12 / 62

庶幾と涙 -sideF- 01

――発達した低気圧が太平洋沿岸を通過するため、土曜日の夜にかけて天気は荒れ模様となるでしょう』  最近の天気予報はよく当たる。  金曜の定時を過ぎ、だんだんと重だるくなってきた頭を抱えて、糸井は帰り支度を始めた。こんな日に残業したって効率は上がらない。 「あれ、糸井さんもう上がりですか? って、なんか具合悪そう?」  隣の席の女性社員に覗き込まれて、取り繕う元気もなくげっそりと頷く。 「低気圧がさ……」 「低気圧? 血圧じゃなくて?」 「気圧。週末、天気荒れるよ」 「え、なに予言?」  きょとんとした女性社員の向かいから、同期の男性社員が笑いながら顔を出した。 「出た、糸井予報。こいつ気圧の変化で体調崩すんだよ。気象病ってやつ? 具合が悪けりゃ悪いほど天候も悪くなるらしいぞ」 「えー、なにそれー。糸井さん繊細~」 「うん、繊細なんです俺。てことで帰ります」 「季刊の納期、来週水曜だぞー」 「余裕」  ならよし、と頷いた同僚に軽く手を上げて、糸井は席を立った。  痛むこめかみを指で揉むが、頭痛は和らぐ気配もない。昼に鎮痛剤を飲んだのに。  ああいやだな、と帰り道を歩きながら糸井はため息をついた。どうしてよりによって週末に体調を崩すんだろう。  手にした携帯の、糸川との会話を開く。 『今週末の都合はどう?』 『はい、大丈夫です』 『じゃあまたいつもの時間に』 『了解です』  素っ気ない、セフレとの単なる予定確認のやりとりが、糸井にとってどれほど嬉しいことか、わかる人はたぶんいないと思う。きっとこのやりとりの相手である糸川にすら。  事前に都合を確認してもらえるということ、つまり糸井の都合を尊重してくれているということ。それだけでも、糸井には身に余る贅沢のように感じられる。  さらにその上、ただのセフレである糸井を、糸川はまるで壊れ物のように丁重に扱う。前戯に長く時間を割き、十分に糸井をほどいてから抱いてくれる。お陰で糸川相手に一度も怪我をしたことはない。  融けるようなセックスのあとも、糸井を無碍に追い出したりしない。事後の体を労りながら、しばらく素肌を合わせて、落ち着いたら風呂を貸してくれる。糸井は部屋着を借り、糸川の腕に包まれて同じ床で眠る。  翌日は目が覚めてからもいつまでもベッドの中で、それぞれに携帯をいじっていたり、とりとめもない会話を交わしたり、時にはふと熱が上がって再び抱き合ったりして、日曜の白昼を怠惰に過ごす。  そうしてほぼ丸一日まったりと癒やされて、翌週を乗りきる英気を養ったところで、夕方に「また来週」と別れて帰宅する。  そのルーティンに、もはや糸井は後戻りできないほどにはまりきっていた。  こんなご褒美、一度知ったら手放せる気がしない。自分がこんな時間を過ごせるようになるなんて、思ってもみなかった。  本当は、好きな人と――三島と、と性懲りもなく思う気持ちは未だにある。けれどこんな穏やかな時間は糸川とだからこそ過ごせるのだとも思うし、もし三島とこんな関係になったあとにあっさり捨てられていたとしたら今頃生きていられなかっただろうとも思う。  自分とのセフレ関係を引き継いでくれたのが、糸川で良かった。  出会ってまだ三ヶ月足らずだけれど、そう思うほどに糸井は糸川との週末に満たされていた。  待ち遠しいほどになった土曜を前に、天候不良ごときで体調を崩す自分の体質が恨めしい。糸川は優しいから、体調が悪いなら来なくていいと言われてしまうかもしれない。そうなったら来週まで会えない。 (それはやだ……)  痛むこめかみを指の関節で強く押さえながら、せめて今夜は早く寝ようと糸井は決めた。  土曜は朝から土砂降りだった。梅雨寒の冷たい風に、傘の柄を握る手が悴む。  漢方も鎮痛剤も飲んだし、薬の予備も持った。準備万端で待ち合わせの駅にいつも通り降り立った糸井は、けれどやっぱり少し体調が優れない。  薬のお陰で痛みはないし、立ち歩くことに支障はないが、なんとなく弱い吐き気があって気分が悪い。こんな不調は糸川に気取られないようにしなければ。  そう思うそばから注意は散漫で、駅の軒下で地面に突いた傘の先端を見つめていたら、いつの間にか目の前に立っていた糸川に気づけなかった。 「大丈夫?」  突然声をかけられてしかめっ面に顔を覗き込まれ、糸井は慌てて顔を上げた。 「あ、お、お疲れ様です」  傘を肩にかけて至近距離に立っている糸川は、眉を顰めてどこか不機嫌そうだ。 「どうしたの。顔色悪い」 「いや……あの、全然。大丈夫です」 「その顔色の大丈夫は説得力なさすぎだよ。帰って寝てなきゃダメなんじゃないの」 「あ、の……」  至極真っ当に諭されて、糸井は落胆して俯く。  ああ、やっぱり帰されてしまうのか。役に立てないから。  足元に落とした視界の中できゅっと拳を握ったら、その手を糸川が掴んだ。ぎょっとして振り仰ぐと、糸川はもう糸井の手を引いて歩き出していて、糸井は慌てて傘を開いた。 「ほら、早く帰ろう」  糸川の部屋へ。 「――……」  当たり前なのだけど。