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14シグラのこと

 屋敷に戻る頃には、シグラはすべてを絞り尽くされて疲れ果てていた。  馬車から降りたシグラを、すぐにレシアが迎え入れる。抱き上げたまま部屋に連れて、上着を脱がせてベッドに横たえた。 「水をどうぞ」 「……んー、ありがと」  少しだけ起き上がり水を飲むと、シグラはやはりすぐに倒れ込んだ。  それと同時に部屋の扉が開く。入ってきたのはクガイである。シグラが横になっているのを見て、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。 「シグラ様、ゼレアス・グランフィードに食われたんすか?」  やけに確信を持った物言いだ。レシアは「もっと濁しなさい」とたしなめているが、きっと匂いで気付いたのだろう。ベータには分からないが、アルファやオメガは嗅覚が鋭いと聞く。恥ずかしい気持ちもないために、適当に手をひらひらとさせて答えておいた。 「気持ちよかったんですか?」 「まあ、気持ちは良かったけど」 「ヴィンスター、シグラ様はお疲れですよ」 「分かってるけど面白いだろ。あの堅物のゼレアス・グランフィードが、恋人でもない相手を抱くとか」 「……あの、って……有名なの?」  シグラの不思議そうな問いかけに二人は目を見合わせていたが、口を開いたのはレシアだった。 「彼の父であるグランフィード侯爵は現在宰相を務めており、とても厳しい方とお聞きします。そのためグランフィード侯爵家の方はみな優秀ではありますが、それぞれ気難しいと言いますか……」 「要は頭でっかちで融通もきかない人間ばっかなんですよね。変にこだわってるっていうか」 「ヴィンスターの言い分はともかく、グランフィード家の人間は”堅物”として有名です。曲げない、譲らない、妥協しない。だからこそ栄えている部分もあります」 「へえ……すごい人なんだね、ゼレアスって」 「そう。息子のゼレアス・グランフィードも王宮勤めでやり手だって聞くから、シグラ様とは合わないだろうって思ってたんですけど……まさかあっちから手を出すとは」 「え、僕から手を出したかもしれないじゃん」 「まさか。面倒くさがりのシグラ様が俺とレシアの二人とセックスできる状態でそれ以上に相手を増やすわけがないっすよ。厄介な奴と進んで関わりたくないでしょ。でも強引にキスとかされたら、シグラ様流され上手だしワンチャンあるよなあと」 「な、流され上手……」  確かに二人との関係も流されて始まったようなものだ。  散々な言われようだが言い返すこともできず、シグラは険しい顔をして口を引き締める。 「ゼレアス・グランフィードには、結婚を強要されなかったんですか?」 「僕は快楽主義者だからお断りしますって言った。そしたら一途そうなゼレアスなら嫌ってくれると思ったんだけど……結局、それでもいいから輪に入れてくれって」  クガイとレシアは、ふたたび目を見合わせる。 「……何?」 「それは……結構本気ですね」 「本気?」 「だってさあ、あのグランフィードの坊ちゃんが体だけで良いからって言ったんでしょ? あの家で育ったならそこを妥協するとは思えないし、そうしたってことはよっぽどの感情があるんでしょうし」 「……ど、どうする? 僕殺される?」 「私たちが居る限りそのようなことは絶対にさせませんが……大丈夫ですよ、落ち着いて」  シグラが不安そうに眉を下げると、レシアは慰めるように軽くキスを落とす。 「流され上手だからなあ、シグラ様。ルジェ・アルフライヤにも何かされたりして」 「こらヴィンスター、不安を煽らない」 「こ、断り文句を変える。嫌われようとしたり、正攻法でもうまくいかなかったから……逆に空気読めないやつを演じてみるとか」 「一回デートしてるんですからもうバレてますよ。……ま、素直に全部言ってみたらいいんじゃないですか? 入れ替わってるところくらいから」 「入れ替わってる?」  クガイがころりと言ったことに、食いついたのはレシアだった。  普通に聞き流したけれど、そういえばシグラはかつての”シグラ”とは別人だった。転生を忘れるほどに今の状況に一生懸命になっていたから、クガイの失言を止めることもできなかったのだろう。  シグラは忙しなく目を泳がせると、あからさまにそっぽを向いた。それにはレシアが眉を寄せて、ぐっと顔を近づける。 「シグラ様。ヴィンスターが知っていて私が知らないことなどありませんよね?」 「……ク、クガイ……!」 「俺たちがこの先シグラ様を支えていくとして、レシアにだけ隠し事なんて無理っすよ。いい機会なんで教えたらどうですか」 「そうだけど……」  レシアは心底面白くなさそうな顔をしていた。  言わない理由もないのだが、信じてもらえるとも思えない。クガイの場合はクガイから異変に気付いたから良かったものの、今のシグラをかつてのシグラとして接している相手に突然中身だけが違いますと言っても……。 「シグラ様の中身、別の人間なんだよ」 「わー! クガイ! 僕が今言い方を考えてたのに!」  シグラは思わず上体を起こすと、慌てたようにレシアを見上げた。 「あ、あの、でも入れ替わってるわけではないというか……僕が勝手に”シグラ・ローシュタイン”の中に入っちゃったから本物のシグラがどこかにいっちゃって、えっと、だから今の”シグラ”は本当のシグラではないという感じで……」 「目の色も違うしな」 「クガイ。しー、今は僕のターンだから」 「ターン制なんすね」  改めてレシアを見ると、思ったよりも落ち着いた様子でシグラを見ていた。  