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第14話
(あれ……?)
目を開けると、知らない場所にいた。白い壁、白い天井、そして多分、今自分はベッドの上に寝ている。
ボーッとする意識の中、視界に女性が入ってきた。誰だろう? と思っていると、彼女は慌てた様子で何かのボタンを押す。
「櫂斗……櫂斗っ?」
カイト、というのは自分の名前だろうか? まだ意識が覚醒していないのもあり、反応ができない。女性は涙ぐんで、胸元に顔を寄せた。
「堀内さん、どうしました?」
「櫂斗の意識が戻りました……っ」
部屋の外からやってきたらしい女性は、白い制服を着ていた。看護師だ、と心の中で呟いて、自分が病院にいることに気付く。どうしてだろう? と思うけれど、思考もうまく働かない。
また意識が遠のこうとしていた頬を、看護師に叩かれた。「もう少し頑張って、先生に見てもらいましょうね」と大きな声で言われ、眠ってしまいたいのに、と心の中で愚痴る。
全身が痛くてだるい。このまま何もかも忘れて、ずっと眠っていたい。
何故かそんな気持ちがあり、何でこんな事になっているのだろう、と思った。
「堀内さん、寝ちゃダメだよー? 頑張って起きてて」
嫌だ。看護師の言葉にそう思うけれど、言葉には出せなかった。
「痛いところある? 怪我してるの、分かる?」
眠らせて欲しいのに、看護師は耳元で大きな声を出してくる。うっとおしいな、と目線を巡らせて看護師を見ると、看護師はお返事ありがとう、と笑顔になった。
「痛いところある?」
「……全部」
声は掠れていたけれど、看護師には伝わったらしい。痛いね、と眉を下げた看護師は、その間も機械などを見ながら会話している。
「怪我して、病院に運ばれたの。覚えてる?」
首を僅かに横に振った。運ばれた事どころか、自分の名前さえ分からない事に気付くと、急に不安が襲ってきた。
「……何で? 何も分からない……」
「……そう。分からないと不安だよね。でも、ここは安全だから大丈夫よ」
看護師はニッコリ笑って答える。すると、今まで黙っていた、最初に顔を見せた女性がまた視界に入ってきた。
「櫂斗、覚えてないの? あなた家のベランダから落ちたのよ? たまたま近くにいたカップルに助けてもらえたけど、何でまたこんな事に……」
「お母さん」
まだ言葉を続けようとした彼女に、看護師はストップをかけた。
「心配なのは分かりますけど、今は身体の回復が先です」
そう言われた母親らしき彼女は、大人しく口をつぐんだ。
その後程なくして来た医師に色々と診察され、意識が戻ったならひとまずは安心だと言われ、看護師と共に去っていく。
「あの……お母さん? おれ、あんまり覚えてなくって……」
あんまりどころか全く覚えていない。自分の名前さえ分からないのだ、とりあえず母親に聞けば何か分かるかな、と思った。
「おれの名前、カイトで合ってる?」
そう聞いた途端母親は目を見開き、あなたまさか、と目付きが鋭くなる。
「何を言ってるの? ……本当に覚えてないの?」
「うん……」
すると母親はため息をついた。
「ふざけないで。本当は自殺しようとしてたんじゃないの? 部屋も酷く散らかって……ちゃんとしてるって言ったの、嘘じゃない」
「……え?」
おれが、自殺しようとしていた? と櫂斗は頭の中で母親の言葉を反芻する。どうしてだろう?
