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リライト 01

「十一月二十二日に『いい夫婦の日』なんて語呂合わせを付けたのはいつからなんだろうね?」  鶏もも肉の皮目を焼きながら、少々不満そうに糸川はむくれた。 「昔はそんなこと言われたことなかったと思うんだけど。何でもかんでも語呂合わせで記念日にする、みたいなのがブームになった時期があったのかね」  糸川の誕生日が十一月二十二日だという話で、糸井が何気なく「いい夫婦の日ですね」と言ったのが、糸川は気に入らなかったらしい。  トマトの水煮パウチを鍋にあけながら、糸川の機嫌を損ねるつもりはなかった糸井は困惑気味に愛想笑いを浮かべた。 「何かその語呂合わせに恨みでもあるんですか?」 「だってさあ、会社とかでも話の流れで誕生日がいつか訊かれるじゃない。で答えるじゃない。で、いい夫婦云々、結婚云々、僕とは縁のない話で外野だけ盛り上がるんだよ。それが毎回となるとなかなかうんざりするよ」 「はあ、なるほど」  相槌を打ちながら、糸川さんに誕生日を尋ねる人はどういうつもりでそれを訊いてるんだろう、と少しの不快感が糸井の胸を触る。  女性でも男性でも、糸川にあまり興味を示さないでほしいし、祝う人間は自分だけで十分だ。魅力的な人であることは誰よりもよくわかっているから、無理からぬことなのも重々承知してはいるけれど。 「そろそろ裏返してもいいかもですよ」  糸川の手元を覗いて肉の厚みの半分近くが白く火の通った状態になっているのを確認し、糸井は小さく指をさす。促されて菜箸で重たそうに肉を返した糸川は、きれいなきつね色の焼き目に「おぉ~」と感嘆の声を上げた。 「すごい、この色だけで既に美味しそう」 「肉は大抵焼いただけで美味しいから楽ちんですよね」 「意外と自分でも、人間が食えるものって作れるんだねぇ」 「糸川さん、完全に自炊放棄してましたもんね」  ははは、と笑いながら糸井はミネストローネの鍋をぐるぐるとかき混ぜた。  十月に入った金曜の夜、糸井は仕事帰りに糸川の部屋を訪れていた。糸川が仕事で遅くなるのはわかっていたから、夕飯の支度だけしたら帰るつもりだったのだ。  先週、キッチンと冷蔵庫を使わせてもらう許可は得た。帰宅途中に何か食べて帰ってくるかもしれないけど、それならそれで明日自分が来たときにまた一緒に食べてもいい。  自分が部屋に行くのだから早く帰ってきてほしいとか今夜はこれを食べろとか、糸川の行動に注文をつける気は全くない。それより、今度作ってよ、と言われたことを真に受けて押し掛けてしまったことを、糸川に迷惑がられないかどうかが気がかりだった。  作り終えたらさっさと帰る。それを心得てはいたけれど、買い込んだ食材を携え、初めて合鍵を使って無人の糸川宅に上がり込んだとき、彼の私生活を侵害してしまったような罪悪感に襲われた。  約束もない。頼まれたわけでもない。それなのに一体自分はここで何をしているんだろう。  無意識に脳裏に浮かべたのは三島の顔だった。迷惑そうに歪んだ口元が、糸井の行動を咎める。  ざわ、と背中が寒くなって反射的に踵を返した。調子に乗ってここまで来てしまった自分が俄かに信じられなくなる。来なかったことにして、早くここから立ち去ろう。  そう思ってドアノブに手を掛けたタイミングで、携帯が鳴った。メッセージの受信ではない、音声通話で、相手は糸川だ。  疚しさも手伝って、誰もいない背後を振り返りながら慌てて画面をスワイプして耳に押し当てる。 「もしもしっ」 『あ、糸井くん、今どこ?』 「え、今、えと」 『もしかして僕の部屋?』 