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スタンド バイ ユー -side F- 02
荷解きもしていなかったキャリーを引いて、真冬の夜道を宛もなく歩く。
時刻は二十三時。もう今から東京へは帰れないから、今夜はどこかのネットカフェにでも泊まろうかと、ぼんやりと空を見上げた。
(……星)
東京の夜より、空に光る数が多い。それなのにその空は、あの曇りがちなクリスマスの空よりも、暗く陰鬱に感じた。
選択を大きく間違えた。墓場まで持っていかなければならない話だったのだ。
家族だからわかってくれるはずだなんて、とんだ甘えだった。明かされる側の心情に全く配慮できていなかった。
(母さんは……たぶん前から何か感じてたんだろうな)
転居を切り出したときの危惧するような母の顔を、糸井は思い出す。
三十歳を控えて一度も浮いた話のない長男の性的指向に、例の噂も相まって、疑うところがあったのかもしれない。そうなると、しつこく糸井に結婚を勧めていた母の意図が、違った意味合いを帯びてくる。
母は、糸井の普通の幸せを願ってくれていたのではない。あれは、息子がまともであってほしいという、母親としての祈りだった。
(……ごめん。裏切って)
孝行したかったのに、生きているだけでその逆を行ってしまう。
――おまえなんか記憶なくしたときに死ねば良かった!!
耳に返る明信の声に、重い足取りがついに止まった。
(その通りだ。あのとき死んでいれば、悲しませるのは一度で済んだのに)
なんでここにいるんだろう。
なんでここに、まだ生きて立っているんだろう。
わからなくなると、もうどこへも進めなくなった。
足が動かない。このまま地面に沈んでしまいたい。
立ち尽くしていると、背後から速い足音が近づいてきた。ぼんやりと振り返ると、走ってきたのは父で、糸井の姿を認めると大きく手を振った。
「文明!」
「父さん……」
「よかった、追いついた」
六十絡みの父は糸井の傍まで駆け寄ると、膝に手をついてはぁはぁと肩で息をした。
「……悪い、明信と母さん、落ち着かせてたら遅くなった」
「いいよそんな……どうしたの」
「どうしたのっておまえ。おまえこそどうするんだ、今日これから、こんな夜中に」
「今日はネカフェかどっかで時間潰して、明日の朝東京に帰るよ」
「そうか……」
頷いて、父は周りを見回す。ちょうどこの先の交差点の向こうに深夜営業のファミレスの看板が光っているのを見て、糸井の肩を叩く。
「少し、話さないか」
父が優しく微笑んでくれるのに、考える前に糸井は頷いていた。
空いた店内に入ってタブレットでドリンクバーを二人分注文すると、父は糸井に、おしぼりに包んだ氷を持ってきてくれた。
「顔、冷やしなさい。だいぶ腫れてる」
受け取ったおしぼりを口元に当てると、内側を歯でざっくり切っていたらしい頬がひどく痛む。言われた通りだいぶ腫れているようだが、呆然としすぎていた糸井は、今までその痛みをはっきりと知覚できていなかった。
「明信、あいつはなぁ、腕っぷし強いのに加減しないから」
困ったように腕を組んで、父は息をつく。
「……まあ、あいつも苦労したんだ。八つ当たりせずにいられなかったんだろう。許してやってくれ」
許すも許さないもなくて、糸井はただ俯いた。
「……あの」
「うん?」
「あの頃、みんなにどんな苦労かけたのか、聞いてもいい? 俺が、不登校になってからとか。中学の寮に入ってからとか」
問うと、父は組んだ腕を深める。うーんと、回答に困っているようだった。
「……父さんはな、仕事があったから。朝から晩まで会社にいて、そこが逃げ場みたいなもんだったから、実はあんまり実害はなかったんだよ。実害とか言うとアレだけどな。いろいろあったのは、やっぱり母さんと明信だな」
「いろいろ……」
