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スタンド バイ ユー -side S- 01

 例年通り元旦だけ実家に顔を出して、糸川の正月休みは大掃除と睡眠とで、ほとんど無為に消化されていった。  師走に入ってからこちら、とにかく糸川は忙しかった。ほぼ毎週出張の予定が入り、飛行機やら新幹線やら、北へ南へ奔走していたのだ。  なんとかクリスマスイブの夜は糸井との約束に予定を確保し、糸井が選んでくれた店で二人で食事をし、その後、無事に指輪を渡すことができた。  前に同棲を保留されたことを考えると、指輪も受け取ってもらえないかと思っていた。けれど結果的に糸井は指輪を受け取ってくれ、同棲も受け入れてくれた。  泣いた糸井を抱き締めて、糸川はこれからもう絶対に離れない、絶対に糸井を幸せにするのだと、決意を新たにした。  正月は実家に帰省している糸井に、年明け直後に電話したときも、すぐに出てくれた糸井は嬉しそうだった。そうやって素直に態度に出してくれる糸井のことがとても好ましい。  早く会いたいね、と言い合って電話を切って、それ以降も取り留めもない話題で連絡を取り合って。  年が明ければ少しは忙しさも落ち着くかと思っていたら、仕事始め早々の朝礼後、糸川は上司に呼び止められた。 「糸川、今週末から岡山な。営業の石野と」 「え」  今週は糸井とのんびり初詣デートにでも、と思っていた糸川は、声と顔に思いきり不満を出してしまった。 「……おまえなぁ。最近すっかり表情豊かになって、それはいいことだと思ってたが、その顔はないだろう」 「だって課長。先月からちょっと、僕のスケジュールおかしくないですか。月の半分くらい、自宅に帰れてないんですけど」 「仕事があってありがたい話だよなぁ」 「そりゃ、ないと困りますけど。さすがにちょっとしんどいです」 「まあなぁ……わからんでもないが」  上司は顎をつまむと、糸川を小さく手招きした。場所を変えよう、の合図だ。  廊下に出て空いた会議室に入った上司を追うと、上司は軽く咳払いした。 「年も明けたし、そろそろ言っとくわ。内々示くらいに思ってくれればいい」 「えぇ……何です?」  警戒を露にする糸川に、上司は単刀直入に切り出した。 「糸川、大阪に転勤しないか」 「……はい?」  思いも寄らない、寝耳に水の打診に、糸川は思わず問い返した。  上司曰く、三島が携わっていた香港のプロジェクトが一段落するので、三島は新年度から管理職に昇格して本社に戻ってくる。その三島の後釜に、大阪支社から有望な若手を出すことになっている。その大阪支社と人材をスライドすることになるのだが、その候補として糸川に白羽の矢が立ったというのだ。 「糸川の勤務態度は申し分ないしな。前は何でも一人でこなそうとするきらいがあったが、最近はコミュニケーション取りながら分業して、的確に指示も出せてる。周りのメンバーも、糸川が取っつきやすくなったって評判だ。俺としては十分に推せると思ってる。どうだ、この機にマネージャー志望してみないか」  提案されて、直感的には悪くない話だと思った。  糸川は、仕事だけは真面目にやって来た自負がある。面白いこともそうでないこともあるけれど、やればやったなりに評価され、報酬が生まれる。今以上に仕事の幅が広がったり、裁量権を与えてもらえたりするのなら、それは糸川のやりがいに繋がる。  ただ、出世欲があるかというと、三島と違って糸川にはそれがない。さらに部下のマネジメントとかいう話になると、もう苦手意識しかない。  それに、三十そこそこで管理職となれば大抜擢の部類で、三島ならそれを大いに誇るのだろうが、糸川はそういうやっかみの種みたいなものはわざわざ拾いたくないタイプだ。  そして、それよりも何よりも。 「女か?」  返事をしあぐねている糸川に、やにわに上司は問いかける。そして、自分の左手の薬指の結婚指輪をトントンと指差した。 