「それで反抗してるつもりなの? 当てつけにこんな事するなんて……」
ちょっと待って、と櫂斗は戸惑う。櫂斗は母親の言うことの意味が分からなかった。
「おれ、お母さんと違う家に住んでた? どこに? 当てつけって何?」
櫂斗は口が動く限り色々と母親に聞く。櫂斗の様子に、本当に記憶を失くしているらしいと気付いた母親は、何かを思い付いたような顔をした。
「とりあえず、意識が戻ったと彼女に連絡するわね」
「え? 彼女?」
櫂斗はますます訳が分からなくなる。自分には、波多野という彼女がいるらしい。
「それも覚えてないの? 私が紹介したら、そのまま付き合う事になってたじゃない」
「そう、なんだ……」
櫂斗は目を閉じた。何だか頭が混乱して疲れてしまったな、と櫂斗はそのまま眠ってしまう。
櫂斗の怪我は右足の太もも、右腕、右鎖骨の骨折、顔の右側の擦過傷と、右側に集中していた。
櫂斗の住んでいた部屋から落ちたにしては、この程度で済んでるのはラッキーだと、医師に言われる。あと、すぐに助けを呼んでくれたカップルの存在も大きかった。
櫂斗が病院に運ばれてから意識が戻るまで、二週間ほどあったらしい。母親や看護師から色々と情報を集め、櫂斗は自分がどんな人物で、どのような状況で病院に来たかを知っていく。
自分で座れるくらいに回復した頃、やっと話に聞いていた彼女に会うことができた。長いストレートの髪と、切れ長の目で知的な容姿が印象的だった。
「あなたが波多野さん? ごめんなさい、母から聞いてるかもしれませんけど、おれ、記憶を失くしてて……」
櫂斗はそう言うと、波多野は首を横に振る。
「いえ、こうして無事でいてくれただけでも、良かったです」
櫂斗はしばらく二人きりで話をする。波多野は深くは聞こうとせず、ある程度の距離を保って接してくれているのが分かって、それが心地良かった。そして、その心地良さこそが、二人が付き合っていた証拠なのだ、と思ったその時。
ドアがノックされた。
母親はいっぱいお話するといいわ、と出て行ったから、そうすぐには戻ってこないはず。誰だろう、と櫂斗は返事をすると、ドアを開けて入ってきたのは眼鏡をかけた男性だった。
黒髪に、スッと通った鼻梁、薄い唇とスッキリした顎、何より黒縁眼鏡の奥には、奥二重のくっきりした瞳があり、その視線の強さに櫂斗は何故か落ち着かなくなる。
友人か誰かだろうか、と櫂斗は思った。しかし、話しをする前に波多野が口を開く。
「お友達ですか? 堀内さんは事故の影響で記憶が混乱しているので、手短に」
「櫂斗……記憶喪失ってのは、本当なのか?」
男は構わず櫂斗のそばに来ると、左手を握ってきた。その瞬間、ゾワッと悪寒がして、思わずその手を振り払ってしまう。
「あ……すみません……えっと、どちら様ですか?」
手を振り払った気まずさと、この人が誰か分からない不安に、櫂斗は恐る恐る声を掛けた。
「……俺は亮介、来島亮介」
思い出せないか? と聞かれて、櫂斗は首を横に振る。
「ごめんなさい……来島さんとおれは、友達だったんですか?」
櫂斗がそう言うと、亮介は長いため息をついてその場にしゃがみこんでしまった。
「友達というか……櫂斗、本当に記憶を失くしてるんだな」
亮介は再び立ち上がると、彼女は? と波多野を指す。彼が答えをぼかした事に気持ち悪さを感じるが、櫂斗は素直に答えた。
「ああ、彼女……みたいです。って言っても、記憶が無いので実感が湧かないですけど」
「……彼女?」
亮介は波多野を見た。眉を寄せた彼の表情に、櫂斗は何か間違えたかな、と不安になる。
すると、波多野は亮介のその反応を見て何かを思い立ったらしい。
「……来島さん、私たちせっかく堀内さんの共通の知り合いなので、あなたと少しお話ししたいです、良いですか?」
波多野がそう言うと、亮介も同じように思っていたらしい、了承する。一人会話に入れなかった櫂斗は、入院してからこんな状況はしょっちゅうだったので、黙って見守ることにした。
「じゃあ帰りますね、堀内さん。また来ます」
波多野はそう言うと、亮介を連れて病室を出て行った。櫂斗は考えを巡らせる。
二人で何を話すのだろう? 少なくとも、彼らは櫂斗が記憶を失くす前の櫂斗を知っている人物だ。波多野は頭の回転が早そうだし、櫂斗の不利になるような事は言わないだろう。
しかし気になるのは亮介の方だ。あの眼鏡の奥の瞳に見つめられると、何故か居心地が悪くなり、胸が締め付けられる。怖いとか、射すくめられるという表現の方が合っているかもしれない。
(……眠い)
怪我をしているせいなのか、櫂斗はやたらと眠くなってしまい、そのままストンと眠りに落ちた。
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