「うん……。母さん、文明の事故があってから、仕事休職してたろ。それまで、どっちかって言うとバリキャリ路線で仕事してたんだけど、あの後、うまく復職できなくてな。キャリア諦めて専業主婦になって……そこへおまえのことで、なんというか、心ないことを言う人もいてな。父さんももう少し母さんのことをフォローしてあげられれば良かったんだけど、そこもうまくなかった。それは父さんのせいでもあるんだよ」
悔いるように、父は後ろ首を掻く。そんな罪悪感を背負わせてしまうことも、元を正せば糸井のせいで、父に対しても申し訳なさが込み上げた。
「明信は、小学校のうちは嫌がらせみたいなからかいが続いて、でもあいつは黙ってるタイプじゃないからすぐ手が出て、喧嘩が絶えなかったよ。中学になっても変な噂は残ってしまって、思春期だし、下世話な捏造も加わったりして。おまえのことを侮辱するようなことを言われるたびに、暴力沙汰を起こして、結局高校も中退した。荒れてるってレッテルは貼られたけど、自分から喧嘩を吹っ掛けていくような子ではなかったよ。なんだかんだ、お兄ちゃんっ子だったんだ。離れて暮らすようになったのも、寂しかったんだと思う」
父はテーブルの上で組んだ指をせわしなく組み替えながら、懸命に言葉を選んでくれているようだった。
「……みんなおまえのことが好きで、おまえのためを考えてそれぞれに一生懸命だったんだよ。こうすれば、こうあれば、おまえが幸せになってくれるはずだって。そう信じていた、期待みたいなものが外れて、今は急には気持ちの整理がつかないんだ。もちろん、おまえが期待外れだってことじゃない。おまえにはおまえの幸せがあるし、それを周りが勝手に決めつけて勝手に期待することの方が間違いだ。ただ、まだな、それが絶対に正しいって信じてた分、その間違いを認めきれないんだよ。時間が必要なんだ」
わかるか? と問われて、糸井は頷いた。
丁寧に与えられた言葉は、きちんと糸井に届いている。
家族からの愛を、確かに糸井は感じていた。愛されていないなどと思ったことは一度もない。
ただ、そのベクトルが合っていなかったから、互いにもどかしかったのだ。応えてくれない、応えられない、と。
俯いた糸井の頭を、テーブルに乗り出した父が不意にくしゃりと撫でた。
「……好きな人と一緒にいられて、良かったじゃないか。住む家が決まったら、とりあえず父さんに住所を連絡しなさい」
「うん……」
「それと……さっきは明信の言葉が過ぎたけど、絶対に滅多なことは考えるんじゃないぞ」
強く釘を刺されて、糸井の耳に明信の絶叫がこだまする。
――死ね!!
「あんなこと、明信は本気で思っちゃいないし、おまえの恋人を悲しませるようなことはしちゃいかん」
じゃあな、と父は席を立ち、支払いを済ませて店を出ていった。
氷の溶けてきたおしぼりが、じわりと濡れて水を垂らす。
もうこの街に帰ってくることはないのかもしれないと、締め付けられるような、解放されたような、名状し難い気持ちで糸井は考えた。
ネットカフェに移動して、個室に落ち着いたところで電話が鳴った。
相手は糸川で、糸井はすぐに画面をスワイプする。
「もしもしっ」
『あ、糸井くん。明けましておめでとうー』
柔らかい、聞きたかった声が新年の挨拶をするのに、え、と驚いて時計を見やる。時刻は零時を回って、いつの間にか年が明けていた。
「あぁ……明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」
『ふふ、こちらこそよろしく。今何してた?』
問われて、思わず狭い個室内を見回す。まさか実家を追い出されて、ネットカフェで一人寂しく気づかないうちに年を越していたとは言えない。
「カウントダウンも済んだので、そろそろ寝ようかと思ってたところです」
『あ、ごめんね、もう寝るとこだったか。別に用はなかったんだ。あけおめ言いたかったのと、ちょっと声が聞きたかっただけ』
甘い声に、笑みが誘われる。
少しの時間、糸井は糸川と取り留めもない会話を楽しんで、電話を終える。
暗くなった画面を見つめ、ここでようやく、糸井は静かに涙を落とした。
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