前で、糸川は頭から血が引いていくのを感じた。 「……やったことあるってこと?」  聞きたくないのに訊いてしまって、問いを撤回する前に糸井が慌てて首を振る。 「いえ、がんばったんですけど、二輪挿しはどうしても無理で。血みどろになっちゃったんで、そのときは諦めてもらいました。たぶん今でもできそうにないから、もし糸川さんがしたいなら、申し訳な」 「やりたくもないしやらないから!!」  遮るように声を張って、糸川はたまらず糸井を抱きしめた。  無抵抗の糸井を掻き抱いて、深いため息でどうにか爆発しそうな怒りを逃がす。 「……今僕の中で、三島は三回くらいミンチになってる」 「ほぁ、ミンチに」 「ほんとやだあいつ。ほんっとにいやだ」 「……ふ、ふふ」  きょとんとしていた糸井が、糸川の腕に頭を預け、そっと背中に手を回して笑いをこぼした。 「俺……なんとなくわかってます。糸川さんは大丈夫だって」 「……うん?」 「NGラインなんか聞かなくたって、糸川さんは俺に酷いことなんかしないって、わかってます。だって糸川さん、寝ぼけてても俺にすごく優しいから」  くすくすとこらえられないように笑って、糸井は糸川の手をとった。それを糸井の頭に載せて、撫でさせるようにぐりぐりと動かす。 「糸川さん、昨夜寝ぼけて俺に何したか覚えてます?」 「えっ!?」  まるで記憶にないことを問われて、そわっと糸川は心拍数を上げた。  何したか、って何だ? 何言ったか、なら寝ぼけてうっかり口を滑らせそうなことはたくさん胸に溜めている。もちろんそれもまだ聞かせられたものではないが、いったい寝ぼけてどんな行動に出たというのだろう。 「……身に覚えがありません」 「ふふふふふ」 「え、なに、セクハラ的なこと!?」 「あー、会社の女性にやったらアウトかも」 「えぇ!? 最低だよね僕!?」 (泣くほど嫌がることしたってこと!?)  青くなって体を離した糸川を見て、糸井はまだおかしそうに笑っている。 「俺にとってはハラスメントじゃなかったです」  それはどこか、満ちた笑みで。 「嬉しかったので」  きゅうっと、糸川の胸の奥が痛くなった。  泣いたのは、嫌だったからでも、苦痛だったからでもないのかもしれない。  泥酔していたわけでもない、ただ寝ぼけてできたことなんか、たかが知れている。そんな大それたことをしてやれたはずはない。  それでも糸井は嬉しかったと笑うのだ。眉を下げて、愛しげに食み返すのだ。 「――糸井くん」  きっとまだ、糸川から与えられる優しさを、三島から得たかったと思っているのだろう。今ここにいるのが糸川ではなく三島だったらと、思う気持ちがあるのだろう。  三島にされた仕打ちを語るときにだって、糸井は少しも三島を責めようとはしない。そうされた自分を切なく感じながらも、三島への恨み言を吐いたりはしない。  いったいどんな気持ちで、愛されないまま、三島の傍にいたのだろう。何年も。  早くわからせてあげたい。きみはそんな扱いを受けていい人間じゃない。心も体も尊重されるべきで、愛されるべきで、そうしたいと願っている者がここにいるのだということ。 「僕は、きみを大事にするよ」 「……え?」  驚いた顔で見つめられて、しまった、と内心で慌てる。寝ぼけてもないのに口を滑らせそうだ。それを気取られぬよう、糸川はふいと視線を外した。 「ミンチ三島なんかと一緒にされたくないからね」  本音を軽口でくるんだ糸川に、糸井は脱力して笑う。 「……はは、辛辣」  そう言って糸井は糸川に背を向け、ベッドを降りた。 「すみません糸川さん、シャワー借ります」 「あ、うん。どうぞ」  唐突にそう言って、糸井は寝室を出ていく。  ドアを閉める間際、その後ろ姿が目元を拭ったように見えて、糸川は自分の部屋着の胸元を強く掴んだ。  本当だよ。絶対に僕はきみを大事にするよ。  だから早く、心ごとここへおいで。 <END>

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