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十一月二十二日 02

 裏手に川の流れる温泉宿に着き、チェックインのために糸井は受付カウンターの前に立った。今回の宿は、糸井の名で予約している。  名前や住所を書き終え、受付の女性が鍵を差し出してくれるのを受け取ると、その女性がカウンターの横に掲示されたポスターを指し示した。 「本日十一月二十二日、『いい夫婦の日』にちなみまして、この週末にペアでご宿泊された皆様に、お箸をプレゼントする企画を催しております。よろしければお色をお選びになりませんか」  へえ、と思ってポスターをよく読めば、『ご宿泊のカップルの方へ、夫婦箸を贈呈いたします』と書かれている。サンプルの写真も、女性用の短い箸と男性用の長い箸とが色違いで対になっているもので、男女のカップルが想定されていることは明らかだった。  そんなものを勧められたということは、やはりこんな温泉宿に二人で訪れた自分達の関係を見透かされたのだろうかと、血の気が引く思いで糸井は首を振る。 「いえ、僕らはそういうのは……」  断ろうとしたところで、斜め後ろにいた糸川に肩を叩かれた。振り向くと、にっこりと糸川は笑って、一歩前に踏み出してくる。 「こちらの箸は、両方男性用のものでも大丈夫なんですか?」  問うた糸川に、受付の女性は相好を崩さずににこやかに頷いた。 「はい、もちろん承ります」 「だって。糸井くん、せっかくだし記念にいただこうよ」 「え……」 「お色はこちらからお選びいただけますので、お好きなものをどうぞ」  カウンターに箸の色見本を広げられ、糸川はそれをうーんと覗き込む。 「僕は、これにしようかな。『瑠璃紺』だって、色の名前が風流だね。糸井くんはどうする?」 「あ、えぇと……じゃあ、『常磐緑』で」  選ぶと、受付の女性はメモを取り、「かしこまりました」と頷いた。 「そうしましたら、お選びいただいたお色でご準備いたしまして、チェックアウトの際にお渡しさせていただきます。変更などございましたら、いつでもお申し付けください。どうぞ、当宿でのお時間、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」  糸井が当惑しているうちにチェックインは済み、部屋へ移動するためにエレベーターに乗り込む。 「さすが、受付の人はプロだねぇ」  感心したように言ったのは糸川だ。 「ゲイカップルにもきっちり平等に接してくれたね」 「……俺たちが、いかにもそういう風に見えたってことですよね」 「さあ、どう見えたかは知らないけど。今時珍しくもないんじゃない、男同士女同士」  糸川はあっけらかんと言うけれど、自分と同性カップルとして糸川が見られてしまったことが申し訳なく、糸井の視線は地に落ちる。  やっぱり男同士で温泉旅行なんて言い出さなければ良かった。糸井がわがままを言わなければ、糸川がそんな目で見られることもなかったのに。  俯いて黙り込んだ糸井の左肩に、ふと糸川が手を添える。何か慰めてくれようとしているのだろうかと、糸井が振り返った瞬間。 「はうっ」  真顔の糸川の人差し指が、糸井の左頬にめり込んだ。 「ははっ、引っ掛かった」 「糸川さんっ!」  古典的ないたずらを成功させて無邪気に笑う糸川に、怒りながらもつられて糸井も笑ってしまう。 「もー……」 「だって、青い顔してわかりやすく落ち込むからさ。僕もそろそろきみの思考パターンが読めてきたぞ。ゲイカップルだとバレて僕に悪いとか思ってるんでしょ」  笑いながら図星を突かれ、糸井はうっと詰まった。 「誰がそんなこと気にするの。向こうはプロなんだから、ゲイも不倫も見慣れてるさ。大して特殊でもない僕らのことなんか記憶に残らないし、滅多に来ない旅先の従業員に知られたところで僕は何も困らないよ」  本当に何も気にならない様子で、糸川はからっと笑って、糸井と腕を組んだ。 「そんなことより、初めての旅行だよ。