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リライト 02
帰宅して手を洗った糸川は、さっさと寝室に入っていき、キッチンに戻ってきたときには部屋着に着替えていた。仕事用にセットされていた髪もざっくりと崩されて、いつもの休日の糸川だ。
オンスタイルの糸川は、几帳面な性格がそのまま前面に出た感じの隙のなさで、すごくスマートで格好良い。そこにスーツとネクタイが加わると、糸井は緊張して心拍数が上がってしまう。出来るビジネスマンな風貌の糸川は、平たく言ってドタイプである。
ただ、誰の目にも素敵リーマンに見えるのだろう糸川には不安要素もあって、要するに、絶対この人はモテるのだ。
以前から少し感じていたが、先ほどの抱擁で確信した。平日の糸川からは、休日の彼からは感じない香水のような香りがほのかにする。使用している柔軟剤の匂いとも違う、ユニセックスで甘さ控えめなこれは、噂に聞く移り香とかいうやつではないだろうか。
会社で糸川は、香水の香りが移るほど誰かと近くで過ごしているのか。それが男でも女でも、いやだなと思ってしまう。
さらに糸川の誕生日を気にかける人が他にいると聞いて、糸井の中のモヤモヤが濃く広がる。そのモヤモヤを抱えることに、糸井は慣れていなかった。
知ってはいる。これは嫉妬で、独占欲だ。でも、三島との七年間には抱くことのなかった感情だ。三島には最初から他にも相手がいたし、そもそも彼を独占しようという気も、できるとも思っていなかった。
(でも、糸川さんは……俺の、彼氏だよ)
そんなことを考えて、自分の醜悪さに落ち込む。こんな風に心の狭い、余裕のない人間だと知られてしまうのは避けたい。でも早晩ばれてしまう気がする。糸川への好きが駄々漏れている自覚はある。
「あ、ごめん、話が逸れたね。僕の誕生日が何だって?」
肉をひっくり返した糸川が、ちょいちょいとその肉をつつきながら糸井を振り向く。手にしたフライパンの中では、盛大に油が跳ねていた。
「糸川さん、部屋着汚れちゃいますよ」
「うん? あぁ大丈夫、これ今朝まで着てたやつだからこの後洗濯行き。ていうか、糸井くんこそ服汚れちゃうね。なるほど、エプロンって必要だねぇ」
明日にでも買いに行こうね、と糸川は糸井の服の汚れを気にしてくれている。
仕事着にしている黒いシャツは汚れ目も目立たないし、今夜泊まるならこれも糸川の部屋着と一緒に洗濯されることになるから、糸井は特に頓着しない。乾燥機つきの洗濯機で朝には乾いているだろうし、そうでなくとももう糸川の部屋には二組ほどの糸井の服が置きっぱなしになっている。糸井が糸川の服を借りて帰ることもあるので、糸井の部屋にも同じく糸川の服が置いてある。
いつ互いの部屋に急に泊まることになっても困らない。その状況に、つき合ってるんだな、という幸せな実感をする。
「で、話の続きは?」
促されて、幸せな実感に浸っていた糸井ははっと目をしばたたいた。会話が増えたのはいいことだが、口数が増えると本題が進まないというデメリットがあるらしい。
「あ。糸川さんの誕生日まであと一ヶ月半くらいですね、って話ですよね。当日は金曜じゃないですか。糸川さんって、有休取れたりするのかなと思って。仕事忙しいですよね」
「有休? べつに普通に取れるよ。仕事は調整利くし。なに、どっか行く?」
「あの、糸川さんがお好きだったらなんですけど。会社の同僚がこの間温泉旅行行って、すごく良かったって言ってたもんだから」
いそいそと、糸井はポケットからスマホを取り出した。
「色々調べたら、時間的にそんなにかからない範囲で、評判のいい温泉宿がけっこう見つかって。観光も兼ねて、一泊か二泊、一緒に行けたらいいなーなんて思ったんですけど。……どうですかね? あの、誕生日プレゼントってことで、旅費とか全部俺が持つんで」
窺うように提案すると、糸川は糸井のスマホを無言で覗き込んできた。三ヵ所ほどを候補に、ブラウザのタブを切り替えて提示する。黙ったままそれを見つめて、糸川は眉根を寄せてしまった。
気に入らなかっただろうか。いずれも部屋に露天風呂のついた、比較的高価なプランなのだが、一度くらいそういうところに泊まってみたかったし、それが糸川と一緒ならいいなと思っていた。
でも、糸川はそうは思わないかもしれない。男同士で、こんないかにもな部屋に泊まるのは、たとえ知り合いに会うことのない遠方であっても外聞が悪いと思うかもしれない。そもそも温泉など興味がないかもしれない。
「――やっぱりやめましょうか」
半笑いで、糸井はスマホの電源ボタンを押した。
「すみません、忘れてください。なしなし」
笑いながらIHヒーターの火力を落とし、鍋にコンソメキューブを投入する。鍋底から中身をかき回しながら、すぐに調子に乗ってしまう自分につきかけたため息を飲み込んだ。
ちゃんとつき合えたからといって、自分の希望を何でも言って良いというものではない。糸川の都合や嗜好も考慮しなければ。
「うん、ちょっとその案は飲めないな」
糸川も、顎をつまみながら険しい顔で首を捻る。変な話をして不快にさせたことが申し訳なかった。
「あの……」
もう一度ちゃんと謝ろうと、頭を下げかけたとき、糸川がおかしそうに吹き出した。
「だって覚えてる? 僕の糸井くんへの誕生日プレゼント、小さいサボテン一鉢だよ? なのに糸井くんが旅費全額持ちなんて、釣り合わなすぎて受け取れないよ」
「え……」
