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庶幾と涙 -sideF- 03
それから、糸川からは何度も連絡があった。
帰宅してすぐくらいに、糸井の体調を気遣うメッセージ。
次の木曜には、いつもの週末の都合を尋ねるメッセージ。それに糸井は、予定があるので無理だと返した。
その次の木曜のメッセージには、しばらく忙しいから行けないと。
さらに翌週のメッセージには、糸井は既読すらつけなかった。糸川は何度も話がしたいと送ってきてくれていたけれど、ブロックする度胸もないくせに、通知だけ読んで糸井は携帯を伏せた。
そうしているうちに糸川からのメッセージは来なくなった。ほっとする一方で、寂しくも思っているのだから、勝手なものだ。
でもきっとこれでいい。もとより交わる二人ではなかった。
「……土日が暇になってしまった」
糸川と会うようになるまで、週末をどうやって過ごしていたのかがよく思い出せない。いつ三島から呼び出しがあってもいいよう、特に予定は入れず、基本は自宅で家事や雑事や趣味にいそしんでいたような気がする。
「久しぶりに出かけてみるか……」
糸川と会わない間に七月になって梅雨も明けて、日中は暑くて外出する気になれないが、夕方になって日も落ちてきたから少しは気温も下がったかもしれない。
デジタル一眼レフカメラを棚から取り出し、糸井は部屋から外に出た。
「あっつ……」
日没が近いとはいえ、冷房の効いた部屋とのギャップは大きく、辟易するような暑さだ。しかし見上げた空の見事な夕焼けに、糸井の口元は知らずほころぶ。
「うわぁ……」
無意識にカメラを手に取り、シャッターを切る。夕暮れの町並みと夕陽をファインダーに収めながら、糸井は歩みを進める。
アパートから少し歩くと、うず高い土手があり、そこを越えると遊歩道の整備された広い河川敷がある。四季折々に草花が咲き誇り、糸井はそれらの写真を撮るのが大好きだった。
少し前までは、今頃は糸川の腕の中にいたかもしれない時間。あの幸福と比較することは無意味だけれど、こうして好きなことをして過ごせるのならそれも幸せなことだと、糸井は思うことにした。
三十分ほど撮り歩き、明るいうちに撮れ高を見返そうかと、西日を背にしてコンクリートの階段に腰を下ろす。
可憐なツユクサ、カワラナデシコ、力強く広がるヒメジョオン。逆光の中で影だけが宙に浮いたランナー。自転車を押して寄り添って歩く二人。遠く延びた架線。そして、焦がれるような夕陽。
この美しさを、自分の幸せと呼ぼう。不相応なものに手を伸ばそうとするから傷つくのだ。
自身を納得させるように、糸井はディスプレイを眺め続けた。
不意に、その手元が翳る。反射的に俯けていた頭を上げると、糸井の影を包むように、長い人影が伸びていた。
「糸井くん」
恋しい声に呼び掛けられて、振り向いた。信じられない心地で見上げた先に、糸川が立っていた。
「会えちゃった」
滅多に見せない笑みを浮かべて。
「……なんで……?」
コンクリートの階段をゆっくり降りて、糸川は少し離れて、糸井の隣に座る。
「ストーキングだよ。こういうことをする輩がいるから、定期券の区間は人から見えないようにしておいた方がいいと思うよ」
「え……」
「路線と最寄り駅はわかってたから、あとは糸井くんが休みの日に河川敷を散歩することがあるって言ってたのをたよりに探してみたんだ。半日で見つかったのはラッキーだったなぁ。こんな暑い日に、糸井くんが外を出歩くとも限らないのにね」
運命感じちゃった、などと糸川は笑っている。糸井はどんな顔をすれば良いのかわからずに、カメラを抱いて俯いた。
頭の中で、「どうして」が渦を巻いている。
こちらからの連絡を絶てば、切れてしまうはずの繋がりだった。糸井は自らその繋がりを切って、あとは自然消滅的に糸川とは二度と会えなくなるはずだった。
その糸川が、糸井を探して今目の前に来てくれた。それをどう理解していいのかわからない。
「……糸井くんが来てくれなくなった理由をずっと考えてるんだ」
小さな声が悔いるように呟く。
「でもごめん、わからなくて。何か、糸井くんを傷つけるようなことを僕が言ったりしたりしたんだろうか」
問われ、糸井は糸川に目を向けた。糸川はその表情から笑みを消している。
「そうなら、何をしたか教えてほしい。ちゃんと謝りたい。それで、できることなら許してほしい」
「……許すも何も」
なぜそんなに糸川が必死な様子を見せているのか、なんだか可笑しくなって糸井は苦笑した。
自然消滅は後味が悪かったのかな。几帳面だし、ちゃんと終了宣言しないと気が済まないたちなのかもしれない。あるいは三島から託されている手前、そう簡単には終われない事情があるのかも。
