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糸井くんとお酒を飲んでみた 02

「カンパーイ」  掲げたグラスを軽く触れ合わせて、二人は初めて、ビールで乾杯をした。  帰宅してすぐに糸井は料理を始め、糸川は風呂の支度をして先に入浴した。下ごしらえができたタイミングで交代して、今度は糸井が風呂に入る。  そうしていつ寝てしまっても大丈夫な状態で、初のサシ呑みを開始した。 「あー。なんか糸井くんと一緒にお酒飲めるって嬉しいな」  一気にグラスの半分を飲み上げた糸川が、上機嫌で取り皿と箸を上げる。まずは一口でグラスを置いた糸井は、その向かいで申し訳なさそうに頭を下げた。 「すいません、いつも我慢させてましたよね」 「そんなことないない。毎日晩酌してたわけじゃないし、一人で飲むのもたまにだよ」  オール電化の部屋では災害時にお湯も沸かせないからと、糸川の母と姉から持たされたまま存在も忘れていたカセットコンロをキッチンの片隅に発見したのは糸井で、その上でこの家で一番大きな金属鍋が湯気を上げている。  こんなふうに糸井と鍋を囲むことができるなら、これまで必要性も感じていなかった土鍋というものを買ってみてもいいかもしれない、と糸川は思った。  トマト鍋やレモン鍋など、変わり種の鍋つゆも売られていたのだが、とりあえず今夜はスタンダードな寄せ鍋。柔らかく煮えた白菜と白ねぎと、生姜の効いた鶏団子が絶品だ。 「やっぱり、寒くなると鍋いいね。野菜美味しい」 「ほんとですね。簡単だしあったまるし」 「一緒に食べると余計に美味しいよね」 「は、い、……ですね」  照れて顔を赤くした糸井が、ビールを口に運ぶ。糸川と比べると亀のスピードではあったけれど、なんだかんだで糸井のグラスも空になった。 「糸井くん、甘いの平気? カクテル系とかも試してみる?」 「あ、じゃあ、いただきます」  グラスを持ち上げた糸井にピーチテイストのカクテルを注ぐと、口をつけた糸井は物珍しげに目を見開いた。 「お酒っぽくない。ジュースみたいですね。飲めちゃいそうで怖いな」 「度数はかなり低いけど、それでもお酒だから様子見ながら飲んでね。あ、さっきジンジャーエールも買ったっけ。ビールをジンジャーエールで割っても飲みやすくて美味しいんだよ」 「へぇー。お酒ってあんまり飲んだことなかったし、興味もなかったんですけど、いろいろあるんですね。ビール苦いなってくらいしか思ったことなかった」 「僕も詳しくはないけど、なんとなく飲みたくなる日もあるからさ。嫌いなわけじゃないなら、たまには少しつき合ってもらおうかな」 「ふふ。俺で良かったら」  眦を下げて笑った糸井は、度数の低い酒をまだグラスに一杯半ほどしか飲んでいないのに、もう頬から首にかけてがほんのり赤くなっている。口調もいつもより緩慢になって、少し舌足らずになっているのがかわいい。確かに酒に弱いらしい。  けれど嫌いなわけではないという言葉通り、食事の合間にちょこちょこグラスを口に運んでは、美味しそうに目元を緩めていた。 「会社の飲み会とかでも全然飲まなかったの?」  スローペースながら空になったグラスに三杯目を注ぎ足しながら何気なく問うと、糸井は頷く。 「三島さんとの酒で失敗して以来、一切飲まなかったですね。それこそ自分の限界がわからなかったから、外で記憶飛ばしたりなんかしても困るし。それに――」  言いかけて、糸井は言葉を飲んだ。気づいた糸川は、何かその先に大事な言葉があるのを察知する。 「それに?」 「あ、いや……」 「何? 気になるよ。言って?」  強く促され、余計なことを言った、というように糸井は後ろ首を掻いた。 「――やっぱり少し、怖かったんですよね。