「いや、あの……は、はい」  糸川らしからぬ出し抜けな問いに、咄嗟のごまかしが利かずに馬鹿正直に明かしてしまって、そんな自分に落胆する。  でももう帰るから気にしないでくれと、糸井は電話口で頭を下げようとして、けれど糸川は電話の向こうで『やっぱり!?』と嬉しげな歓声を上げた。 『なんかそんな気がしたんだよ、虫の知らせかな、すごくない? 先週僕がご飯作ってとか言っちゃったし、糸井くん早速作りに来てくれるんじゃないかと思ってさ。残業製造機の上司が早退して夕方の打ち合わせもなくなったし、巡り合わせがすごいよ今日』  興奮気味に早口で言った糸川の向こうで、お疲れ様ですと声をかける声が聞こえる。まだ社内なのだろうか。そんなところでこんな電話をかけていていいのだろうか。  ひやひやしながら電話を握りしめていたら、糸川がふふっと笑う声がした。 『すぐ帰るから、待っててね』  じゃあ後でね、と締められた電話は切れて、糸井は呆然と、玄関に立ち尽くす。この時点で今自宅に帰る選択肢はなくなってしまった。  食材の入ったビニール袋を持って、そろそろと廊下に上がる。キッチンへ行き、冷蔵庫を開け、飲み物とマーガリンしか入っていないその中に買ってきたものをしまっていく。 (……待っててね、だって)  先ほどの糸川の嬉しそうな声を耳に返すと、糸井の頬はじわじわと血を上らせた。 (待っててね! だって! 何それかわいいし! 糸川さん、どんな顔して言ってたの!)  奇声を発しそうになって、思わず勢いよく冷蔵庫の扉を閉めると、バタンと大きな音が立って糸井は慌てた。普段からさほど大振りな動作をしない糸井は、自分で大きな物音を立てることに慣れていなくて、そんなことでもおどおどしてしまう。  無駄に冷蔵庫の扉を何度も撫でて、はあ、と落ち着くために小さく息をつく。心臓が、なんだかどきどきしていた。  その動悸はおさまらないまま、糸井は腕捲りをして調理を開始する。大したものは作れないと宣言してあるので、今夜のメニューは切って煮てコンソメ投入するだけのものと、塩コショウで焼いただけの肉だ。それでもきっと糸川なら、大仰に美味しいと褒めてくれるのだろう。  今度は糸井の脳裏に、ちゃんと笑顔の糸川が思い浮かんだ。  よかった。来てよかった。俺が嬉しいだけじゃない、糸川さんも喜んでくれた。俺はここにいても良かったんだ。  まだ糸井には、自信などまるで足りていない。それでも、糸井が自分の思いに沿う言動を取った結果、それを糸川が受け入れてくれたという事実の積み重ねが、少しずつ糸井の中の枷となっている経験を上書きしてくれている。後ろ向きな迷いを、融かしてくれている。  自分を信じられなかったとしても、糸川のことを信じていれば大丈夫だ。そんな強い信頼が、糸井の中に築かれ始めていた。  切った野菜を煮込み、肉の下ごしらえを終えたところで、施錠していた玄関のサムターンが回る音がする。急いで玄関へ向かうと、ちょうどドアを開けて入ってきた糸川が、糸井の姿を認めてやわらかに破顔した。 「ただいま!」  荷物を放り出すようにして広げられた両腕に、何の疑いもなく糸井も両手を伸ばす。 「お帰りなさい」  ぎゅう、と強く抱き合って、決まりごとのように口づける。抱擁の強さに反した触れるだけのキスは、けれどその軽さには見合わない深い愛情を互いに伝える。  ただいま、お帰り、なんてやりとりを、まさか自分が家族以外と交わすことになるとは夢にも思っていなかった。嬉しくて、糸井の瞳がわずかに潤む。そんな糸井の頬を、微笑んだ糸川の指が優しく撫でた。

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