気にせず楽しもうよ」  エレベーターのドアが開いても、糸川は腕を組んだまま歩きだす。部屋までの廊下は無人だったけれど、きっと他の宿泊客がいたって、糸川はその腕を放さなかっただろう。  なんだか胸がほんのり温もって、糸井は部屋の鍵を開けた。  予約していたツインの部屋は、広いローベッドが二台置かれた和室と、清流が眺望できる露天風呂つきのバルコニーに面した洋室があり、開け放たれたクローゼットには浴衣と丹前が二組用意されていた。 (浴衣……)  夏の花火大会の日に着て以来、それには少し苦い思い出がある。けれどその蟠りは解消したはずだ。  しげしげと眺めていたら、後ろから手を伸ばしてきた糸川が、糸井のコートを脱がせてきた。 「さて、さてね」  そのコートをクローゼットに掛けると、糸川はいそいそと糸井を内風呂の脱衣所へ連行していく。その脱衣所から、露天風呂のあるバルコニーへ出られるようになっていた。 「早速だけど、一緒にお風呂入ろ」 「えっ。早速ですか」  部屋付き露天風呂のあるプランを予約したときから、糸井もそこで糸川と一緒に入浴するところを想像したりはしていた。ただ、その想像では辺りが暗くなった夜の時間で、薄暗い風呂の中で秘め事っぽく触ったりしているうちに……みたいな、しっぽりしたシチュエーションだった。  けれど今はまだ夕方で、だいぶ日が短くなってきたとはいえ日没まではまだ時間がある。こんな明るい中では、糸川はあまりそんな気にはならないかもしれない。  なんだか残念なような、不埒な想像をしていた自分が恥ずかしいような、半分苦笑いで糸井は入浴を承諾した。  バルコニーに出ると、裏手の清流のせせらぎと循環式の吐水口から流れる湯の音だけが響く、静かな空間。二畳弱ほどの広さの檜風呂に並んで浸かると、覚えずため息が漏れた。 「お疲れ?」  微笑んだ声で問われて、糸井は顔を拭いながら笑みを返す。 「糸川さんこそ、ここまで運転してくれて疲れたでしょう。今日休み取るのに、今週仕事も忙しかったんじゃないですか。大丈夫でした?」 「うん、大丈夫。楽しみすぎてだいぶ前から仕事調整してたから」 「ほんとですか。楽しみにしてくれてたなら良かった。途中、運転交代できなくてすみません。最近運転してなくて、自信なさすぎました」 「いいのいいの、最新のエコカー運転できて楽しかったし」 「お礼に肩揉みします。後ろ向いて」 「え、ほんと? やったぁ」  申し出た糸井に、糸川は嬉しそうに背を向ける。膝立ちになってその肩を揉んでいると、糸川のうなじを見下ろすという珍しいアングルなことに気づいて、糸井は糸川の後ろ姿をまじまじと観察してみた。  脱ぐと意外に筋肉質な、逞しい糸川の肩。俯いていても薄く浮き出た肩甲骨。その間の、背骨に沿って腰までまっすぐに延びた窪み。  触りたくなる背中だ、と思ったら、急に心拍が上がった。  まだ夕日は暮れきらず、外は十分に明るい。  それでも、抑えのきかない疚しい拍動は速度を上げ、惹かれるままに糸井は糸川の肌にくちびるを寄せてしまった。 「糸井くん肩揉み上手、……っ」  糸井が糸川の後ろ首に口づけた瞬間、糸川が息を詰めたのがわかった。ゆったりと糸井に身を任せていた体が、俄かに強張る。  けれどその行いを咎められなかったので、糸井は糸川の背中に胸をつけて寄り添い、その首筋に舌先を這わせた。  マッサージを放棄して、糸川の胸に腕を回し。耳の下のやわらかい皮膚をちゅるっと吸うと、糸川が首を反らして振り返った。 「……肩揉みを、してくれるんじゃなかったの」  間近で覗いた困惑げな糸川の瞳の中に、濡れた欲情が点ったのが見えた気がして、糸井の肌が予感に粟立つ。 「糸井くんは明るいと嫌とか外じゃ嫌とか言いそうだと思って、せっかくお行儀よく過ごそうと思ってたのに」  そう言って糸川が糸井の後ろ首を引き寄せ、噛み合うようなキスは最初から深まった。

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