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糸井くんとお酒を飲んでみた 01
「変われば変わるものよね」
休憩所で三条にまじまじと顔を覗き込まれて、糸川は思わず体を引いた。
「変わるって、何がですか」
困惑気味に眉を寄せる糸川に、コーヒー片手の三条が笑う。
「そうそう、その顔。これぞ糸川くん、て感じだわ。でもそれ以外のバリエーションが増えたよね、って話」
「バリエーションですか」
「本人は気づいてないのね。すごく感情豊かになったと思うよ糸川くん。表情に出るようになったっていうか」
言われて、思わず糸川は自分の頬に手を当てた。
わりと昔から感情を表に出すのが不得手で、大笑いもしなければ怒りを露にすることもない、起伏の少ない性格だった。落ち着いて見られることもあったけれど、無愛想だとか冷たいとか、好意的とは言いがたい形容をされることもしばしばだ。
しかし自分というのはそういう性格なのだし、変えようと思って変えられるものでもないので、まあ今後もそんな感じで誤解も多く受けながら生きていくのだろうと思っていた。
そういうものだと、思っていたのだけど。
「この間も、すごいご機嫌で誰かと電話しながら帰ってったって聞いたよー。小田ちゃんが、笑顔が眩しすぎて三度見したって言ってたもん。なに、相手はこの間の話の彼女さん?」
組んだ膝に頬杖をついた三条ににやにやと覗き込まれて、その日のことを思い出す。
「……ああ、そんなこともあったかも」
その日は会社を出る際、お疲れ様でしたと声をかけられる回数がいつもより多かった気がする。機嫌が良さそうだったから声をかけやすかったのだろうか。
たまたま仕事を早く切り上げられて、なんとなく糸井に電話をかけてみたら、ちょうど糸井が糸川の部屋に来てくれていたタイミングだった。前の週にご飯を作ってくれるという話をしていたから、早速それを実践しに来てくれたようだった。
ウキウキで帰宅したら糸井が出迎えてくれて、食事も美味しかったし糸井も可愛かったし、言うことなしの幸せな金曜だった。
それからも糸井は毎週末、糸川の部屋に来て夕食を作って待っていてくれている。
「それって詳しく聞いてもいいやつ?」
期待を込めた視線を向けられて、糸川はふっと苦笑した。
「いいですけど、惚気しか出てきませんよ」
「えぇ!? もう興味しかわかないんだけど」
「人の惚気話聞いて楽しいです?」
「必要なのは潤いよー。寄越しなさいよ潤いー」
煽るように手招きをして話を促す三条に、観念して口元を覆う。
「……実は、おつき合いしている人が毎週末、僕のためにご飯を作りに来てくれるようになりまして」
「おっと。スタートダッシュえげつないわね」
「いやまあそれだけなんですけどね。すいません、オチも何もなくて」
「いやいや、深掘りこっからでしょ。なに、お料理得意な子?」
「得意……ということもないようですけど」
「得意じゃないのに? 女子力ひけらかし系かと勘繰っちゃったわ。てことは健気系?」
「健気……。僕の帰宅が終電近くなっても、先に食べずに待っててくれるところとか?」
「えぇ、何それ! そんなの健気通り越してるでしょ。彼女無理してない?」
「無理っ?」
三条からの指摘で、糸川は初めてその可能性に気づいて蒼白した。
どうしても仕事が切り上げられずに終電の一本前で帰宅したのは、先週金曜のこと。予め遅くなることは伝えていたし、先に食べて休んでいてくれればいいとも連絡を入れておいた。
けれど帰宅した糸川を糸井は玄関まで出迎えに来てくれて、作りながらつまみ食いしていたら今になってお腹がすいてしまったと笑って、糸川と一緒に遅い夕食を摂ったのだ。
糸井のその言葉を糸川はまともに信じてしまっていたが、もしかして本当は糸川に遠慮して、何も食べずに待っていてくれたのだろうか。
「そういうこと……全然表に出さない子なんですよね……」
「出さない子ってわかってるなら、なおさら察してあげなさいよ。案外お幸せな人なのね、糸川くんって」
ただただ浮かれていて配慮すること自体に思い至ってもいなかったらしい糸川の様子に、呆れを通り越して心配になった三条は声をひそめる。
「つき合い始めってね、どうしてもいい彼女キャンペーンやっちゃいがちなのよ。相手が好きだからこそね。でもそれを当たり前だと思って感謝や思いやりを忘れたら、あっという間に愛想尽かされるわよ……喜多さんのようにね」
「! ……喜多課長、離婚調停中って……」
「事例は至るところに転がってるわ、学ぶのよ糸川くん。そしてきちんと彼女の本音を吐き出させてあげるのよ。たまにガチの聖人がいるけど、そうじゃないならそれなりのケアが必要よ。理解したなら今週末は定時で上がりなさい」
「Yes, ma'am」
