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庶幾と涙 -sideF- 02

 少し眠ったらいいよ、と糸川に言われるまま、少しのつもりが寝入ってしまっていたらしい。随分すっきりした心地で目を覚ました糸井が頭を起こすと、室内は暗くなっていた。  携帯で時間を確認すると、二十時前。二時間くらい眠っていたようだ。  ディスプレイの明かりが眩しかったのか、隣で寝ていた糸川がもぞりと身じろいで寝返りを打った。まだ寝るぞ、という意思表示のように丸めた背中がなんだか可愛い。 (好き、に、なっちゃったんだろうか)  自覚してしまうと、同じ布団にひとつ寝しているこの状況に心臓が高鳴る。  七年以上片想いしていた相手に失恋したばかりなのに、もう他の人を好きになったなんて、節操がないだろうか。いやでも、傷心のタイミングであんなに優しくされてしまっては、惚れてしまうのも無理からぬことではなかろうか。失恋の痛手を癒すのは新しい恋だとも言うし。  あれこれと言い訳を探しながら、糸井は徐々に自分の感情の存在を肯定していく。  ――糸川が好きだ。  認めてしまえば、胸に仄かな明かりが灯るようだった。三島へ注いだ切実な想いとは少し違う、あたたかくて優しい気持ち。  しかし同時に、明確になったその感情は、糸井の中に新しい焦燥を生んだ。自分達の関係の不確かさへの不安だ。  一緒にいたい。叶うことなら先々まで。この人の隣に置いてほしい。  けれど同じ願いが叶わなかった現実を糸井は経験している。  セフレなんかである限り、いつ切られたって文句は言えない。追い縋ることさえできないのだ。もういやだ。あんな思いはしたくない。  だから、糸井はセフレの枠を越えたいと思った。  期待のようなものは持てている。なぜなら、糸川は三島とはあまりに違うからだ。三島の態度が、糸井の扱い方が、セフレに対するそれとして正当であるとしたら、糸川は全然違う。セフレの域は遠く離れて、まるで恋人のように接してくれている。  糸井に恋人はいたことがないから、本当にそうかと言われれば自信はない。けれど、糸川の接し方は糸井が想像上の恋人にそうあってほしいと願う、理想の姿なのだ。  そんなふうに糸井に接してくれている糸川は、もしかして、糸井とセフレの枠を越えた関係になってもいいと思ってくれるんじゃないだろうか。糸井が乞えば、応えてくれるんじゃないだろうか。 「……い、糸川さん」  薄闇に、小さく呼ぶ。糸井の心臓は、糸川に聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに拍動を速めた。 「んー……?」  寝ぼけた、はっきりしない返事。以前、こんな状態での言動を、起きてからの糸川は覚えていなかった。今なら糸川の本音が聞けるかもしれない。  糸井は生唾をのみこんだ。 「糸川さんは、俺とセフレのままでいたいと思っていますか?」  NOと、否定してほしくてそう訊いた。  糸川も今と違う関係を望んでいるのだと、そう答えてほしかった。 「……だからさぁ、そもそも僕はセフレになんかなりたくなかったのに」  けれど、苛立ったように寝返りを打ちながら、糸川は思いもしない声を上げる。 「三島が……無理やり押し付けるから……」 (――え?)  意味を汲み取れずに茫然とした糸井の横で、また糸川はすやすやと寝息をたて始めた。  糸井は糸川の回答を頭で反芻する。  そもそも糸川は糸井とセフレになどなりたくなかったのに、三島に無理やり押し付けられて。  それで、仕方なくセフレをやっていた、ということ。 「………………」  『同情』の二文字が腑に落ちて、糸井は羞恥のあまり崩れそうになった。  三島も三島なりに、長年関係のあった糸井を憐れんでくれたのだろう。いきなり切られては心身寂しかろうと、糸井に糸川をあてがってくれた。  あてがわれた糸川は糸井を押し付けられてさぞ迷惑だっただろうが、優しいから、好きな人に捨てられた可哀想な糸井の相手をしてくれていた。  二人からの同情で成り立っている現状に勝手に幸せを感じて、勝手に期待して、勝手に勘違いした。  誰からも望まれてなどいなかったのに。 (――恥ずかしい)  ついさっきまで高揚していたはずの全身から血の気が引いていく。  もう一秒たりともそこにはいられず、糸井は足音をたてないようベッドを降り、荷物を持って寝室を出た。服を着替え、急用ができたから帰ると書き置きを残し、まだ雨の強い外に出る。  最初の夜に、情事を終えて帰ろうとした糸井を、泊まっていけと糸川が引き留めてくれたことを思い出した。あのとき糸川は、糸井といると癒されるから一緒にいたいと言ってくれた。その優しい言葉を、糸井はまともに受け取ってしまった。  三島との扱いの差を比べるようなことを糸井が言うのを、糸川は嫌った。いちいち同情心が引かれるのがいやだったのかもしれないと、今ならわかる。優しさを強請(ねだ)られているようで鬱陶しかったことだろう。申し訳ないことをした。  それからも、毎週毎週、増長していく自分を糸川はどんな気持ちで見ていたのだろう。優しい言葉を、仕草を、それがただの同情だとも気づかずに浮かれて真に受ける様は滑稽だったに違いない。  そんな姿さえ、憐れに思ってくれていただろうか。  駅に戻り、夕方に通ったばかりの改札を抜ける。ほとんど待たずにやって来た電車は混み合っていて、立ったままドアの陰にもたれて、糸井は車窓の外に目を向けた。  タタン、タタン、と規則的な電車の揺れに身を任せて、何度でも糸川の声を耳に返す。  傷ついた糸井を癒してくれた、支えてくれた、嬉しかった言葉のすべてが、オセロみたいに色を変えていく。  流れていく夜景を見ながら、この先の身の振りを考えた。無理やり押し付けられた迷惑な存在だったとわかったからには、もう会うべきではない。そうでなくとも、早晩終わる関係だったのだろう。 (三島さんに切られたときは糸川さんがいてくれたけど、糸川さんに切られるときはきっと誰もいないんだろうな)  唐突に三島から関係の終了を告げられ、糸川を紹介されたときのことを思い出す。  悲しかったしつらかったけれど、当惑と驚きがそれを凌駕していて、結果的にさほど自暴自棄にはならずに済んだ。非常識なのは間違いないが、あの引継ぎに糸井は救われている。 (――それとも、また誰かに引き継ぎするのかな)  糸川はそういう非常識を考えつくようなタイプではないが、気遣いの人ではあるので、もしかしたら一人で放り出すのを不憫に思ってまた誰か相手を見繕ってくれるかもしれない。 (そしたらまた俺は、抱いてくれる人を好きになっちゃうのかな。この先もそんなことを繰り返すのかな)  そんな想像をしてしまって、自己憐憫のあまり喉奥に苦い笑いが漏れた。 (……惨めだな)  でも、それが自分のわきまえるべき身の程なのかもしれない。今回は変な期待をしてしまったけれど、自分が他人から愛されるような人間でないことは、自分が一番よくわかっていたはずだ。  まして糸川のような相手に不自由しそうもない人が、どうして自分を選ぶなどと思ったのだろう。  右手で自分の左肩に触れて、糸川の体温がもう思い出せなくなっているのに気づく。 (……最後にもう一度だけ、抱いてもらえばよかった)  込み上げるものを抑えきれず、落とした涙が頬に筋を描く。すぐに拭って、糸井は瞼を閉じた。

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