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庶幾と涙 -sideF- 04
狭いし片付いてないし、糸川さんちとは全然違いますからね、と強く前置きして、糸井はアパートのドアを開けた。
お邪魔します、と言って部屋に通された糸川は、その部屋を見回して少々驚いたようだった。
「わぁ……すごいね」
糸川の部屋を無機的と評するなら、糸井の部屋は正反対で、部屋の壁一面に設えられた棚には大小とりどりの鉢が並び、天井からもハンギングバスケットが吊り下がり、その室内は植物で溢れていた。
1Kの部屋はさほど狭くはないはずなのだけど、床にも並ぶ大きな観葉植物の鉢により、居住スペースがだいぶ狭められている。
「好きなんですよね……もうこれ以上鉢は増やすまいと思ってるんですけど」
照れたように笑いながら、糸井は手にしていた一眼レフカメラをガラス扉のついた棚に戻した。その中にはレンズがいくつも並んでいて、物珍しく糸川はその棚を眺める。
「はいこれ、着替え、どうぞ。お風呂はそこなんで」
「あ、ありがとう」
「あの……俺んち乾燥機ないんで、洗濯したら乾くの明日になっちゃいますけど……と、泊まるなら、服洗濯機に入れといてください」
お泊まりに誘うようで気恥ずかしく、言い淀んで糸井は俯いた。
「うん……じゃあお言葉に甘えます」
着替えを受け取って、糸川はバスルームに入っていく。その後ろ姿を見送って、糸井は詰めていた息を深く吐いた。
糸川が自分の部屋にいる。なんだか急転直下すぎて信じられない。さっき部屋を出るまで、もう二度と会えないと思っていたのに。
「つき合うって……何だ?」
茫然と呟いて、糸井は糸川からの提案を食み返す。
恋人として、と言われたそれは、まるで交際の申し込みのようだった。いや、まさにそうだったのだろう。
そんな関係を糸川が望んでくれたことが、現実とは思えなくて、糸井は無意識に胸を掴む。
そう言ってくれたこと自体が、同情から来るものだったら。
また糸川に無用な気を遣わせてしまってはいないだろうか。あれは本当に糸川自身が望んで出た言葉だったのだろうか。本当は、糸川にはそんな気はなかったのに、可哀想になってとっさに出ただけの社交辞令だったのでは。
ぐるぐると考えているうちに、糸川がシャワーを終えてバスルームから出てくる。なんとなく顔を会わせづらくて、逃げ込むように糸井はバスルームに入った。
ぬるい湯を頭から浴びて汗を流し、全身を洗い清めたあと、ふと指先が迷う。
(準備……しといた方がいいんだよね)
泊まりに誘ったのはこちらだし、たぶんしない選択肢はない。ここ数週間糸川からの誘いを断り続けていたし、もしかして溜まっていたりするかもしれないし、きっとそういうことになるのだから準備はしておくに越したことはない。
後ろに指を這わせながら、胃の辺りがずんと重くなった。
(……何が違うんだろう)
恋人と言ったって、結局やることはセフレと変わらない。今後も前と同じように、呼ばれたら出掛けていってセックスして帰る、という生活に戻るだけなんじゃないのか。
(……そうだとしても、まあいいのか。俺はその生活で充分幸せ感じてたんだから。今ならもしかしたら、割り切ってもう少しうまくつき合えるかもしれない)
ふっと息をついて、糸井は準備を済ませて風呂を出た。
部屋では、糸川が濡れ髪にタオルをかぶって、Tシャツから覗く二の腕を気にしていた。
「腕、どうかしました?」
糸井も髪を拭きながら、狭いシングルのベッドに座る糸川の近くに寄ると、見上げた糸川が赤らんだ顔ではにかむ。
「日焼けが痛くて。日焼け止めも一応塗ったんだけど、日差しが勝ったみたい」
糸川の腕を見ると、袖の位置でくっきりと色が分かれて赤くなっていた。
「えと……保冷剤で冷やしたりしたらいいのかな? ちょっと待ってくださいね」
糸井は冷凍庫の中から、頂き物のケーキか何かについていた保冷剤を取り出して糸川に渡す。
「ありがとう」
受け取った糸川は、赤くなった日焼け跡に保冷剤を触れさせて、冷たそうに顔をしかめた。紅潮しているのかと思っていた糸川の顔が赤いのも、ただの日焼けだったようだ。
「……半日、俺を探してたって言ってましたよね」
少し離れて、糸井は糸川の隣に座った。
「……うん。気持ち悪いよねぇ」
自嘲して糸川は俯き、糸井は強く首を横に振る。そんなことは思わない。ただ、理解はできていない。
「どうして会いに来てくれたんですか?」
河川敷で会ったときからの疑問を、糸井は糸川に投げ掛けた。
「今日俺が好きだって言ったから、つき合うことにしてくれたんですよね。元々俺とは、セフレにもなる気がなかったんでしょう? 別に俺の気持ちを知る前なら、あのまま切れてたって糸川さん的には問題なかったんじゃないですか」
