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スタンド バイ ユー -side F- 01
――僕と一緒に、暮らしませんか。
温泉旅行のあと、そう誘われた糸井の頭に真っ先に浮かんだのは、嬉しさよりも何よりも家族のことだった。
糸川と一緒に暮らすとなれば、今住んでいる1Kの部屋からは引っ越すことになる。転居先の住所を知らせなければならないし、一人の家ではないのだからルームシェアしていることも話さなければならない。
きっと相手についても訊かれるだろう。男だと言えばきっといい顔はされない。早く結婚して所帯を持って、普通に幸せになることを望まれているのはわかっている。
そういう諸々に伴う精神的な負担の方を、糸井は反射的に優先させてしまった。
――すみません。少し待ってもらえませんか。
口に出し、糸川の落胆を見て失策を自覚した。気にするなと言ってくれたけれど、糸川だってそれなりに考えた上で同棲を提案してくれたのだろう。それを無下にするようなことを言ってしまったのだ。
悔やんだけれど、かといって安易に保留を撤回することもできず、ひと月経ってしまった。
その間、糸川は出張が続き、糸井自身の仕事も立て込んで、これまでほどの頻度では会えなかった。会えたときにも、糸川はその話題には触れなかった。
待ってくれている、待たせてしまっている。それがわかっているのに、逡巡するばかりで答えが出せなくて。
けれどクリスマスの夜、糸川がくれた指輪を見て、彼の覚悟の強さを知った。
本当に自分と、この先も一緒にいてくれるつもりなのだ。
今までだってそれを疑っていたわけではない。でも、形として示されて、実感が迫った。応えたい気持ちが溢れて、涙になった。
自分次第で、ずっと一緒にいられる未来があり得るのかもしれない。それなら、その手を取らない選択肢はない。
――俺も、ずっと糸川さんと一緒にいたいです。糸川さんと、一緒に暮らしたい。
溢れたのは紛れもなく本心で、口に出したからには、糸井は実現のために行動しなければならなかった。
髪を切って、身なりを整えて。二泊分の荷物をキャリーに詰めて、糸井は大晦日の新幹線に乗り込んだ。
盆以来の帰省となった実家には、両親と弟の明信、その息子たち二人がいた。明信の妻である麗奈と、十月に生まれたばかりの末娘の風花は、年末は麗奈の実家に帰っていて、明日の元旦にこちらに顔を出すそうだ。
日中に糸井が散々遊び相手をし、夜十時を過ぎてスイッチが切れた甥っ子二人は、二階で眠ってしまった。
居間には期せずして家族四人が揃うことになり、その中で一人ビールを飲んでいる明信は、末娘の愛らしさについてしつこく演説を繰り広げている。
「いやもうほんと、三人目は孫みたいに可愛いとか聞いてたけど、女の子はマジやべえわ。光太も海斗も赤ちゃんときはそりゃ可愛かったけど、なんか抱っこしてもふにゃっとやわいし、泣き声も男と違うんだよ」
「もう風花ちゃんにメロメロだな明信は」
「既に嫁に出すこと考えただけで泣ける……」
「さすがにそれは気が早すぎん?」
「兄貴も実物見たらわかるって。完全に地上の天使よ風花は」
「えー、どうしよ明日、覚悟して会わないと」
弟の娘自慢を微笑ましく聞いていると、こたつの向こうで紅白をBGMにみかんを剥いていた母が、糸井に向けてにっこりと小首をかしげた。
「いいものよ、子どもって」
その一言に、糸井は『来た』と身構えた。
帰省のたびに一度は説かれる、結婚の勧めと子を持つことの素晴らしさについてだ。
「子どもが育つと同時に親も育つのよ。昔無茶した明信も、すっかり三児のパパだものね。文明はいないの、誰かいい相手」
穏やかに問われ、糸井は瞼を伏せた。
わかっている。母が糸井の幸せを願ってくれていること。結婚して子どもを持った自分が幸せだからこそ、同じ幸福を子どもにも持たせてやりたいと思っていること。
糸井だって、結婚して子どもを持つ生活、その幸福を疑ってもいないし否定もしない。
ただ、それが自分には縁がないというだけだ。
「……実は、引っ越しして一緒に住もうと思ってる人がいるんだ」