お酒が原因だってわかってても……自分の記憶がなくなることが」  小さな声。伏し目がちにくちびるを震わせた糸井の姿に、糸川は手にしていた箸を置き、咄嗟に糸井のグラスを手で塞いだ。 「ごめん」 「え?」 「軽率だった、僕」  まるで気が回っていなかった。糸井が普段から酒を断たっている理由。  弱いから、という本人の言を鵜呑みにして、糸井にとって『記憶をなくす』ということがどれほどの恐怖を伴うのかを考えもしないで。  たまには少しくらい羽目を外したっていいだろうとか、飲み慣れれば強くなるとか、そんな一般的な物差しで糸井を測ろうとしていた自分に気づく。  わかったつもりになって思いやっている気になって、実は少しも足りていなかったのではないか。 「無理させてるよね」  急に血相を変えた糸川の様子に戸惑って、糸井は困ったように笑う。 「え、お酒ですか? 大丈夫ですよ、アルハラで訴えたりしませんって」 「酒のことだけじゃなくて。食事作りに来て待っててくれたりすることも、他にも僕の気が回らないだけでいろいろ。僕が能天気に喜んでるときも、本当は糸井くんは」 「いや、待って待って」  不安が溢れた糸川を遮って、糸井は首を振った。 「無理をしてるつもりは、本当にないんです。食事はどうせ自分の家でも作ってるものだし、糸川さんに食べてもらえるのが嬉しくて、俺が好きでやってることです。他にいろいろって言われてもよくわかんないですけど、糸川さんと一緒にいて、無理なんかひとつもしてるつもりないですよ」 「……本当に?」 「そうです。……むしろそんなふうに俺のやることに罪悪感みたいなの持たれたら、やんない方が良かったのかなって後悔するし……その方がきついです」  視線を落としてしまった糸井に、今度は糸川がかぶりを振る。 「やらない方がいいとかは全然! 思ってないから!」 「……だったら良かった」  顔を上げてふっと笑って、糸井は糸川の手元から自分のグラスを奪い返した。 「お酒もね、限界を知っておくのは必要だなって自分でも納得したから飲む気になったんですよ。糸川さんと一緒に気兼ねなく晩酌できたらって思うし、実際二人で飲んでみたら美味しいし楽しいです」  そう言って糸井は、グラスに八割ほど残っていた酒を一息に飲み上げる。 「い、糸井くん大丈夫?」  それまでのペースを乱す飲みっぷりを心配する糸川をよそに、糸井はにこにこと笑みを湛え、音を立てて空のグラスをテーブルに置いた。 「……それにね、もし俺が、飲みすぎて記憶飛ばしたとするじゃないですか。でもぉ、糸川さんと二人ならね、ちゃんと糸川さんが覚えててくれるでしょ? 後で教えてくれるでしょ?」 「うん、そりゃまあ」 「だからぁ、まいっかなーって。糸川さんがいれば安心かなーって、思ってるの」  ふらふらと、頭の位置が定まらなくなってきた糸井は、テーブルについた両手で体を支え、頭を傾けて上目で糸川を見る。 「……だめかなぁ?」  子どもみたいな口調で問いかける糸井に、糸川はやっと笑いかけることができた。 「だめじゃないよ」  思いの外、大きな信頼を寄せてもらえていることを知る。糸井は、その記憶を糸川に預けられるなら安心だと言ったのだ。  糸井にとっては人一倍大事なはずのそれを、委ねてもいいと。 「ふふっ」  笑いかけられて安心したように、糸井は子どもっぽく笑い、そのままテーブルに突っ伏した。糸川が呆気にとられていると、間もなく寝息が聞こえてくる。 「糸井くん……一気は良くないよ」  苦笑して、糸川は糸井の頭に手を伸ばし、くしゃっと撫でた。 「……あと、お酒はグラスに二杯までね」  小言が聞こえてはいないだろう糸井が、返事をするように眠ったままへらっと笑った。

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