本来は恋人にするどころか、セフレとしてすら需要のなかった相手だ。それなのにわざわざ休日を潰して、会えるかどうかもわからない炎天下を探し回ってくれたという。その矛盾が糸井の中でどうにも解消しない。
すると目の前で糸川は、呆気にとられたような顔で目を剥いた。
「待って! なんでそんなことになってるの」
ずいっと、糸川が移動して糸井との距離を詰める。
「ちょっと最初から整理しよう。僕が糸井くんと、セフレにもなる気がなかったって? 誰がそんなこと言った?」
いつもの表情筋が仕事していない糸川の無表情からは考えられない表情の変化に、思わず気圧されて糸井は体を引いた。
「い、糸川さんが……」
「は!? 僕!? いつ!」
「最後に会った日の夜に……」
「なんて!?」
「そ……『そもそも僕は』」
答えようとして、喉が詰まる。何度も頭の中に反響した台詞は一言一句忘れていないけれど、己の口で再現するのはつらすぎて。
「『セフレになんかなりたくなかったのに、三島が、無理やり押し付けるから』……って」
泣きそうになりながら、小さくなっていく声でようやく答えると、糸川は取り乱したように額を押さえた。
「そんなこと言った覚えはない!」
「言ったんです! 糸川さんは寝ぼけてて覚えてないかもしれないけど、でもだからこそ本音はそうだったんでしょう?」
詰め寄ると、糸川はうっと詰まって目を逸らす。
「……確かに、間違ったことは言ってない」
「ほらやっぱり……」
「間違ってはないけど解釈違いだ!」
開き直って押し返すように、糸川は糸井の手を握った。
「こうなったら全部言うけどさ! 僕は糸井くんと初めて直接会った日よりも、ずーっと前からきみのことが好きだったんだ!!」
「……え?」
予想外のことが糸川から語られるのに、糸井は唖然とした。
何だって? 会うより前から好きだった?
「これ、けっこう痛い話だから笑い話にできる頃合いまで黙っておくつもりだったんだ。言わせるんだから引くなよ。絶対引くなよ」
この世の終わりみたいな顔色でげっそりと言って、糸川は頭を抱える。
「……三島の持ってた写真のきみに、一目惚れしたんだ。中高生でもあるまいに、それから一年以上ずっと好きだったんだ。三島に何度も糸井くんを紹介してほしいって頼んで、糸井くんのセフレをやめろって口酸っぱく言って、聞き入れられなくてもどうしても諦められなかったんだ。それでこの春に三島の海外赴任が決まって」
はあぁ、と糸川は肩を落とした。
「やっと、糸井くんとのセフレ関係を終えるって言うから、紹介してもらおうと思ったのに。あのカスが、セフレを引き継ぐとかふざけたこと言い出して。僕はきみとセフレになんかなりたくなかったけど、そういう事情でもなきゃ三島に未練持った糸井くんは五年は靡かないとか言うから……僕は……僕もカスだから、あいつの口車にのって……」
肩を落とした糸川はどんどん小さくなって、へたりとベッドに両手と頭をつけた。
「……申し訳ない。五年かかったって僕がちゃんと正規ルートできみを口説くべきだった。きみがつらい思いをしたのは、僕のせいだ。本当にごめん」
「か、顔を上げてください」
糸川に土下座まがいのことをさせていることに気づいて、糸井は慌てて糸川の肩を揺すった。
糸川の語ったことを、まだ十分には頭が処理しきれていない。それを鵜呑みにしていいのかどうかも、まだ判断がつかない。こんな自分に都合のいい話を信じてしまったら、またこっぴどくしっぺ返しを食うのではないかという危惧もある。
それでも、どうしようもなく嬉しさが湧いてしまって、それに流されることに抗えなかった。寝て起きたら夢でしたという落ちであったとしても、悔いはないと思ってしまった。
「俺は……セフレを引き継いでくれたのが糸川さんで、ありがたかったです」
ためらいがちに頭を上げた糸川に、糸井は笑った。笑いながら、涙が溢れたけれど、もう堪えなかった。
「普通に出会ってたら、五年はさすがにあれだけど、三年は三島さんを引きずってたかもしれないと、自分でも思います。そんなに長く糸川さんに抱いてもらえてなかったらって思ったら、すごく勿体なかったです。優しくしてもらえて嬉しかった。そういうふうに接してくれたから、俺はこんなに早く糸川さんを好きになれました」
泣き笑いの糸井を、糸川は神妙な表情で見つめる。
「……随分な話を聞かせてしまったけど……こんなみっともない僕でも、まだ好きだと思ってくれる?」
「もちろんです! 引いてないですよ俺!」
絶対引くなって言ったでしょ、と糸井は笑う。つられるように、糸川も眉を下げて、口元をほころばせた。
「……好きになってくれて、ありがとう」
それは、河川敷での糸井の謝罪に呼応する言葉で。
――好きになって、ごめんなさい。
あの哀しい謝罪を打ち消して受け入れてくれたのだと知って、糸井は言葉なく、糸川の胸に飛び込んだ。
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