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呪い
見ている最中に、これは夢だとわかる夢を見ることがある。
糸井の場合、それは大抵、悪い夢を見ているときだ。そして夢だとわかったからといって、恣意的に中断できるわけでもなく、何もできずにただその夢を受け入れるしかない。
今も糸井は、夢の中で糸川と肌を合わせながら、これは夢だと自覚していた。
『善がるなよ、鬱陶しいな』
糸川はきっとそんなことは言わない。なのに糸井を抱く糸川は口元を歪めてそう言って、糸井の髪を掴んで後頭部を押さえつけ、顔を枕に押し込んだ。
――いつだっけ、そう言われたのは。
糸井は組み敷かれた自分の姿をなぜか俯瞰で眺めながら、ぼんやりと考えた。
――確か、三島さんのセフレになって少し経った頃だったな。
セフレになった当初は、三島との行為はただ痛いだけだった。糸井はそれまで経験が全くなかったし、にも拘らず三島は糸井を慣らすとか開発するとかの意志がまるでなく、自分本意にしか動かなかったので、快感を得られなかったのは当然と言える。男の体はそもそも男を受け入れるようにはできていない。
それでも糸井はなんとか自助努力で自らを慣らし、少しずつ三島との行為で性感を得られるようになってきていた。その矢先に投げられたのが、善がるなよ、の言だ。
上がる呼吸を抑えて、漏れそうな声に息を詰めて、糸井は痛みと性感を逃がすのに懸命だった。
自分の声が三島を不快にさせるなら、そんなものを聞かせるわけにはいかない。さらに言えば、善がるのがいけないなら痛みを訴えるなど論外だ。
『嫌ならいいよ』
それも三島がよく口にした台詞だ。
いつだって三島は、糸井に何かを無理強いすることはなかった。糸井にはいつも拒否する選択肢が与えられていた。
けれど、その選択肢は現実には選ぶことのできないものだった。
否と、口にすればきっともう次はない。二度と声はかからない。それがわかっていて、三島を好きな糸井に受け入れる以外の選択はできない。
三島もたぶんそれをわかっていた。糸井に選ばせたとしても、拒否することはまずないこと。
三島の好奇心で、男性器に挿し入れられたブジー。後孔に穿たれた数々の異物。壁に背をつけた逃げられない状態で行われるイラマチオ。痛みと恐怖に震え、怯え、竦んでも、糸井は拒まなかった。
三島の望むことは、すべて叶えたかった。何でもできると思った。
それでも。
『……つまんねぇな、おまえ』
三島は心底失望したように、幾度となく糸井にそう吐きかけた。
今思うと、糸井はそう言われることが一番つらかった。
つまらないと言われては、もう何もしようがないのだ。
糸井はずっと必死だった。三島のために、ただその一心で、何にだって耐えられた。
でも、それでもつまらないと落胆されては、もうそれ以上何をどう頑張ればいいのかわからなくなってしまう。
弱い笑みを浮かべて途方に暮れるしかなく、項垂れてただため息を聞かされるその時間が、何よりも苦痛だった。好奇心のままに体を使われている方が、よほど気が楽だった。
そこまで耐えてなお報われることのない時間を、七年間、積み重ねた。
その糸井は今、普通に誰かとつき合うことも、愛されるというのがどういうことかも、まるで見当がつかない。
好きだと言ってくれた糸川に触れることも、離れることも、どちらも等しく恐怖だ。
『……つまんねぇ』
夢の中で糸川は、そう言って糸井に背を向ける。
言わない。糸川はそんなこと言わない。
――でも、今はそうだとしても、この先も言わないかどうかは、わからない。
もし本当に糸川がそんなふうに思うときが来たら。言われたなら。そのいつかを想像するだけで、胸腔が引き絞られるような感覚になる。
そんな事態は、起こるならなるべく遅い方がいい。少しでも先に延ばしたい。
――糸川さんが嫌うこと。するなと言ったこと。絶対にしないようにしなきゃ。
強く心に誓ったところで、糸井は覚醒した。自室の白い天井を瞳に映して、伸びた前髪を掻き上げる。
(……せっかく糸川さんに会える日なのに、嫌な夢見た……)
ぼんやりと体を起こし、澱が凝ったような胸元を両手で強く掴む。
(けど大事なことだ……しちゃいけないことを忘れないように)
三島と比較するようなことを言ってはいけない。ベッドであまり主導的に動いてはいけない。一緒に寝た翌朝、黙って外出してはいけない。糸川が寝ぼけているときに、話を聞き出そうとしてはいけない。
それから――
『……泣かないで』
――糸川さんの前で、泣いてはいけない。
夕方の待ち合わせに向かって、糸井はいつもの電車に乗る。セフレの頃と変わらない、土曜の午後のルーティン。
単調な電車の走行音を聞きながら、糸井はもっとゆっくり時間が流れればいいのに、と思った。時間が経つだけで、いろんなものが変わってしまう。人の心も、糸井自身も。それが怖い。
