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庶幾と涙 -sideS- 02

 糸井の通勤定期を見たことがある。勤務先と自宅の最寄り駅はわかっている。どちらかの駅で待ち伏せれば会える可能性は高いが、お互い企業人なので、相手の仕事に差し障るリスクは取れなかった。  それでは完全プライベートの時間ならどうだろうか。どこにいるかも全くわからない状況でもし、万が一出会えたなら、最後に気持ちを伝えることくらいは許されるんじゃないだろうか。  やろうとしているのは完全なストーカー行為。気持ち悪がられるだけでは済まないかもしれない。警察沙汰にされたら言い訳もできない。  だけど、このまま気持ちを閉じるには、糸川は糸井を好きになりすぎていた。 (今日一日だけ……これでだめだったらもう絶対に追いかけない。絶対に糸井くんに迷惑はかけない)  それだけは自分に強く戒めて、糸川は土曜の炎天下に飛び出した。  糸井の自宅側と思しきベッドタウンの駅は、わりと大きな川の近くにあり、電車を降りて数分できれいに整備された河川敷にたどり着いた。  コンクリートの階段を降り、まずは川上へ向けて歩く。川風があるとはいえ日陰のない遊歩道は焦げそうに暑いのに、競技用の自転車に乗った人たちやジョギングをする人、散歩の老人など、意外と人通りは多い。  それらを、よくやるな、と糸川は物好きを見る目で振り返った。目的でもなければ、糸川は本来はこんな暑い中外を出歩くような趣味も根性もない。  周りを見回しながらゆっくりと歩き、橋のたもとまで来たら、一度土手に上がって自販機で飲み物を調達する。橋の下の日陰で一休みして、じっとしていても滲み出てくる汗をタオルハンカチで拭っていると、今補給した水分がもう全部出ていったように感じた。これは休み休み行かないと危険かもしれない。  飲み物を欠かさず携行して、日陰を探してこまめに休みながら、橋を渡って今度は対岸を川下に向けて歩く。  宛てなどあってないようなもの。いつだったか糸井が、自宅近くの川縁を散歩しながら写真を撮るのが好きだと言っていた、それだけが頼りだ。  今日来るかどうかなんてわからない。そもそもここではないかもしれない。会える可能性なんて、それこそ万が一レベルだ。  それでも、どうしても、どうにか。  祈るように探し続けて、けれど探し人の姿は見つからないまま日が傾く。 (もう少し……日没まで。日が沈んだら、帰ろう)  土手上の自販機でもう何本目かの飲み物を買って、その場でほとんど飲み干す。そして諦め半分でまた河川敷に戻ろうとして、糸川は西日の中にその小さな影を見つけた。  対岸の階段に腰を下ろして、カメラのデイスプレイを見つめている姿。見間違えるはずがない。  何を考えるより先に、糸川の足は走り出していた。 「糸井くん」  上がった息をなんとか落ち着けて呼び掛けた、その声に振り返った糸井の表情を、糸川はきっと、一生忘れることはない。 「会えちゃった」  そう言って笑えた、心からの安堵も。  ストーカー行為を咎めないでくれた糸井と話を突き合わせてみれば、彼が離れていった原因は糸川の言葉足らずに他ならず、糸川は己の愚鈍さを呪うしかなかった。  糸井のことを何よりも注視していたはずなのに、彼の気持ちが自分に向いていることにも気づかず、自分の気持ちを伝えるタイミングも見誤り、糸井を不安にさせて諦めさせた。  ――好きになって、ごめんなさい。  あれだけはだめだ。絶対に言わせてはいけなかった。あんなことを言わせる前に、ちゃんと話さなければいけなかったのに。 「好きになってくれて、ありがとう」  泣いた糸井にせめてもの謝意を込めて伝えると、糸井はぎゅうっと抱きついて糸川を押し倒してきた。  糸井の匂いのするベッドで、切羽詰まった表情の糸井を見上げると、目を閉じながら顔を近づけてくる。くちびるの接触はすぐに深まって、否応なく興奮を煽られて糸川は糸井の腰を抱いた。糸井も興奮している。  糸井は口淫を申し出てくれたけれど、それは丁重にお断りして、体勢の上下を入れ換える。首筋にくちびるを這わせ、耳朶との境のやわらかい部分を軽く吸うと、糸川は小さく声を上げた。  愛しくて、愛しくて。  もう二度と離したくなくて、糸川は強く糸井を抱きしめた。 「……糸井くん、好き。大好き」  もう隠す必要のなくなった本心を渡すと、糸井は眉をきつく寄せて、両目から涙を溢れさせる。糸川の背の布地を握る、その手が小さく震えていた。 「俺も……大好きです」  受け取って応えた糸井の涙は、まだ止まりそうになかった。   一ヶ月近く触れることができなかった糸井の熱に指先は急いて、互いのTシャツを脱がせて肌を合わせれば、すぐにその肌のもっと奥を探りたくなってしまう。  性急さを自戒しつつ糸井の下肢に直に触れると、既に硬く腫れ上がったそこはしっとりと泣き出した。 「あ、だめ……すぐ出ちゃう……」  困惑したように、赤く染めた目元を隠そうとする様が愛らしい。 「きつい? 一回出しとく?」 「いや……い、いれてほしい……」  初心に恥じらいながら、けれど今日の糸井はとても素直だ。 「……ん、じゃあ後ろ触るね。ローションある?」  問うた糸川に、糸井はあ、という顔をした。ベッド下からタオルとローションを取り出しながら、言いにくそうに口ごもる。 「あの……糸川さんが嫌でなければ、なんですけど……ゴムがないので、生でしてもらってもいいですか」 「!?」  