他に誰もいない休憩所でひそひそと身を寄せ合い、小さく敬礼した糸川を、三条はサムアップしたその肘で軽く小突いた。
三条の言いつけ通り、その週の金曜、糸川は無事に定時上がりを果たした。朝礼でも今日は私用のため定時で帰宅すると宣言しておいたし、何かと付き合わされがちな上司のスケジュールは別の案件で埋めておいた。今日納期の仕事も全部片付けた。万全の態勢である。
「じゃあ、お先です」
声をかけて席を離れると、お疲れ様でしたと返してくれる同僚の視線がやたら優しかった。何かが漏れているのだろうと悟らざるを得なかったが、そんなことより今日は糸井だ。
会社を出て駅へ向かいながら、糸井へメッセージを送る。定時で上がれた旨を伝えると、ほどなく糸井からもちょうど仕事が終わったところだという返信があった。
『良ければ駅で落ち合わない?』
そう誘ってみたけれど、糸井からは先に帰宅しておいてくれとの返信。
『買い出しをしてから部屋に行くので』
そういえば毎回、糸井は近所のスーパーで夕飯の食材を買ってきてくれているのだ。
『買い出し一緒に行くよ。荷物持たせて』
感謝も込めて申し出ると、糸井からは『では駅で』と返信があり、糸川は帰路を急いだ。
最寄り駅に着き、以前の待ち合わせ場所だった南口の楓の木の近くに立っていると、ほどなくして糸井が改札を抜けてきた。
「お疲れ様です」
小走りに駆け寄ってくる、その存在まるごと愛しく思う。
「なんか、ここで待ち合わせするの、けっこう久しぶりだね。最近糸井くんが先に僕んち来てくれてるから」
「そういえばそうですね。前は毎回迎えに来てくれてましたけど、最近はめっきり……」
「え、待ってよ、なんかそれ僕が糸井くんに対して無精になったみたいじゃない」
「うそうそ、冗談ですよ」
軽口を叩いて、糸井がおかしそうに笑う。それを見た糸川の口元にも、自然と笑みが上る。
以前のようなどこか一線引いた態度ではなく、打ち解けて接してくれるのが、糸川には何よりも心地よかった。
駅からすぐのスーパーに着くと、糸井が買い物かごを手にする。それを横から取り上げると、糸井は一瞬驚いたように糸川を凝視し、ふわっと笑った。
「ふふ。荷物持ち?」
「あ、うん、そう。今日は何買うの?」
「うーん、何食べたいですか?」
「そうだねぇ。寒くなってきたし、温かいものがいいな。鍋とかどう? 手間?」
「いや、全然手間じゃないです。むしろ楽でありがたいです」
「この間さぁ、会社の人と鍋の話題になってね。今って鍋つゆの種類とか、すごいいっぱいあるんでしょ? 一人鍋用の小さいパックとか。味変えたら毎日鍋でもいいんじゃないかって思ったの。野菜切るくらい僕にもできるでしょ」
「えっ、まさか糸川さん、自炊に目覚めちゃう感じですか」
「やー、目覚めるまではいかなくても、なんか多少は。糸井くんも僕の食生活気にかけてくれてるしさ」
「えーすごい、あの糸川さんが進化してる」
「あのってどのよ。言っとくけど冷凍庫のストックは健在だからね」
笑い合いながら、かごに鍋の材料を放り込んでいく。
ふと飲料コーナーを通りかかって、糸川はそのラインナップを見回した。ビールやチューハイなど、缶のアルコール飲料が並んだ一角だ。
――きちんと彼女の本音を吐き出させてあげるのよ。
三条姐さんの親身なアドバイスが耳に返る。そういう手があるんじゃないか、と糸川は思い立ってしまった。
「糸井くん、ちょっとちょっと」
手招きをすると、隣のペットボトルコーナーでジンジャーエールを手にしていた糸井が顔を上げて寄ってくる。
「何……あ、お酒? 飲みます?」
「うん。糸井くんも一緒にどう?」
「え、俺ですか? 俺はいいですよ、ほんとに弱くて迷惑かけると思うし」
「その、弱いってのがどの程度なのかをね、僕としては知っておきたいんだよね」
尤もらしいことを言って、糸川は顎をつまんで見せる。
「どっか痛くなるとか、体調が悪くなるわけじゃないんだよね? 味が嫌い?」
「いえ……体調とかは大丈夫だし、嫌いでもないんですけど。でも大した量じゃなくても酔っぱらうし……」
「あ、無理に飲ませるつもりは全然ないんだけどね。どうせなら僕と二人でいつでも寝ちゃえる状態のときに、自分の酒量の限界を知っておくのがいいんじゃないかと思ってね。自己防衛のためとか、いろいろ」
「はぁ……なるほど」
怪訝そうに眉を寄せていた糸井だったが、最終的に糸川の提案に頷いた。
「めんどくさいことになっても、ちゃんと介抱してくださいよ?」
苦笑いした糸井に、「お任せください」と糸川は胸を張る。そして二人はアルコール度数が低めのものをいくつか見繕い、かごの中に運んだ。
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