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十一月二十二日 01

 十一月二十二日、金曜日。本日は、糸井の恋人である糸川宗吾の記念すべき三十歳の誕生日である。  二人はそれぞれ有休を取り、今日はこれから隣県の温泉宿へ一泊の小旅行をする。  初めて好きな人と恋人関係になれて、その人と旅行に行けることになって、糸井は嬉しくてこの日が楽しみで仕方なかった。  けれどその一方で、先週のことを思い出すと何度だって、穴があったら入って一生出てきたくない気持ちになる。  先週末、いつものように糸川の部屋で食事をするときに、酒を飲んだ。糸井にとっては、八年近く口にすることのなかったアルコールだ。さほど度数の高いものではなく、ペースもゆっくり、自分がどのくらいで酔っ払うのかを確かめるような飲み方だった、のだが。  途中で、糸川に要らぬ気遣いをさせてしまっているのではないかと思って、焦ってしまった。  ――ごめん、軽率だった、僕。  血相を変え、そう言って糸川は、糸井のグラスの口を塞いだ。  ――無理させてるよね。酒のことだけじゃなくて。食事作りに来て待っててくれたりすることも、他にも僕の気が回らないだけでいろいろ。  そんな風に糸川が自身を責めることに、糸井は驚いてしまった。  糸川に何の非があると言うんだろう。こんなに良くしてくれていて。こんなに幸せな思いをさせてくれていて。  糸川が罪悪感や負い目を感じているとしたら、それは自分のせいでしかないではないか。  ちびちびと、これ見よがしに飲めないアピールをするような飲み方をしていた自分に平手打ちをしたいような気持ちで、糸井は糸川の手元から取り返したグラスを一気に呷った。  そこから、しばらく記憶が抜けているのだけど。  次に意識が戻ったとき、糸井は糸川の肩に担ぎ上げられていた。お姫様抱っこじゃないんだなぁ、と残念に思っていたら、それがそのまま口から漏れていた。  そこからは、何だか思考がそのまま言葉になって出ていくようで、半分夢現なふわふわした気分のまま、欲求のままに糸川を誘って。抑えた優しさよりも、糸川の激情が欲しくて。  めちゃくちゃにして、と自分が懇願したことも、果たしてその言葉通りにされたことも、翌朝の自分がしっかり記憶していたことに糸井は死にたくなった。 (何、を! 俺は! 一体何を!)  あああ、と糸井はもう何度目かに赤面して頭を抱えた。  いっそ覚えていなければ幸せだったのかもしれないが、一気飲みで一時的に酩酊状態が深まったにしても、記憶をなくすには酒量が足りなかったらしい。  糸川は鷹揚に笑って、気にしなくていいと言ってくれたけれど。  それでも、糸井の気のせいかもしれないけれど、その翌日の夜のセックスは、いつもよりなんだか少し意地悪で、……やらしかった、気がする。 (あああ……あんなことがあった翌週に温泉旅行とか……!)  羞恥で溶けてしまえるなら、もう糸井は骨まで跡形もなくなっていただろうと思う。  と、アパート近くの通りで佇んでいた糸井の目の前に、ハザードランプを点けたコンパクトカーが静かに停車した。 「お待たせ」  助手席の窓を開け、運転席から声をかけてきたのは糸川だ。  都心からは離れた鄙びた場所にある温泉宿なので、車移動の方が自由が利くだろうと、今回の旅は糸川がレンタカーを運転してくれることになった。糸川は普段から、仕事で社有車を運転することがあるらしい。  ちなみに糸井は、大学時代にサークル仲間で写真撮影へ繰り出すときに運転を交代することがあったくらいで、社会人になってからは免許証は身分証明書としてしか役に立てていないペーパードライバーである。 「ごめんね、待った?」 「いえ、さっき来たところで」 「今日天気はいいけど寒いね。あ、荷物もらうね」  運転席から降りてきた糸川は、糸井の持っていたボストンバッグをひょいと取り上げて後部座席へ運び入れ、流れるように助手席のドアを開けてくれた。  こういう、何を狙っている風でもなくそつなく動けるところは、同じ男として糸井は思わず感心してしまう。大学時代、サークルには女子も所属していたが、男連中の誰一人として車のドアを開けてエスコートするなんてことはしていなかったように思う。 「どうぞ」 「あ、すみません」 「ドア閉めるよ、脚気をつけて」  気遣いながら、バンと勢いよく閉めるのではなく、一度緩く閉めてからドアを車体に押し込むようにして閉めてくれる。  乗り込んだ助手席側のドリンクホルダーには、カバーのついたホットコーヒーが置かれていた。 「コンビニコーヒーだけど、よかったら」  そう言う糸川のスマートなこと。なんて紳士なんだろうと、もはや見とれるのを通り越して、糸井はマナー講習でも受けているような気分になった。 「……彼氏が一二〇点すぎて、俺もうどうしていいか……」 「ん? なに?」 「いえ、こちらの話です……」 「? じゃあ行こうか」  そう言って、糸川がおもむろにいつもの黒縁メガネをサングラスに掛け替えるのを見て、糸井はいよいよ萌え死ぬかと思った。 「途中、停めてほしくなったらいつでも言ってね」 「あっ、はい」 「寒くない?」 「大丈夫ですっ」 「……なんか緊張してる?」 「えっ」  運転中の糸川を見やると、ちらりと糸井に視線を寄越し、ふっと吹き出すように笑う。 「もしかして、先週のことまだ気にしてるの?」  そんな風に笑われて、糸井はまた耳まで真っ赤になってしまった。 「いや、あの……」 「何度も言うけど、酔った糸井くん、ただただ可愛かったよ。あんな感じで甘えてくれるなら、毎週だって酔わせちゃいたいくらい」 「ま、毎週?」 「……ふふ。でもそうやって糸井くんがぎこちなくなっちゃうのは本意じゃないから、無理に飲ませるつもりは全然ないけどね」  運転中なので、糸川の視線はこちらには向かない。こんなに彼の横顔ばかりを眺める機会も滅多にないかもしれない。  見慣れないサングラスの下の、いつもあまり大きく見開かれることはない、据わった瞼。それを縁取る、意外と長い睫毛。初対面のときは冷徹そうに見えたその表情は、今は糸井の前で穏やかに綻んでいる。  ハンドルを握る骨張った手が、糸井に触れるときどれほど優しいか。抱き締めてくれるその腕が、どれほどあたたかいか。  骨身に沁みてよく知っているから、糸井は糸川が愛しくて、望まれるなら何にだって応えたいと思う。 「……糸川さん」 「うん?」 「本日は、お誕生日おめでとうございます」 「うん、ありがとう。どうしたの、改まって」 「……地酒、奢りますね」 「楽しみにしてる」 「あと……」  応えたいけれど、やっぱり自分から申し出るのは恥ずかしくて、糸井は車窓の外へ視線を逃がす。 「俺のことも贈るんで、もらってやってください」  呟いた瞬間、糸川が大きく咳き込み、車体が僅かに揺らいだ。 「ごほっ……。あ、うん。全部もらう」  咳払いをしながら、糸川は左手を伸ばし、糸井の膝の上の右手を握る。  前を向いたままの糸川の頬が赤くなっているのがわかって、糸井は少し、嬉しくなった。

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