「……あぁ……」  糸川も、自分の左手を見やる。  仕事中も外さないことにした糸井と揃いの指輪は、年末に糸川がそれをつけて出社した瞬間、フロアを騒然とさせた。 「糸川さん、結婚されるんですか!?」  悲鳴のように問い詰められ、返答に困った糸川が「ああ、事実婚、みたいな?」と返したものだから、あっという間に糸川の婚姻は事実認定され、上司の耳にもそれは入っていたのだろう。 「まあ、そうですね……」  糸井は女ではないけれど、転勤と聞いて真っ先に考えたのは糸井のことだった。  一緒に暮らすことをやっと承諾してくれたばかりなのに、糸川の都合でキャンセルすることになるなんて。  それどころか、遠距離恋愛になってしまうなんて。 「転勤っても、二年くらいのもんだぞ。たかが二年、男の仕事待てないような女はやめといた方がいいぞー」  無責任にそんなことを言い放つ上司に、内心で怒りが湧く。  そうではないのだ。待てないと、ごねてくれる彼女だったらむしろ気が楽なのだ。  そうじゃなくて、相手が糸井だから。  あの、糸川を全て優先させて、自分のことは後回しにして我慢してしまえる糸井だから。  言えばきっと、糸井は糸川の背を押して転勤を勧めてくれる。  その裏でどんな言葉を飲み込んだのか、糸川には明かしてもらえない。 「……考えさせてください」  とりあえず絞り出したが、たぶん今自分は、渋い渋い顔をしている。 「まあ、前向きにな」  そう言って糸川の肩を叩いて会議室を出ていった上司は、糸川の顔を見て苦笑いしていた。 「はあぁー……」  深いため息をついて、糸川はその場にしゃがんで頭を抱える。  この話を、糸井にはしたくない。でもしないわけにはいかない。  いや、話さないまま断ることはできる。糸井のことを最優先に考えるなら、それが一番いい。  でも、それでこの先後悔しないだろうか。これまでの自分が認められて、その力を試す機会でもあるのに。糸井を言い訳にして、それをふいにしてしまって、いつかの未来にそれを糸井のせいには絶対にしないと言えるだろうか。  そう考えて気づいてしまう。自分の中に、行きたい気持ちも存在していることに。  糸井を好きで、離れたくないという思いとは別の次元に、もう一つの自分の軸があることを知る。  二律背反のその二つの軸の狭間で、糸川はどちらを取るとも選びきれないまま、糸井に会えない日々を悶々と過ごした。  そして久々に会えたその日、未だ答えを出せないまま選択を委ねてしまった糸川に、糸井は毅然と言った。 「俺は……行った方がいいと思います」  糸井なら十中八九そう言うだろうと、思っていた通りの回答だった。 「俺の気持ち次第とか、そんな小さい話と同列に語る問題じゃないですよ。糸川さんの人生の可能性の話です。俺のせいでその可能性が潰れるなんて、正直、俺責任取れないです。今回の話は、俺のことは抜きにして、糸川さん自身で自分の将来を考えて、決めてください」  糸井がそう言うのは尤もだ。  糸井のことも、自分のことも納得させられる言葉を用意できないまま、ただ情に訴えて糸井に委ねようとした自分が恥ずかしい。  それでも、どこかでほんの少し、期待してしまっていたのだ。糸井が、寂しい、行かないでと、袖を引いてくれることを。  万が一糸井がそんなことを言ってくれたなら、糸川は迷いなく、この転勤話を蹴るつもりでいた。 「俺は、大丈夫なので」  けれど、正反対のその言葉を糸井に言わせてしまって、糸川は自分の至らなさに幻滅する思いだった。  糸井だって寂しくないわけがない。なのにそれを言えなくしてしまった。行かない理由を糸井だけに押し付ける狡さを、糸川が晒してしまったから。 (……情けない……)  内心で深々とため息をついて、糸川はようよう、「わかった」と頷いた。

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