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スタンド バイ ユー -side S- 02

 週明け、上司に転勤の受諾を伝えると、上司は何度かうんうんと頷いて、「そうか」と言った。 「嫁さんは納得してくれたか?」  尋ねられて、答えに迷う。あれは、納得というのとは違うもののような気がする。 「……物わかりの良さを発揮されてしまった感じです」 「あぁ……なんかわかるような気がするわ」  上司は少し困った顔で、頭を掻いた。 「納得じゃなくて、なんていうか……、そんなのアタシが何言ったってどうにもならないんだから仕方ないって思うしかないじゃない、てやつな」 「……まさかの経験者です?」 「昔の話だよ。俺んときはマンション買ったタイミングだ」 「あるあるなんですね……」 「歯車だからな……」  困り顔のまま、少し遠い目をして、上司は糸川の肩を軽く叩く。 「まあ、仕事の方は一応、悪いようにはならない仕組みになってるから心配するな。でも嫁さんとのことは誰も保証してくれないからな。しっかりフォローしろよ。恨まれたくないからな俺は」  勝手なことを言う上司に、糸川は思いきり眉をしかめた顔を向けた。 「もしこの転勤が原因で破局したりしたら、僕は残りの会社人生、課長への呪詛を連ねて生きていきますけどね」  その遠慮のない恨みがましい視線に、上司は思わず半笑いの口の端をひきつらせる。 「いやほんと……おまえ人間らしくなったよね……。今後が楽しみだ」  ははは、と乾いた笑いを漏らして会議室を出ていく上司を見送って、糸川はもう何度目か知れないため息を深々とついた。  異動を承諾してしまえば話はとんとん拍子に進み、二月の半ばには人事からの内示を受け、引っ越し先の手配や段取りなど、具体的な話がどんどん押し寄せてくる。  糸川も少しずつ部屋の整理を始め、断捨離したり実家に荷物を預けたりと、ただでさえ生活感の薄い部屋がさらに閑散としていくにつれ、転勤の実感が迫ってきていた。 「なんだかミニマリストの部屋みたいですね」  引っ越しを翌週に控えたその日。これまで通り週末に訪れては、糸川の引っ越し準備を手伝ってくれている糸井が、ソファもテーブルも処分してがらんとしたリビングの床に大の字に寝て笑う。  その隣に、糸川は腰を下ろした。 「向こうの部屋は家具付きだしね。こっちに戻るときには、糸井くんと一緒に住む家に合う家具を一緒に探そう。糸井くんの趣味でいいよ」 「俺の趣味? じゃあこの二年でインテリアコーディネートの勉強しないと」  ふふ、と糸井は楽しげに笑う。  こちらの都合で遠距離恋愛になってしまうのに、責めるどころか少しの湿っぽさも見せない糸井に、糸川は救われる思いだった。  離れるくらいならもういいと、その時点で終わる選択肢だってあったのに、糸井は当然のように糸川を待つつもりでいてくれている。その愛情が身に沁みて、仕事に対して前向きに取り組む糧になっている。  その糸井に、何か自分も返したいと思うのだけど。  隣で仰向けになっている糸井に覆い被さるように、糸川は身を屈め、頬にキスをした。すると糸井が微笑んで、顎を上げて瞼を閉じたので、了承と受け取ってくちびるに触れる。  薄く開いた隙間から舌を差し入れ、その先を軽く絡ませると、糸井の腕が背に回ってしがみついてきた。もっと、とねだるような仕草がかわいくて仕方ない。 「……ベッド行く?」  額をくっつけて、気恥ずかしげに問う潤んだ瞳が見上げてくるのに、糸川の腹の底が疼いた。 「行きたいけど、さすがに……糸井くんの体に負担じゃないかな」  実は昨夜は深夜まで何度も抱き合って、さらに今朝も起き抜けに昂ってしまって、そこからまだ数時間しか経っていなくて日もまだ暮れない。  普段からさほど淡白なわけでもなかった上に、年明けからこちら、二人のセックスの頻度は明らかに上がっていた。  肌が離れているのが寂しくて、互いについ手を伸ばしてしまって、触れ合ったら離れがたく、もっと深く触りたくなってしまう。 「ううん、大丈夫……したい、しよ、糸川さん」  誘う声に頷いて、床に転がった糸井の手を引き起こし、寝室へ移動する。  カーテンを閉めたままの薄暗い部屋でベッドに腰かけると、急に糸井は羞恥で頬を真っ赤にした。 「え、なに、どうした?」 「や……確かにさすがにちょっと、うん。