糸川は写真を見て糸井に一目惚れしたのだと言っていた。要するに糸川の気を引いたのは糸井の見てくれで、それは時間の経過とともに、劣化していく一方のものだ。どうしたって今のままではいられない。
中身も、と糸川は言ってくれるかもしれない。
けれど今まで糸井が糸川に見せてきた姿はセフレとしてのもので、表面的でライトな部分しか見せていない。そういう糸井を好んでいるのなら、ウェットな部分は見せないようにしなければならない。
(……人とつき合うって、大変だな。しちゃいけないことばかりだ)
だけどそれが糸川の傍にいるために必要なことなら、糸井は今、いくらでも頑張れる。
元々自分の基礎と呼べるものが存在しない糸井は、糸川の望むどんな自分にもなれると思っている。
それに、三島のために七年以上、頑張れたのだから。
(でも、あれ……なんか、うまく息が)
できないな、と咳払いをしてもなぜか息苦しくて、糸井は首元に指をかけた。なんだか肺の容量が小さくなったような。
おや、と首をかしげているうちに電車は糸川の家の最寄り駅に着き、糸井は電車を降りる。そして歩き着いた改札の向こうに糸川の姿が見えたとたん、首元の違和感はきれいに霧散した。
「糸川さん!」
こちらに向けて糸川は片手を挙げている。それに駆け寄ると、糸川はいつも無表情な目元をふわりと緩めた。
「お疲れ様」
「びっくりしました。俺より早く着いてたの初めてですね」
「早く会いたくて。しくじったと思ったよ、別にいつもの時間じゃなくたって良かったんだよね。糸井くんの都合さえよければ、もっと早い時間でも、むしろ金曜の夜からでも良かったんだよね」
勿体ないことしたなぁ、と糸川は笑っている。この普段の無愛想さとの大きなギャップに、糸井はすこぶる弱い。
「……でも昨夜も仕事遅かったでしょう。土曜の午前中くらいゆっくりしてください」
もっと会っていたいのは糸井も同じだが、物分かりの良い顔で糸井は微笑んだ。
先週からおつき合いを始めて、平日もコンスタントにメッセージのやり取りをするようになった。そこで知ったのは、糸川の仕事がかなり多忙だということだ。
定時は十八時だそうだが、まずその時間に終わることはない。昨日『帰宅しました』のメッセージを受信したのは、糸井が食事も入浴も終えた二十三時を回った頃だった。
忙しい糸川の負担にはなりたくない。土曜の夕方から日曜の夕方まで、ほぼ丸一日糸川の時間をもらえるのだからそれで十分すぎる。
そう思うのに、糸川は少し不服そうに口を尖らせた。
「糸井くんはもっと僕と一緒にいたいとは思ってくれないんだ?」
恋人同士の他愛もないじゃれ合いのつもりで聞かせたのだろう拗ねたような声を、けれど糸井は受け取り方がわからずに固まってしまう。
正しい応答がわからない。
「え……いや……」
一緒にいたい。それも確かだけれど、そんなこと、口に出していいのだろうか。
そんなわがままな、自分勝手な願望を。
「……俺は、べつに」
そんな不遜な考えは持っていないと、弁解するように糸井は言った。そうしなければ、糸川を煩わせると思ったから。
けれど糸井の返答に、糸川は一瞬驚いたように目を見開いて、それから寂しそうに笑った。
「そっか」
その笑みに判断を誤ったことを悟ったけれど、時既に遅し。
「人にはその人のペースってものがあるもんね。糸井くんのペースに合わせるよ」
「え、あの違……」
「気にしないで。ご飯行こう、何食べたい?」
背中をぽんと叩かれて、話を終わりにされた。悲しませるつもりはなかったと、釈明もできないまま、糸川は気にしない顔で歩き出してしまう。
「この間同僚と行った和定食の店がけっこう美味しかったんだけど、特にリクエストがなかったら行ってみない?」
糸川に気を遣わせているのがわかっているのに、うまく立ち回れない自分がもどかしい。
こんなことではだめなのに。
糸川の情を無駄遣いしたくないのに。
(どうしよう……目減りしてしまう)
贅沢は言わないから。これ以上何も望まないから。お願いだから砂時計の砂はゆっくり落としてほしい。
痛いもつらいも苦しいも、寂しいも会いたいも言わない。暑い寒いだってあなたを煩わせるなら絶対言わない。何でもする。何でもできる。何にだって耐えてみせる。
だから。お願いだから。
(捨てないで……)
できるだけ、で構わないから、長く、傍に置いてほしい。
「……? どうかした?」
足取りが重くなり、遅れをとった糸井を糸川が心配げに振り返る。
「いえ、なんでも」
努めて明るく笑った糸井は、今この瞬間の自分が幸せであることを、疑いもしなかった。
<END>
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