そして一度腕を組んで考えたかと思えば、長く息を吐き出す。 「なるほど、それで……人が変わったようだとは思っておりました。瞳の色も、もちろん気付いていましたよ。……そうですか。シグラ様は、消えてしまわれたのですか」 「……ご、ごめん」 「謝る必要はありません。……シグラ様はずっと苦しんでおられたので、逃げ出せたことでようやく楽になれたことでしょう」  それまでシグラの側にいたのは、クガイではなくレシアだった。だからこそ思うところもあるのだろう。  きっとシグラの心情の裏側まで知っている。苦しみも葛藤も、一番側で見ていたはずだ。寂しそうな表情に、シグラは少し申し訳のない気持ちになった。 「旦那様はこのことを?」 「前に顔を合わせたときにすぐにバレたよ。……お父さんも寂しそうだった。やっぱり息子が一番だよね」 「みんな都合がいいだけっすよ。それまで煙たがってたくせに、居なくなったら惜しくなるとか馬鹿らしい」 「ヴィンスター。旦那様になんてことを」 「本当のことだろ。……おまえは何かしてやったのかよ。シグラ様が八方塞がりで苦しんでるのなんか屋敷の全員が知ってただろ。それで、一番近くに居たおまえは何をした?」  クガイの言葉に、レシアはぐっと押し黙る。 「……シグラは嫌なやつだったんじゃないの?」 「嫌なやつでしたよ。みんなの嫌われもんです。シグラ様が何かをすればすぐに使用人の間で愚痴が飛び交う。……レシアとか一部の人間はそうじゃなかったみたいですけど」 「自分勝手で傲慢で、私たち使用人に無茶な言いつけばかりをして、何かがあれば我々の責任にされましたし、失敗をすれば責められました。確かに嫌な主人でしたが……シグラ様はベータだったからこそそうしなければならなかったのだと、私はある日気がつきました」  クガイがつまらなさそうにソファに腰をおろす。レシアはそれを咎めるような目で一瞥したが、すぐにシグラに視線を戻した。 「この家はアルファがすべてです。奥様も静養で屋敷を離れてから余計に、ベータであるシグラ様は孤立しました。気丈に振る舞うことでアルファの真似事でもしていたのでしょう。一人になるといつも落ち込んで、何もうまくいかないことを悲しんでおられましたから」 「それを今言ってどうなんだよ。前のシグラ様を返せって言うつもりか? 俺はごめんだ」 「分かっています」 「社交界では? 嫌われてたんでしょ?」 「ええ。それはもう酷いほど。……まあ、片隅で落ち込んでいるシグラ様を見つけた数名の者は、シグラ様のことを気にかけていたようですが」  ――シグラの境遇や本質を知った者には、きっと好かれていたのだろう。けれどシグラ自身が周囲に助けを求めなかったから、勝手にひとりぼっちだと思っていただけである。  なんだ、こいつは嫌われていない。  シグラはやっぱり嬉しい気持ちで「そっか」と小さくつぶやいた。 「でも、それならすぐに来てくれたら良かったのに。レシア、僕が目を覚ました日に全然側に居なくてさ。ちょうど三人とお見合いの日だったかな。側に居たのがクガイだったから、呼ばれないしちょうどいいから嫌な奴から離れとこってどっか行ってたのかと思った」 「まさか、そのようなことは。……あの日はちょうど発情期(ヒート)の期間でして、今回はそれが酷かったために実家に戻っていただけです。もちろん屋敷には母の不調と伝えていましたが」 「あーなるほどね。それでか」  やけに嬉しそうな様子のシグラを、クガイがじろりと睨み付ける。 「……シグラ様、元に戻る方法とか知らないんすよね?」 「うん? 知らない。探そうとは思ってるけど」 「はあ!? 今更俺たち放り出して自分は元通りかよ!」 「そうじゃないよ。僕はもう死んだから、僕が戻れる可能性はないんだけどさ。まあ、僕はそれなりに楽しめたしなあ……人生に長いお休みをもらった感じ」 「知らないっすよあんたの感覚なんか」 「本当に……嘘みたいに楽しいんだよ。のんびりした時間を過ごせるのもそうなんだけど、この世界はすごく綺麗で、外にも出たし、友達も増えた。クガイとかレシアとも仲良くなって、えっちも気持ちいいし」  一拍間を置くと、シグラは「楽しいなあ」と続ける。 「一生分くらい楽しくて、癒されて……あー、生きるっていいなあって思う」 「……なんすかそれ」 「以前のシグラ様は、楽しくなかったんですか?」  核心をついたような質問に、その場は一気に静まり返った。  そういえばクガイも以前のシグラのことを知らない。気にならないわけではないから、答えを待つように黙っている。 「んー……楽しくない、は語弊があるかな。でも今の感覚が楽しいってことなら、もしかしたら楽しくなかったのかもしれない」 「何してたんすか? どんな人だった?」 「……何、クガイ、僕のこと知りたいの?」 「私は知りたいですよ。今のシグラ様も、私にとっては大切な主人です」  レシアの完璧なまでの笑顔に、シグラは面食らったように目を丸くした。  しかし次には仕方がないなあと呆れたように笑う。 「変なこと言ったから変な空気になっちゃったね。もう体も動くし、お風呂にでも入ろうかな。今日は早めに寝たい気分」  あからさまに話をそらした。それはきっと「深入りするな」という、言外の忠告である。  クガイとレシアはそれに正しく気がついた。だからこそ何かを言い出せるはずもなく、二人してまた目を見合わせたけれど良い案は浮かばなかったから、やるせない気持ちを持て余してシグラの背について浴室に向かった。  

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