や、やりすぎですかね俺ら。なんか発情期の野生動物みたいな……」 「ふふっ、今我に返っちゃった? あーでも僕も、思春期の男子みたいだなって思ってた。年甲斐もなく盛りすぎかなぁ」  笑って糸川は、糸井の手を引っ張りながらベッドに倒れる。つられて糸川の胸に重なるように倒れた糸井は、赤い顔のまま目を細めた。 「……じゃあ俺も、思春期みたいなこと言っていい?」 「ん、なに?」  糸川の胸にてのひらを当て、その甲に顎を置いて、糸井は恥ずかしそうに瞼を伏せてしまう。 「順番に、会いに行く、みたいな約束とか。……そういうの、めんどくさい?」   そんなことを、糸井の方から言い出すのがとても意外で、驚きつつも顔には出さないように、糸井を胸に乗せたまま体を起こして肘枕をついた。 「全然。約束の内容を、具体的に詳しく、どうぞ」 「え、詳しく? えぇと……、今までみたいに毎週は無理でも、隔週だったら、ものすごい負担にはならないかなって思ってて」 「うん」 「例えば四月の二週目の週末には俺が大阪に行って、四週目は糸川さんが来てくれる、みたいな。そしたらかかるのは月一の往復旅費だから、なんとかなるかなって。……って勝手に思ってたけど、俺が大阪の部屋にお邪魔してもいい?」 「もちろんだよ」 「よかった。あ、もちろん仕事が忙しいときは無理はなしでね。一週見送ってもいいし、動ける方が動いてもいいし。もし余裕があったら、名古屋とか京都とか、間のどこかに旅行に行くのもいいかも。そんな感じの、緩い約束でいいから……あれば……」  矢継ぎ早に、楽しそうに語っていた糸井が、ふと言葉を切って糸川の胸に顔を埋める。 「……あれば?」  黙ってしまった糸井に先を促すと、糸井は顔を上げないまま、首を横に振った。 「……あれば、俺は安心だなって思ってたんですけど。ごめんなさい。糸川さんのこと、束縛したいわけじゃないんです。先の予定まで、俺のために空けてられないですよね」  転勤が決まって以来、初めて糸井が覗かせたネガティブな感情に、むしろ糸川は安堵する。笑顔の下に覆い隠してしまわれる方が、よほど厄介なので。  すとんと落ち込んでしまった糸井を、糸川は頭ごとぎゅうっと抱き込んだ。  糸井は時々こうして、自分の言葉に傷ついたり落ち込んだりすることがある。そういうところも決して糸川は疎ましくは感じないのだけど、いちいち不要に凹むのも気の毒なので、変われるものなら変われればいいのになと思っている。 「何言ってるの。僕だって隔週で会えるって約束があった方がいいに決まってるじゃない」  糸井の落ち込みを、こうやって否定してあげることで解消できることはわかっているけれど、この先は簡単には抱き締めることもできなくなるから。 「僕はねぇ、二人の携帯にスケジュール共有アプリを入れようって言おうと思ってたよ。お互いに飲み会とか外出の予定とか入れておいたら、連絡とるのも遠慮しなくていいでしょ。そのアプリにお互いの行き来の予定も入れておいたら、会えない時間も楽しみになるかもしれないね」  穏やかに、糸井の髪を指で梳きながら糸川は先の時間に思いを馳せる。  放っておいても離別の時は近づいてくる。それならなるべく、楽しい未来を思い描いていたい。  けれど、本当は。 (……離れたくないなぁ)  強くそう思う。  自分の気持ちより、相手のことを優先してしまうこの子と離れるのが心配だ。  物理的な距離が、心の距離に影響することだってわかっている。そこも全力でカバーするつもりだけれど、それをこの子はちゃんと、遠慮しないで受け取ってくれるだろうか。 「いっそのこと、却っていい機会だったって思えるくらい、楽しい二年間にしよう」  互いの胸に不安があるのはわかっている。だからこそ前を、同じ方向を向いていなければ乗り越えられない。 「待ってて。必ずきみのところに帰ってくるから」  繋がりは互いの気持ちひとつだから、言葉にして、きちんと伝えていく。きっとその積み重ねの先に二年後の二人がある。  糸川の想いに応えるように、糸井がその背をぎゅっと抱き返して、顔を上げて笑みを見せた。 「……うん。待ってる」  愛しいまなざしが交じり合って、心が届く。  どちらからともなく伸ばした指が絡んで、二人は呼吸をするようにキスを交わした。 <END>

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