「僕は二つ目の宿がいいかな。次点で三つ目の。糸井くんは一番どこに行きたい? せっかくだからゆっくり二連泊くらいしたいよね。旅費は折半、向こうで糸井くんが地酒を一杯おごってくれる、でどう?」
下げるつもりだった顔を覗き込まれて、糸井の肩から張っていた力が抜ける。賛同してくれていると理解して、飲み込んでいた息が安堵に漏れる。
「あっ、糸井くん、裏も焼き色こんな感じだけどどう? わりともういい感じじゃない?」
慌ただしく腕を引かれ、糸井がフライパンの肉の様子にOKを出すと、糸川はヒーターのスイッチを切った。
「有休は早めに申請しておくよ。オンシーズンの金曜チェックインだったら、もう予約しておいた方がいいね。ごはん食べたら早速どこにするか決めちゃおう。お皿これでいい? も少し深いのなかったかな」
料理と温泉とで論点がぽんぽん切り替わるのについていくのに一生懸命になっていたら、いつの間にか温泉へは行くことで決定していたらしい。
「一緒に旅行とか嬉しいね。楽しみ」
にっこりと微笑まれて、希望が叶ったにもかかわらずなんだか戸惑いがちに、糸井は笑い返した。
初めて二人で一緒に作った簡単な料理を、糸川はやはり、絶賛しながら食べてくれた。
「自分ちのあのキッチンでできたものとは思えないよ……」
ミネストローネの皿はあっという間に空になり、糸川は席を立っておかわりをよそいに行った。
「そんなに喜んでくれるなら、俺もう少し料理ちゃんと勉強しようかな」
ぽつりと呟いた糸井を、糸川は少し驚いた顔で振り返る。
「え、もう十分美味しいけど」
「でも凝ったものとか全然作れないし。勉強って言っても、レシピ動画見たりするくらいですよ。糸川さんがこれ食べたいって言ってくれたもの、作れるようになれたらいいなって」
「えー、やばい、嬉しいな。僕、好き嫌いはほぼないよ」
「じゃあ作り甲斐ありますね。いろいろ作ってみたいな」
楽しみ、と笑って糸川は席に戻ってくる。
それからしばらく、食に関する話題で盛り上がった。どんな料理が好きだとか、辛いものが得意だとか、知っているようでよくは知らなかったことを擦り合わせていく。
互いの理解が深まっていくことは楽しいことで、食事が終わっても二人は食器を片付けながらあれこれと話し続けていた。
その会話がふと途切れたとき、食洗機に食器を入れながら、糸川が「あのさ」と静かに切り出した。
「誕生日で思い出したんだけど。なんでプレゼントのリクエスト、サボテンだったの?」
柔和だけれど視線の強い表情で改めて問われて、糸井は反射的に笑う。
「……好きなんですよ。俺の部屋、植物だらけでしょ。ちょうどあのサイズのサボテンがほしかったから」
「本当は?」
そうではないだろうと、断定的に遮られて糸井は困惑した。
「本当はあのとき、どんなこと考えてた?」
重ねられて、視線をやや落とす。
「……ガチのやつですか」
「ガチのやつですね」
これははぐらかせそうにないと、糸井は観念して苦笑した。
「……まず、高いものをねだるなんてありえないと思ってました」
「だろうと思った。なんでか訊いていい?」
「金のかかるやつだと思われたくなかったんです。実際豪華趣味もないんで、そこは大丈夫なんですけど」
「安価な中で、サボテンをセレクトしたのは?」
「糸川さんは、興味がないだろうなと思って」
「……まあ、植物全般興味を持ったことはなかったな」
「だから、返せって言われることもないだろうなって思ったんです。――別れても」
白状して、無言で眉を寄せた糸川から目を逸らす。
長くつき合っていきたいと思ってくれていた糸川に対して、失礼なことを考えていたのだと今ならわかる。でもあのときは、糸井なりに必死だった。近く別れがあることを前提に、それをどう引き延ばすかに懸命だった。
「糸川さんとの時間がすごく幸せで、こんなのが長く続くわけがないと思ってました。じゃあ終わってしまったあと、糸川さんとの思い出を、どうやったらずっと持ってられるかなって。そしたら、雪晃なら安いし強いしうまく育てれば十年以上も元気だし、ずっと……大事にできると思ったから」
あたたかい寂寥を胸に返して俯いた糸井の手を、隣の糸川がきゅっと握る。顔を上げると、糸川がなんとも言えない顔をして糸井を見つめていた。
「思い出じゃなくて、生身の僕を大事にしてよ」
拗ねたような口ぶりに、思わず糸井は笑ってしまう。
「今は、そんな風には思ってないんです。本当ですよ。別れる心配もしてない。自信がないのは……これはもう病気みたいなもんだから仕方ないけど」
握られた手を、糸井はそっと握り返した。
「なので、思い出はひとつを大事にしていく方向じゃなく、増やしていくことにしました。雪晃も今度の旅行も、たくさんある思い出のうちのひとつになる予定です。で、いつか思い返すときも、糸川さんと一緒です」
ね、と小首をかしげると、糸川は繋いだ手をぐっと引き寄せて、糸井を抱き締めた。
「もう……参る」
肩口に、糸川は深く顔を埋めてくる。そのくちびるが、強く糸井の首元を吸った。たぶんそこには、紅く痕がついたはずだ。そうして糸川の所有の証が自分の身体に刻まれることが、糸井はたまらなく嬉しかった。
「……シャワー、行ってきていいですか?」
敢えて背を抱き返すことはしないで、小さく問う、それが精一杯の誘い。
「うん……できれば早めにお願いします」
意図を汲んだ糸川が名残惜しげに腕を緩める。解放された糸井はふっと笑んで、糸川のくちびるにそっと口づけた。
<END>
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