糸川の意向を窺うように上目遣いで訊いてきたその内容に、糸川は耳を疑った。  生でなんて、する方は良くても、もし中で出してしまったらされる側は負担でしかない。糸川はこれまで、ゴムなしで誰かを抱いたことはなかった。 「え、いや、僕は全然構わないけど。糸井くんがよくないんじゃないの? 今からでも僕買ってくるよ?」  据え膳を目の前にしても、糸井のためなら今からコンビニに走るのも全く厭わないつもりの糸川だったが、離れようとした糸川の指をついと糸井の指が引く。 「俺は大丈夫です。それに、もう待てないです」  欲情に濡れた瞳に見つめられ、自ら衣服を解いた裸体が無防備に横たわるのを目の当たりにして、糸川の鉄壁の理性もさすがに揺らいだ。 「お願い……早く」 (……参りました)  内心で糸川は両手を上げて完全降伏した。  ゴムの備えがないということは、糸井はこれまで、この部屋で誰かと――三島と体を重ねたことはないのかもしれない。それ以前に、三島をこの部屋に上げることもなかったのかも。  糸井に招かれてこの部屋に入ったとき、糸川は、この部屋を糸井の内面だと感じた。カメラが趣味だとは三島からも本人からも聞いていたが、園芸が好きだとは聞いたことがなかったから、ドアを開けたときには驚いた。緑が豊かで、静かで、少し寂しい、糸井だけの空間。  そこに踏み込むことができたのが、糸川は嬉しかった。糸井が他人にはあまり明かさないのだろうその内面に、触れさせてもらえたような気がして。  その場所で、備えが整わない中でさえ、糸川を受け入れていいと言ってくれている。  胸が詰まって、糸川はひとつ咳払いをした。 「……うん。絶対外に出すから心配しないでね」  そう宣言した、糸井に負担をかけまいという気持ちは間違いなく本心だった。  ……まさか外に出そうとするタイミングで、両脚で腰をロックされるとは思わなかったので。  二人で冷水に近いシャワーを頭から浴びながら、向かい合って抱き合う体勢で、糸井は糸川の肩口に顔を埋めて小さく震えている。糸川はその背を宥めながら、右手で糸井の後孔を押し広げていた。 「……っ、うー……」  恥ずかしさと異物感に、糸井は呻いて体を硬くする。掻き出す指を深めると、糸井の奥から体温の温さのぬめった液体がこぼれ出てきた。 「ひぅっ……」 「ごめんね糸井くん、気持ち悪いよね。全部ちゃんときれいにするから」 「じ、自分でするからいいって言ったのに……」 「いや、お願いだからこの後始末だけは僕にさせて」 「もう……恥ずかしくて死ねる……」  いたたまれない声で言って、糸井は糸川の首にかじりついた。  中出ししたものを掻き出す処理をどうしても自分がすると糸川は言い張って、自分でできると主張する糸井と真っ向から対立したけれど、出てくるところは絶対見ないという条件付きで糸井は折れ、折衷案で向い合わせの姿勢で行うことになった。  が、それは果たして正解だったのか。  中を掻き回されて喘ぐ糸井の息遣いが耳に近く、震える体に縋りつかれて、正直なところ非常に興奮する。緩んでうねるこの中にもう一度入りたい。しかしそれでまた中出ししてしまってはこの作業の意味がない。  我慢我慢……と頭で念仏でも唱えようかと思っていたら、ふと肩口から横目で見上げてきた糸井と目が合った。とろんと蕩けた目をしている。  これ以上中からは何も出てきそうにないのを確認して、糸川はそっと指を抜き出した。その刺激にも、糸井は片目を瞑って息を詰める。その仕草に愛しさが募って、糸川はシャワーを止めて糸井にくちづけた。 「ねぇ……糸井くん」 「ん……?」 「約束してほしいことがあるんだけど。二つ」  くちびるを触れ合わせたまま、糸川は糸井の潤んだ目を覗く。 「一緒に寝たとき、僕が起きる前に黙って外に出掛けちゃうのは嫌だ。一言でも声かけてからにしてほしい」  目が覚めたら糸井がいなくて、そこからろくに連絡がつかなくなって、もう二度と会えないんじゃないかと本気で思った。実のところ、糸川はそのことがかなりこたえていた。 「……もうひとつ。寝ぼけてる僕から、何か聞き出そうとするのは今後禁止」  真剣な目で言う糸川を、糸井は細めた目で見上げている。 「聞きたいことがあるならちゃんと答えるから。言葉が足りなくて糸井くんが誤解したり傷ついたりしても、寝ぼけてたら何のフォローもできない。傷つけたままになんかしたくないよ。弁解くらいさせてほしい。それもなしに離れたりしないで、お願い」  懇願する声に、糸井はまたぽろりと涙をこぼした。 「ごめんなさい……」 「……怒ってるんじゃないよ。これからも糸井くんと一緒にいたいだけ。泣かないで」  笑いかけて抱きしめても、涙を拭った糸井はまだどこか不安そうだ。  糸井にも笑っていてほしいなと、糸川は思った。 「お風呂上がったら、ご飯食べに行こうか。そういや朝から何も食べてないんだよ僕。食べた帰りにドラッグストアかコンビニにも寄ってー、必需品いろいろ揃えようね」  おどけて言うと、糸井はやっと少し笑って、糸川の背に腕を回した。 「……糸川さん、大好き」  小さな声に、抱いた腕に力を込めて応える。 「僕も大好き」  声にして伝えられる喜びを噛み締めながら、糸川は糸井の濡れ髪にキスをした。 <END>

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