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庶幾と涙 -sideS- 01
一際強くなった雨音で目が覚めて、そこにいるはずの糸井の姿がなかったときの焦燥は、他に例えることができないと思う。
「糸井くん……?」
手で探ったベッドの中はほのかに体温を残しているような、気のせいのような、そんな冷たさで。慌てて起き上がってみたけれど、室内に自分以外の気配は感じられなかった。
「い、糸井くん!」
呼び掛けながらリビングに駆け出して電気を点けると、眩しさに目を眇めたその先に、丁寧に畳まれた部屋着と置き手紙を見つける。
『急用ができたので帰ります』
細い筆致で一言だけ記されたそのメモを拾い上げて、糸川は「はあ?」と動揺の声を上げた。
急用って、なんだそれ。この強雨の中、体調が悪いのを押して帰らなきゃいけないような? 一声かけて行くこともできないような?
そんな急用なんかそうそうできるわけがない。これはきっと体のいい言い訳だ。
糸川は携帯を手に取った。嘘なのはほとんど確信していたが、だからといって頭から決めてかかるわけにもいかない。
時刻は二十一時を回ったところ。何時からここにいなかったのかは定かではないが、もう自宅に帰り着いているだろうか。
『今起きたらいなくてびっくりした。急用って大丈夫? 体の具合はどう?』
探りつつ送ったメッセージへの返信は、間もなく届いた。
『大丈夫です すみません』
愛想のなさに関しては糸川もあまり他人をどうこう言える立場ではないが、取りつく島もないあっさりとした返信に、追及する余地もなく糸川はため息をついた。
『大丈夫ならよかった。また来週ね』
『はい』
そんなやり取りで応酬はふつりと切れて、糸川は携帯を置いた。
(……なんか、やらかしたか?)
身に覚えはないが、糸井が何も言わずに帰ってしまったのはおそらく自分のせいだという確信めいたものがあって、糸川は床に座り込んだまま動けなくなる。
(何が嫌だった? ほんとは腹が減ってたのに言い出せなかった? うちにパスタしかないのが嫌だった? ……いや、今さらそんなことで怒る子じゃないだろ。じゃあなんだ? 部屋着が気に入らなかった? いやでもこれいつものだしな)
心当たりが無さすぎて、糸川の発想はどんどん貧弱になっていく。思い出せる糸井はいつも穏やかで、おっとりと微笑んでいて、糸川に何の不満も訴えたことはない。不満を抱えていそうだと感じたこともない。
そうしてあれこれ考えた挙げ句、思考はあまり考えたくなかった結論に行き着く。
(……僕が嫌になったのか)
そうだとして。
いったい何がだめだったんだろう。
糸井の嫌がることはしないよう、傷つけることのないよう、細心の注意を払ってきたつもりだった。
言葉が足りない自覚はあるから、足りないなりに、態度で彼を大事にしてきたつもりだった。
それが重かったのだろうか。糸川とセフレ以上の関係を望んでいない糸井にとっては。
家族の話までしたし、無理強いしたつもりはないが糸井の話も聞き出してしまった。嫌がっている風ではなかったと思うが、あまり積極的に話したい感じでもなかった気がする。それも負担だったのだろうか。
(だって……好きだから。知ってもらいたいし、知りたかったんだ)
そうは思っても、それは糸川側の事情であって、糸井には迷惑だったのかもしれない。
(……また、間違えたんだろうか)
糸井との心理的な距離も縮まってきたように感じていた。嫌われてはいない、むしろ好かれているんじゃないかと自惚れていた。
距離を縮めることを急いてしまった。どうやら糸川はまだ糸井の心へは踏み込めておらず、彼の中にはおそらく三島しかいない。
まだゼロ地点から動いてもいなかった自分の立ち位置を確認して、もっと腰を据えて頑張らないと、と気持ちを新たにした糸川だった。
が。
次の木曜に週末の予定を伺うメッセージを入れたところ、『今週は予定があるので無理です』との返信。そんなふうに断られるのは初めてだった。
先週の件があったので大いに引っ掛かる部分はあったものの、まあ糸井にだって別件の予定が入ることはあるだろうと、糸川は自分を納得させることにした。
しかし、また次の木曜。
同じく週末の都合を訊いたところ、『すみません、しばらく忙しいので行けそうにありません』という返事があり、読んだ糸川は全身の毛穴が開いたかと思った。
これは間違いない。避けられている。
(なんで!?)
もはや糸川はパニックだった。
(好かれてないのはわかった、だけど嫌われるようなこと何かした!? そんなに!?)
そこから糸川は柄にもなく、何度も糸井へ電話をかけ、しつこいほどに「ごめん」「話がしたい」「電話出て」とメッセージを送りまくったが、ついにそれらには既読すらつかなくなった。
「糸川さん、この資料、A4集約じゃなくてA3等倍です! こんなゴマ文字、重役読めません!」
「糸川さん、さっきの電話吉田部長でしたよね? 浜村さんって言ってませんでした?」
「糸川くん、十四時からの会議、招集したの糸川くんよね!? なんで主催者欠席!?」
「糸川、それ俺のパソコンだ。おまえのパスワード入れてもだめだわそりゃ」
「糸川さん、お願い帰ってきてー!!」
いつもは涼しい顔でなんでもこなす有能な社員が無表情のまま信じられないようなミスを繰り返すのに、戦慄した上司はそっと糸川の肩を叩く。
「……ちょっと休め、糸川、な」
その声に、『頼むから休んでくれ』という切実な響きを感じ取るだけの理性が辛うじて残っていた糸川は、金曜の午後に半休を取ることにした。
普段はほとんど乗ることのない平日昼間の空いた電車に揺られながら、糸川はぼんやりと窓の外を眺める。梅雨明けした日中の陽光は景色のすべてを白飛びさせるほどの明るさで、今の糸川には直視に耐えない。
(あー。だめだ。糸井くんが足りない)
物理的にも精神的にも糸井不足に陥った糸川は、頭のネジがおかしくなっていた。
(糸井くん、嗅ぎたい。吸いたい。噛みたい)
もはや願望が会いたいとか話したいとかのレベルではなくなっているあたり、限界は近い。
(……糸井くんは噛むものじゃない)
なけなしの理性がツッコミを入れてみても、気分はまるで浮上しない。糸井の体温を、やわらかい肌の感触を、だんだん思い出せなくなってきているのがつらい。
不意に、電車の揺れと音が変わった。鉄橋を渡る電車の天井に、強い陽射しを受けてきらきらと光る川面が反射する。寝不足の目には眩しくて、糸川は手元に視線を落とした。
握った携帯は、何度中を確認しても既読がついていない。もう糸川と連絡を取るつもりのない糸井の強い意思を感じる。
どうして。何が。
考えすぎてもう頭が回らない。何はともあれもう終わりなんだろうと、飲み込みがたい結論だけが眼前にぶら下がっている。
(どうせ終わりなら……)
鉄橋を渡り終える寸前、顔を上げた糸川の目に青々とした河原が映った。
(……会いたいな、最後に)
それだけを、強く思った。
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