糸川が糸川の部屋へ『帰る』のは、そう言い表すのは、当たり前なのだけど。  そこへ糸井が行くことを『帰る』と言ってくれたように思えて、糸井は鼻の奥がつんと熱くなるのを感じた。  まるで、糸川が自室を糸井の居場所として認めてくれたみたいで。 「ほんとはついでにどっかで夕飯食べて帰ろうかと思ってたんだけど。もう寄り道しないでおこうね。お腹減ったらパスタ食べよう。うどんもあるし」  糸川は糸井の手を掴んだまま、少し前を急ぎ気味に歩いていく。傘と傘の間で、繋いだ手が雨に濡れる。傘の端を少し重ねて、歩調を合わせてついていきながら、糸井の気持ちはふわふわと浮ついていた。  ほどなく糸川の部屋に着き、玄関に入るといつも通りに軽くキスを交わす。その後は寝室に直行し、糸川は糸井に部屋着を渡して、自分も部屋着に着替えた。 「体調悪いのは、風邪?」  二人でベッドに潜り込むと、糸井の額に触れながら糸川が訊いてくる。 「いえ、風邪とかではないんです。うつしたりはしないので大丈夫です」 「そんな心配してないよ。仕事疲れ? 睡眠不足?」 「えっと……なんか情けないんですけど、気圧の変化に弱くて。今日みたいに急に気圧が下がったりすると不定愁訴的に」 「ああ、気象病っていうの? うちの姉もそんなこと言ってたよ」 「お姉さん?」 「うん、七つ上にいるんだ、しっかりしたのが」  懐かしむように目を細めて、糸川はひんやりとした指先で糸井のこめかみに触れた。 「姉は片頭痛がひどかったみたいだけど。糸井くんも頭痛い?」 「そうですね……でも鎮痛薬が効くので。痛いというより、なんとなくレベルで気分が悪いというか。甘えですかね」 「そんな精神論じゃ片付かないんじゃない? 姉は『実際しんどい人間が今ここにいるんだからまずは労れ』って言ってたよ」 「わあ。いいこと言う」  糸川の指先が糸井のこめかみをくるくるとマッサージしてくれるのにうっとりと目を閉じて、糸井はふふっと笑う。 「……糸川さんのお姉さんか。美人だろうな」 「んー、まあ外見はね、そうかも。ただ中身がすごく逞しいんだ。姉の話、聞きたい?」 「え……いいんですか」  そんなプライベートに踏み込んだ話を自分が聞いてもいいものかと、驚いて見上げた先で、糸川は飄々と眉を少し上げた。 「あれこれ勝手に話したのがバレたら怒られるかも? まあ大丈夫だよ、弟には甘い人だから」  糸川の手がするりと糸井の横髪を撫で、そのまま耳元を抱くようにした手の親指がこめかみを揉む。  糸井の意図は誤って受け取られたけれど、そんなことは気にもしてなさそうな糸川の様子に、糸井は口を噤んだ。 「姉も、母もなんだけど、うちは女性陣が強くてね。しかもやたら敏くて、僕はカミングアウトもしてないし、向こうも気づいてるとも言わないんだけど、たぶん僕がゲイなのはバレててね。長男はあてにならないって言って、二十代半ばでさっさと婿養子取って実家で同居しちゃうような豪胆な人で」 「へぇー」 「僕はちょうど大学で家を出てたときだったから。『アンタもう実家に帰る場所はないから、しっかり適当に好きに生きな』って、堂々と追い出してくれてね」 「うわ、それってなんか……下手に気を遣われるより、すごく救われますね」 「そうなんだよ。頭上がんないの」  微かに笑って、糸川は糸井の額を撫でる。 「糸井くんちは?」  切り返され、惑って一瞬口元を震わせたあと、糸井は苦笑した。 「……俺んちは、何も面白くないですよ」  中学校で家を出て寮に入った糸井には、家族との思い出というものがほとんどない。もっと昔は何かしらあったのかもしれないが、糸井はそれを覚えていない。  本当にネタになるような話題はなくて、平凡で優しい家族の顔を思い浮かべる。 「至って普通に……盆暮れに帰ったら、結婚はまだか彼女はいるのかって訊いてくるような親ですし。二つ下に、昔やんちゃしてた左官の弟がいるんですが、若くで所帯持って子どももいるんで、何かと引き合いに出されて肩身は狭いですね」 「ふうん、糸井くんお兄ちゃんなんだ」  意外そうに言ったあと、糸川は妙に納得した様子で小さく何度か頷いた。 「僕は糸井くん甘やかしたいのに、あんまり甘えてもらえないのは、お兄ちゃん気質だから甘え慣れてないのかな?」  優しい眼差しが、糸井の瞳を覗く。 「……甘える、なんて……」  顔に血が集まってくるのを感じて、糸井は糸川の胸に顔を伏せた。 「……もう、充分すぎるほど甘えてます」  ただのセフレのはずなのに、セックスもしないで、こんなふうに体を労られて。いつも寡黙な糸川がやけに多弁なのはきっと、役割を果たせないことを糸井が気に病まないよう、気遣って間をもたせてくれているのだ。  どうしよう。幸せだ。この人の傍にいられるだけで、こんなにも。 (どうすれば……手放さずにいられるだろう)  糸川の部屋着の胸元を握ると、糸川は黙って糸井の背中に腕を回して抱き締めてくれた。その背を抱き返す勇気は出ないまま、糸井は強く瞼を閉じる。 (どうすれば……)  静かな寝室に、外の雨音が小さく届く。  背を抱いてさすってくれるその手を、初めて、欲しいと思ってしまった。

ともだちにシェアしよう!