口にした瞬間、母はみかんを剥く手を止め、明信はビールのグラスを音を立てて置いた。
「そうなのっ?」
「マジか兄貴!?」
「えー!」
これまで空気のようにただそこに座ってテレビを見ていた父まで、急にテンションを上げる。
変な期待を持たせてはならないと、慌てて糸井は首と手を振った。
「違う、相手は女性じゃないよ。一緒に住むのは、ルームシェアっていうか」
否定した瞬間、三人ともあからさまに落胆した。
「なーんだー、父さんびっくりしちゃったよ」
「てゆーか、もうすぐ三十になんのに、まだダチとつるんで遊ぼうっての? 兄貴ちょっと甘えすぎじゃね?」
「まあいいじゃないか、文明は文明のペースで将来のことは考えてるさ。なあ?」
眉をひそめて糸井を糾弾する明信と、糸井を擁護して笑う父。その一方で、母は硬い表情を見せる。
「……相手はどんな方なの」
何か、妙な空気だと思った。
「普通の……勤め人だよ。俺より一つ上で、ちゃんと自活してて」
「そうじゃなくて」
遮った母は、険しい顔で詰問する。
「あなたとどういう間柄なの」
再度問われて、何か母は察しているのだと感じた。
嫌な具合に脈が上がる。
おかしな関係ではない、勘繰るようなことは何もないと、はぐらかしてしまいたい。その方がきっとお互いにとって平穏だ。
だけど、糸川のために、ちゃんとすると覚悟を決めたのではなかったか。
糸井と一緒にいたいと願ってくれた糸川と、この先も一緒にいるために。
それに、きっと言葉を尽くせば家族はわかってくれる。記憶をなくして迷惑をかけたときも、献身的に支えてくれた家族だ。それが普通とは異なる形だとしても、糸井の幸せを願ってくれるはずだ。
そう信じて、糸井は拳を握った。
「お付き合いを……しています。恋人です」
言った瞬間、目の前の母は、黙って眉を寄せて目を閉じ、項垂れた。
「……は?」
テレビの音だけが流れる居間に、明信の反問が響く。
説明が必要なのだと、糸井は思った。
「相手も男性だけど、先々のこともちゃんと考えて、真面目に付き合ってます。結婚はできないし、子どもも残せないけど、ちゃんと――」
説明の途中で、隣の明信が立ち上がった。
「――!!」
その明信に、上から胸ぐらを掴み上げられたかと思ったら、次の瞬間、糸井は柱に背中を打ち付けていた。
こたつ布団に、血が滴る。
痺れた左頬を思い切り殴り付けられて、糸井の体は後ろに吹き飛んだのだった。
「ふざけんな!!」
視界がぐるぐる回る。その上から、怒声が降ってくる。
「おまえが記憶喪失になったあと、どんな噂が立ったか、おまえ知らないだろ。その噂のせいで、俺と母さんがどんな目に遭ったか、知りもしないで、よくもそんな!」
……噂?
よろよろと体を起こして、糸井は明信を見上げる。激昂して顔を真っ赤にして、糸井を殴った拳を震わせていた。
「おまえが変態野郎に犯されて、ショックで記憶をなくしたんだって」
その噂を、糸井は聞いたことがなかった。けれど、同じ疑いを、自責する中で自分に対してかけ続けていた。
「最初は被害者扱いで同情的だった噂が、だんだん尾ひれがついて本当のことみたいになってって、最終的におまえはホモの淫乱で、それまでにもいろんな男とやりまくってたことになった。そんなやつの弟、母親だって、俺と母さんが学校や近所でどんな目で見られて、どんな扱い受けたか。おまえは知らないよな、とっとと一人で安全なところに逃げたんだから!!」
「明信!!」
再び糸井の胸ぐらを掴み上げようとした明信を、後ろから父が羽交い締めにする。それでも収まらない明信は、届かない腕や足を振り回した。
「かばってやった俺たちが馬鹿みてえだ!! ほんとにホモだったのかよ!! おまえなんか記憶なくしたときに死ねば良かった!!」
矢みたいな言葉が、全身に突き刺さる。
「死ね!! 二度と面見せんな!!」
喉を切りそうな絶叫に、糸井は顔を上げていられなくなる。俯いたら、口の端からまた血が滴った。
ごめん、と呟いたけれど、誰にも届いていないような気がした。
ただ、自分の存在が申し訳なかった。
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