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星に誓いを 02

 クリスマスイブは平日。  年末の忙しい時期ではあったが、この日ばかりは定時で早々に帰宅する社員が多く、糸川がその流れに乗って席を立つと微笑ましく見送られた。  いつもとは違う駅で待ち合わせ、一足先に着いた糸川が待っていると、少しして糸井が改札を出てくる。  きょろきょろと辺りを見回している糸井に向けて手を上げると、気づいた糸井がこちらに駆け寄りながら破顔した。 「すみません、お待たせしました」  寒さに鼻先を赤くしたその笑顔につられて、糸川もマフラーの下の口元がゆるんでしまう。  あぁもう、なんでこんなにかわいいんだろう。小さくしてポケットに入れてあったかくして連れ帰ってしまいたい。 「大丈夫、さっき来たとこ」  糸川が笑いかけると、糸井は面映ゆそうにはにかんで、糸川の横に並んで歩きだした。 「今日は冷えますね。お店、ここから近いんで」 「うん」  目的地の方角を指差した手袋のない手が冷たそうで、握って自分のポケットに招きたくなるけれど、さすがにそれは我慢する。  少し歩いて到着したのは、カウンター数席にテーブル席、奥に個室の座敷もある、明るい雰囲気の小料理屋だった。 「すみません、クリスマス、って感じのお店ではないんですけど」  店の引戸を開けながら、糸井が苦笑する。  今日この店を予約したのは糸井だ。店構えを見て、なんだか糸井らしいチョイスだなと納得する。 「この間、会社の同僚に連れてきてもらったんですけど、ご飯が美味しくて。あと、お酒も美味しいらしいです。俺は乾杯ビールしか飲んでないんでよくわからないんですけど」 「うん。いいお店だね」  言い訳を連ねるように早口になる糸井に、糸川は穏やかに笑いかけた。  確かにこの店なら、仕事帰りの男二人が、クリスマスイブに二人きりで夕食をとっていても、誰の目にも不自然には映らないだろう。  周囲の目に敏感な、糸井のそういうところを糸川はよく知っている。  温泉旅行のときもそうだった。宿の人から夫婦箸をプレゼントすると言われ、糸井はひどく困惑していた。自分達はそんな間柄ではないと、虚偽の弁解をしようとしていたから、思わず糸川が割って入った。  糸川を見た、糸井のすまなそうな目。おそらく彼は、自分が誰かからどう見られるかより、自分と一緒にいる糸川がどう見られてしまうかということに、引け目を感じている。  それが、糸井が糸川の気持ちを大事にしてくれていることの顕れであることもわかっている。だから、糸川を思いやってくれている糸井の気遣いを否定することはしたくないし、ゆっくりでいいとも伝えている。  ゆっくりでいいから、糸井がそんな引け目を感じずに済むようになるといい。  それまではこんな風に、気兼ねする必要のない場所を選んでいけばいい。それで糸井の負担が少しでも軽くなるのなら。 「この間ね、このタコのカルパッチョを頼んだんですけど、すごく美味しくてね。糸川さんにも食べてもらいたいなって思ったんです」  通されたこぢんまりとした座敷で、うきうきとメニューのページを繰る糸井の手に、そっと手を重ねてみる。  冷えていそうに見えた指先は意外とあたたかくて、ほっとすると同時に、驚いてこちらを振り返った糸井の顔にくちびるを寄せた。 「っ……」  くちびる同士を触れ合わせて、押し当てて。離れ際に下くちびるを少しだけ食んだら、糸井が息を詰めた。 「……ちょ、糸川さん……」 「うん?」  顔を離すと、耳まで真っ赤になった糸井が、片手で顔を隠して俯く。 「……やめて。勃つから」 「…………ぶふっ」 「笑い事じゃないってば!」  もぉー、と怒ったような照れ顔がとてもかわいい。  やっぱりこの子とずっと一緒にいたいな、と、糸川は強く思った。  食事もお酒も非常に美味で、酒量を過ごさないようにするのがなかなか大変だった。  糸川は、明日は早朝から泊まりで地方出張だ。なので、せっかくのクリスマスデートだけれど、今夜は食事だけ。  ほろ酔いのいい気分で外に出ると、キンと冷たい空気は澄んでいて、雲の合間に星空が覗いていた。 「糸井くん、星が見える」  上を向いたまま喋ると、息が白く煙って昇って消える。 「ほんとだ」  同じ方向を向いた糸井がそう言って、こちらを向いて笑う。 「きれいですね」  その笑顔が、滲んで見えた。  きみが。  きみがいたから、俯いて靴先を見つめるばかりだった冬の夜道で、星空のきれいさに気づくことができた。  夏の夕陽も。秋の紅葉も。  なんでもない日常が色づいて、鮮やかに彩られて。平凡でつまらない自分の生き方も、悪いもんじゃないように思えてくる。  きみを大切にしたい自分が、それだけで価値を増すように思えるんだ。  不足を抱えたきみが、僕にとっては満点だから。何も足りてなくないと、自信を持って伝えられるから。  満ちるまで、伝え続けるから。 「……傍にいさせてよ」  小さな呟きははっきりとは届かず、糸井は「え?」と耳を寄せて問い返す。  その糸井の袖を、糸川は引いた。 「糸井くん、少しだけ遠回りしませんか」 「え……でも明日早いんじゃ」 「少し。付き合って」  駅までまっすぐの道を少し逸れて、控えめな電飾の光る並木道を歩く。  人通りのない道沿いのバス停のベンチに、糸川は腰を下ろした。その右側をポンポンと叩き、糸井を招く。  隣に座った糸井の左手を闇夜に紛れて握り、糸川は自分のコートのポケットに入れた。 「……一緒に住む話も、これも、嫌なら断ってくれていいんだ」  前置いて、糸井の目は見られず空を仰ぐ。  曇りがちな天気だけれど、その隙間には先ほども見た星々が瞬いていた。 「ただ、僕はこの先もずっと、きみと一緒に生きていきたいと思ってる。これは、そういう意味です」  ポケットの中で、繋いだ手をいったん離した糸川が、再び糸井の指に触れる。  その感触に驚いた糸井がポケットから手を抜き出すと、その薬指には、銀色の指輪がはまっていた。 「……え……」  呆然と自分の左手を見つめて、言葉をなくした糸井。その目の前に、手品の種明かしでもするように、糸川は自分の左手を差し出す。  その手にも、揃いの指輪が光っていた。 「驚かせてごめん。引いた?」  反応のなさに苦笑した糸川が顔を覗き込んだ瞬間、糸井の瞼がぼろっと大粒の涙を落とす。 「ひ……引かない。嬉しい。嬉しいです」  涙は後から後から糸井の頬を濡らし、糸井はぎゅっと握りこんだ左手を胸に抱いた。 「俺も。……俺も、ずっと糸川さんと一緒にいたいです。糸川さんと、一緒に暮らしたい」  堰を切ったようなその切実な声は、答えを保留するしかなかったあの時にはどこかに押し隠されていた、もうひとつの本音のように聞こえた。  何か、その声を止めるものが、糸井の中にあったのだ。あるいは、今もなお。  それでも、糸井はそれを越えてきてくれた。越えさせてしまった。 「……うん。そうしよ」  糸川は、包むように糸井を抱き締める。  糸井の勇気に報いたい。後悔はさせたくない。 「絶対、幸せにするから」  誓いをひとつ、二人の間に置く。  時折雲に隠れながら、白い輝きは空から二人を見下ろしていた。 <END>

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