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十一月二十二日 05

 普段の寝起きは良い方の糸井だが、翌朝は目覚ましの音が鳴ってもなかなか起き上がれなかった。  夜中まで繰り返し睦み合った、その後遺症の倦怠感が酷い。三十路に片足と両足を突っ込んだ男二人が、あまり無茶をするものではない。  とはいえ、体がしんどい一方で心身の充足感もすごくて、糸井は隣で眠る糸川の寝顔を覗き込んだ。  ちょっと髭が生えている。本人は自分の髭面が好きではないらしく、布団から出られたらすぐに洗面所へ直行してしまうのだけど、実は糸井はそんな糸川の姿も気に入っている。糸川の無精髭姿を見られるのは、休日午前中を共に過ごす者だけの特権だ。  出会ってからは八ヶ月、付き合い始めて四ヶ月。その間に数えきれないほど抱き合ってきたのに、未だに糸井は、まるで片想い中みたいに糸川にときめいてしまう。  昨夜の糸川――浴衣をはだけさせて少し強引に抱き締めてきたあの糸川は、思い出すとちょっと心臓に悪いくらい格好良かった。こんな人が自分の恋人で、自分を好きだと言ってくれるなんて、夢みたいだと今でも思う。  でも、夢じゃないことも知っている。彼の隣にいられるのが、どれほど幸せなことかも。  糸川を起こさないよう、そっとベッドを抜け出す。けれど乱れた浴衣の裾を糸川が敷いていたらしく、離れていく気配に目が開かないまま糸川の手が糸井を探した。 「どこ、行くの」 「あ……すみません、起こして。部屋の露天、もう一回浸かってこようかと思って」 「んん……今何時?」 「まだ七時です。寝てていいですよ」 「うん……起きるよ、もう起きる……」  そう言いながらも、やっぱり糸川の瞼は上がらない。糸川なりに何やら睡魔と闘って身じろいだりはしていたが、糸井が眺めている間に動かなくなった。 (かわいいなぁ、もう)  くすくす笑いながら、糸井はバルコニーへ向かった。  浴衣を脱いで、目に入った自分の身体にぎょっとする。何かの病気かと思うような、無数の紅い鬱血。姿見に映してみれば、それは胸元から背中、腰まで続いていた。  厚着の季節だから誰に見られる位置でもないけれど、さすがにその数には糸井も若干引いてしまう。  でも、その跡の一つ一つが糸川の情の現れだと思うと、やっぱり嬉しい。愛されていることを実感できる。  いやそれにしても限度が、とは思いつつ、昨日は二人で入った浴槽に一人で浸かり、手足を伸ばすと昨夜の運動で緊張したきりの体がほぐれていく。だらっと浴槽の縁に頭を預けると、裏手の清流のせせらぎが心地よく耳に届く。  しばらくぼんやり過ごしたあと、ふと頭をそらして内風呂の方を見やると、やっと起き上がれたらしい糸川が半分寝たまま洗面台の前で歯磨きをしていた。  その次に見たときには、鏡にものすごく顔を寄せて髭を剃っていて、さらにその次に見たときには、寝癖を直してメガネもかけて、いつもの糸川になっていた。 「ギャップ萌えー」  糸川が整っていく様を段階的に追うというのがなんだか楽しくて、服を着ながら糸井は笑ってしまう。 「ギャップ? なに?」 「いいえー別にー」  何のことかわからない顔で目を瞬く糸川が浴衣を着替えるのを待って、二人は朝食に向かった。  バイキング形式の朝食をのんびりと摂り終えると、チェックアウトの時間が近づく。名残惜しさを感じつつ帰り支度をし、荷物を持ってフロントへ行き、チェックアウトを求めると、受付の女性がにこやかに応対した。 「糸井様、この度はご宿泊ありがとうございました。こちらにご準備させていただいておりますが、お色に間違いはございませんでしょうか」  カウンター下から女性が持ち出したのは、チェックインのときに色の希望を尋ねられた夫婦箸。化粧箱の中には、瑠璃紺と常磐緑の男性用箸が二膳、並んでいた。 