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スタンド バイ ユー -side F- 03
年始は、仕事始め早々にまた出張が入ったそうで、週末を跨いで糸川は地方へ行っていた。
会えないのは寂しかったけれど、マスクの下の痣はなかなか消えなかったので、そういう意味では都合が良かった。
口元の痣も違和感もきれいに癒えたその翌週、糸井は糸川から、初詣に行こうと誘われた。
松の内も過ぎているのに、と突っ込んだ糸井に、今年初めてお参り行くんだから初詣で間違いないでしょ、と糸川は飄々としている。こういう意外な緩さと普段とのギャップが、やっぱり好きだなと思ってしまう。
糸川の部屋からバスで向かう神社は、以前花火大会の会場になっていた場所にほど近く、屋台が立ち並んでいたあのときとは一変して、参道は閑散としていた。
「静かですねぇ」
「そりゃまあ、もう一月も半分終わってるからね。寒いし」
「うん……寒い」
「やっぱり? ごめんね」
苦笑いしながら、糸川は糸井の手を取った。人気のない参道で繋いだ糸川の左手には、指輪がはまっている。ダウンのポケットの中の糸井の手にも。
出掛ける前に、糸川からは少し話したいことがあると言われていた。その話はいつするのだろうかと、糸井は待つ。
やっぱり一緒に住む話だろうか。三月の引っ越しシーズンの前に、物件の条件出しをして具体的に探してみようというところまでは整合している。年も明けたし、そのあたりの段階に進むのだろうか。
拝殿に向かい、参拝する間、何やら長く祈りごとをしている糸川の顔をちらちらと盗み見てみたけれど、彼の考えは一向に読めなかった。
「糸井くん、おみくじ引こう」
誘われて社務所へ寄り、みくじ筒を振る。渡された吉と小吉のおみくじを、微妙ー、などと笑いながらも、ふと糸川の表情が冴えないことに糸井は気づいた。
どこが、という明確な違いがあるわけではなく、なんとなく、というレベルだ。
「……何かありました?」
境内の木の枝に畳んだおみくじを結びつけている横顔に、少し迷って糸井は問いかけた。
話したいことがあるという、それに関係があるのなら、糸川が話し始めるまで待った方がいいかとも思ったけれど。
「ああ……うん」
話すきっかけを得られたように、糸川は視線を落とした。
「話っていうのがね。この間から、僕の方から一緒に住もうってしつこく持ちかけてたのに、申し訳ないんだけど……」
ためらいがちな糸川の切り出しに、糸井の心臓がひゅっと縮む。
同棲提案撤回? 何か糸川の気分を害するようなことをしてしまっただろうか。
怯えながら次の言葉を待っていると、糸川が申し訳なさそうに、糸井の顔を見つめてきた。
「……実はこの年明けに、会社から転勤を打診されたんだ」
「え……」
転勤?
自分が原因でなかったことへの安堵を覚える間もなく、思いも寄らない話に糸井は動揺した。
「転勤って、え、どこに?」
「大阪」
中学の修学旅行で行って以来、一度も糸井は行ったことのない地名を呟いて、糸川はため息をついた。
「三島が香港で携わってたプロジェクトが、年度内で完了する目処がたって、春に帰国するらしい。その後任自体は大阪支社から人を出すことになってるんだけど、そことの人材のスライドで、僕が大阪に行くのはどうかって。次の管理職登用の候補になってるからって」
その説明で、今回の転勤が、糸川にとって『いい話』であることは理解した。
けれど、糸川が大阪に行ってしまったら、一緒に住むどころか、そう簡単には会えなくなってしまう。いわゆる遠距離恋愛になるということだ。
「……期間は?」
「たぶん、二年くらい」
……二年。知り合ってからこれまでよりも倍以上長い。
そんなに長く、離れていられるだろうか。糸川の気持ちを、繋いでいられるだろうか。
不安しか感じられなくて、俯いた糸井には言える言葉がない。
その糸井の手を、糸川が握る。
「僕は糸井くんと離れたくない」
はっきりと、糸川は糸井の目を見てそう言った。
「仕事の代わりはいるし、僕は本当に、出世には興味がない。管理職になんかなれなくていい」
その言葉に、嘘はないと感じた。
「糸井くんの気持ち次第で、この話は断ろうと思ってる」
けれど、そんなふうに委ねられて、糸井は糸川の本心が見えた気がした。
つまりそれは、糸井のことさえなければ、糸川は転勤を受け入れるということだ。
「俺は……」
本当に行く気がないなら、そもそも糸川は糸井に相談するまでもなく断っていたはずだ。天秤にかけて悩むところがあるから、糸井のひと押しを引き出そうとするのだ。
「……行った方がいいと思います」
糸川の望んでいる言葉ではないかもしれないと思いながら、糸井は口にした。
糸川が日頃、熱心に仕事に向き合っているのを知っている。昇進云々を横に置けば、糸川は仕事が好きで、やりがいや自己実現の場として大きな意味を持っているはずだ。
それに実際に上の立場になってみれば、そこでしか得られない達成感や、そこでしか従事できないレベルの高い業務の経験ができるかもしれない。それはきっと、糸川の人生において価値を持つもので。
それなのに今回、せっかくの好機を蹴ってしまったら、何か仕事上で不利益を被るかもしれない。例えそれがなくても、受け入れていた場合と比べての機会損失は計り知れない。
「俺の気持ち次第とか、そんな小さい話と同列に語る問題じゃないですよ。糸川さんの人生の可能性の話です」
そんな大事な岐路なのに、自分達のような不安定な関係を優先すべきではない。
いざというときに糸川を助けるのは、社会的な立場や経済力であるはずだ。そういうものは、無下にするべきではない。
「俺のせいでその可能性が潰れるなんて、正直、俺責任取れないです」
行かないで、なんて、言えるはずがない。
今ここで糸川が糸井を優先させて仕事での成功を失ったとして、いつかそれを惜しむ時が来たとして、きっと糸川も、糸井だって、その判断を後悔する。
糸川の足を引っ張る存在にはなりたくない。
糸川の後悔には、なりたくない。
「今回の話は、俺のことは抜きにして、糸川さん自身で自分の将来を考えて、決めてください」
そうしないと、未来に余計な禍根を残してしまうと思うから。
「俺は、大丈夫なので」
ずいぶん突き放した言い方になってしまった自覚はあって、フォローのように笑みを作って言ったそれは、正しく伝わらなかった気がした。
「……わかった」
沈黙して長考した糸川は、そう頷いて、そこからは努めていつも通りに接しようとしているようだった。
糸川が糸井と離れたくないと言ってくれたことは、本当に嬉しかった。糸井だって離れたくない。同じ思いでいてくれていることは、糸川に転勤を勧めた糸井の心の支えでもあった。
糸川には、自分自身のために、仕事を頑張ってもらいたい。
寂しいとは、口が裂けても言ってはならないと思った。
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