「糸川さんには、感謝しかないです。三島さんに捨てられてつらかった時期に、救ってもらいました。謝られるようなことは何もないです。ありがとうございました」
ならばきちんと終わらせねばと、糸井は糸川に向き直って深く頭を下げた。
感謝は本心だ。糸川が引き継いでくれていなかったら、自棄を起こしてもっと悲惨なことになっていたかもしれない。糸川にいっとき癒された今なら、時間薬で立ち直れる。
しばし下げていた頭を上げると、黙ってこちらを見つめていた糸川と目が合う。いつものように黒縁メガネの向こうでその目は据わっていて、けれど今は難しそうに眉が寄っている。
「なんで……そんなふうに言うの」
糸川の手が、自分の綿パンの膝を強く握った。なぜだか、苦しげに。
「僕に怒ってないなら、どうして? 急用なんてものはそうそう湧いて出ないじゃない。なのに置き手紙だけ残して黙って帰って、それきり会ってもくれない。やっと会えたと思ったら、これで最後みたいに言う。何がいけなかった? せめて訳を聞かせてよ」
懸命な声。聞くほど、糸井の中の惨めさが深まっていく。
「……やめてください」
そんな声で袖を引かれたら、また無駄な期待をしてしまう。勘違いをしてしまう。
あなたには気持ちなんかないとわかっているのに、求められているのではないかと錯覚してしまう。
もういやなんだ。想うばかりで何も響かない片恋なんて。
「……勝手につらくなりました」
絞り出す声に、糸川がぴくりと身じろぐ。
「糸川さんは何も悪くない。俺が勝手に。ひどい思い上がりでした。身の程知らずなことを考えて、セフレのままあなたの傍にいるのがつらくなりました」
こんなことを言えば、糸川には糸井の気持ちは筒抜けてしまうだろう。それもいいかと、糸井の肩の力が抜けた。
どうせ終わるのなら、当たって砕けた方が成仏も容易かもしれない。
「糸川さんから切ってくれていいです。三島さんから押し付けられたセフレに本気になられたって、迷惑もいいところでしょうし」
やっと笑えて、糸井はほっとした。
「好きになって、ごめんなさい」
笑みを湛えて、糸井は奥歯を噛み締める。涙が溢れないように。どんな言葉が糸川から返っても、耐えられるように。
「……そう」
糸川は驚きに目を見開いて、珍しく動揺した様子を見せた。
「そう、か。じゃあ……」
傷つけない言葉を選んでくれているのか、糸川は俯いて口元を片手で覆う。
「……じゃあ、セフレはやめよう」
結局出てきた直截な言葉に、選びきれなかったんだな、とクスッと笑いが漏れた。
「はい」
頷いて、終わってしまったことを腹に落とす。
話ももう終わりだろうと、腰を浮かせかけたところで手首を強く握られた。
「違う、そうじゃない。待って糸井くん」
慌てたように早口で言った糸川が、糸井を引き留めたその手に力を込める。
「恋人になってほしい」
握られた手首に気をとられていた糸井は、糸川のその言葉を、完全に空耳だと思った。
「……は?」
「セフレじゃなくて。ちゃんと、僕と、恋人としてつき合ってほしいです。だめですか」
「………………」
糸井は混乱して、長く沈黙した。
――冗談?
いや、糸川はこのタイミングでそんな悪趣味な冗談を言うタイプではない。
じゃあ本気? 正気なのか? つき合う? 恋人って俺が? 糸川さんの?
「……どう、ですか……?」
あまりに長く無言で固まっている糸井を、不安げに糸川が覗き込んでくる。その頬が紅潮して見えて、どうやら本当に本気らしいと糸井は理解した。
「……嬉しい、です」
「本当!?」
「いやでも、正直、何がなんだかよくわからなくて」
混乱しています、と言いかけた糸井の手首を、糸川がぎゅうぎゅうと握りしめてくる。
鬱血しそうな強さになって、戸惑って糸井が今度は糸川の顔を窺った。
「あ、あの、糸川さん」
「……」
「手がちょっと、痛いんですが」
「……」
糸川は黙って手の力を緩めたが、それを放そうとはせず、俯いて目元を手で隠した。
「……今、すごく抱き締めたいんだけど」
「あ……はい」
「たぶん今僕すごく汗臭いから、できなくてどうしていいかわからない」
「……」
どうやらお互いひどく動揺しているらしい。いつも冷静沈着な糸川がこんなふうになることがあるのか、と思った糸井の方はなぜかすっと落ち着きを取り戻して、手首を握ったままの糸川の手に、反対の手を重ねた。
「俺んち近いですけど……シャワー、していきます?」
「え!? ……いいの?」
「……行きましょうか」
糸川の指をほどいて、糸井は立ち上がる。暮れる寸前の西日が、二人の影を長く伸ばした。
アパートまでの短い距離を、少し後ろを歩く糸川の足音を聞きながら、糸井は信じられないような心地で噛み締めるようにゆっくりと歩いた。
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