「はい……間違いありません」 「左様でございますか。お包みしますので、少々お待ちくださいませ」  箱は蓋を閉じ、丁寧に和紙の包装がかけられ、糸井に手渡される。 「また是非、お二人でお越しください」  神妙な心境で受け取った、その箱がやけに重く感じて、糸井は女性に頭を下げた。  少し離れて待っていた糸川に歩み寄ると、さりげなく糸井の荷物を受け取って、駐車場へ促してくれる。歩きながら、喉元に何か引っ掛かっているような感覚を、糸川にわかってもらいたくなった。 「……箸、いただきました。両方男物の、長いのが二膳入ってました」 「そう」 「また是非、って言われました。また二人で、って」 「うん」  その感覚を、どうにも言葉では伝えあぐねる糸井を、糸川は目を細めて振り返る。 「それは、嬉しいね」 「……」  優しい糸川の声に、糸井は戸惑って足を止めた。 「……嬉しいこと、なんですかね」  二人の関係が露見すること。その上で、思いがけず認められたこと。それを、どういう感情で受け取ればいいかがわからなかった。  単純に喜んでしまってはいけないのではないか。引き換えに、糸川の何かが犠牲になっているんじゃないか。  そんな考えが、まだ抜けない。  覚えず瞼を伏せてしまう糸井の背中を、糸川が軽く叩く。 「いいよ、ゆっくりで。大丈夫」  抜け出せない糸井のこともまた、糸川は理解していた。 「先は長いんだから」  ふふ、と笑って、糸川は助手席のドアを開けてくれる。  ほんの少し笑い返すことができて、糸井は車に乗り込んだ。  宿からの帰路、二人は植物園に立ち寄り、喜んだ糸井は夢中になって園内を撮り歩き、糸川は糸井の様子を微笑ましく見守りながら少し離れて後を歩いた。  夕刻になって植物園を後にし、土曜の夜はいつも通りに糸川の部屋で過ごし。  そして日曜の夕飯を食べ終えて、糸井は帰り支度を始める。  金曜から、とても楽しかった。またいつか、糸川と旅行に行けたらいいなと思う。そのときには、変な卑屈さを卒業して、糸川の隣に堂々と立っていられるだろうか。  糸川の部屋から帰るときは、いつも駅まで糸川が送ってくれる。一人で帰れるといつも言うのだけど、その見送りは頑なに続けてくれている。  今回は荷物も多かったので、それを糸川が半分持ってくれて、駅まで歩いた。 「今回はありがとうございました。楽しかったです」  いつも別れる楓の木の下で、糸井は持ってもらっていた荷物を受け取ろうと、糸川へ向き直る。手を差し出すけれど、糸川はその荷物を糸井に渡そうとしない。 「あのさ、糸井くん」  帰りの電車の時間まではまだ余裕がある。そのことを腕時計で確かめてから、糸川は何か決意したような眼差しで糸井を見つめた。 「旅行、僕もほんとに楽しかった。いつも家で過ごすのとはちょっと違ってて、誕生日を一緒に過ごすこともできて、ほんとに嬉しいなって思った」  張り詰めた声に、糸井にも緊張が伝播して思わす拳を握る。 「……はい」 「だから、今すごく、離れがたいなっていうか。帰したくないっていうか。……正直僕は、毎週こうやってきみを駅まで送りに来て、一人で自分の部屋に帰るときも、実はけっこう、すごく寂しい」  選びながらの糸川の言葉が熱を孕んで、届いた糸井の耳を赤く染めていく。 「ずっと糸井くんと一緒にいたいんだ」  いつもほとんど何にも動じることのない糸川の顔色も、今ばかりは紅く火照って。 「……僕と一緒に、暮らしませんか」  そんな言葉を、まさか自分が誰かから言われるなんて夢にも思ったことがなくて、喜びよりも困惑ばかりが胸に湧く。  言われた言葉とその意味を何度も頭の中で反芻しながら、糸井はただその場に立ち尽くした。 <END>

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