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こころの歪み④

 音のない空間。  言葉を発したあとの俺の荒い息遣いだけが嫌でも響く。 「は……?なにいって……別れたいって…………マジで、言ってんの?」  信じられないとでも言うような声がすぐ隣から聞こえてくる。  しばしの沈黙。  にぎりしめた両手に力を込めて、それを見つめながら言葉を返す。 「こんなこと……冗談で言うわけねぇだろ」 「ヒナ……」  イヅルのため息のような声のあと、再び沈黙が訪れる。  ここで一気にいかなきゃ駄目なんだ。迷いがまた湧き上がる。  ……流されるな。戻っても、また繰り返すだけだ。  俺は多分、お前のことを好きになりすぎたんだ。そうしていつの間にか自分の許容範囲を越えていた。 「まあ、とにかくさ、また友達にもどろうぜ。もとから男同士だし、そろそろ正念場……」 「ヒナ。そんなの理由になってない。納得できない……なんで別れたいのか教えて」  少し怒ったような声。それを聞くと、思わず泣きながら本当の理由を叫びたくなってくる。  寂しくて、不安で。  耐え切れなくなった弱い心を……  ぶんぶんと俯いたまま小さく自分の頭を振った。   ……怯むな。  そんなみっともない姿……見せてたまるか。 「ま、お前、部活忙しいしさ。クラスも離れたし、いい機会かなって……」 「本気で言ってんのか……?」 「お前ならすぐに新しい彼女も見つかるし、俺なんか居なくても別になんもかわんねぇだろ?」 「ヒナ……俺、マジで怒るよ?」 「だいたい俺は男なんだ。こんな関係がいつまでも続くなんて……お前だって、本気で信じてたわけじゃないだろ?」 「っ」  息継ぎもしないで、イヅルの話も聴く耳を持たないで一気に言葉を発する。  そんな俺の言葉を遮るかのように、イヅルが寄りかかっていたロッカーの逆方向を、拳で後ろ手に殴った。ガンッと大きな鈍い音がして、俺は一瞬固まった。  駄目だ。止まるな。  止まってしまったら、もう、何も言えなくなってしまう。  ……そんな弱い自分を十分に分かっていたから。  なんとか最後まで言い切って、意を決して顔を上げて隣の顔を見た。 「……イヅル……」  思わず息を呑んだ。  だって、そこにあったのは今にも泣きそうな表情で。   ……それは俺が今まで見たこともない顔だったから 「イヅル……」  思わずハッと息を呑んだ。  どうしてオマエそんな顔してんだよ……  なんでそんなにつらそうなんだよ……  手を伸ばせばすぐソコにある距離。そこにイヅルがいる。  ……抱き締めたい。  自然と両手が伸びていく。  心が、体がイヅルを抱き締めたがっている…… 「……わかった」  その手がもうじき届く、その瞬間だった。  イヅルの乾いた声が耳に響いた。顔を上げると、そこにあったのは、もうさっきの泣きそうな顔でもなくて、かといっていつものイヅルの顔でもなくて。  急に空気が冷めわたった。重苦しい沈黙が再び始まる。  俺は何も言えずに伸ばしかけた手を握りなおす。 同時にさっきまでの芽生え始めていた暖かい気持ちも消え去った。  残された最後の小さな光が消えたかのような……そんな錯覚に陥った。  ……どうしたかったんだ、俺は  なにをしたかったんだ、俺は。  自分自身の気持ちがどうにもならない。  結局、俺はイヅルが好きなんだ。それはまったく変わらない。  だから……イヅルが嫌だといってくれるのを待っていたのかもしれない。  嫌だといって、俺じゃなきゃダメだと言って、そうして……ただ、抱き締めて欲しかっただけなのかもしれない。  イヅルの答えを聞いた瞬間、すべてが終わったような気持ちになった。  もう、取り返しがつかない。  自分自身のくだらない駆け引きで、もう取り戻せない。  ……嫌だ。別れたくない。  好きなのに。  こんなに、好きなのに…… 「……じゃあ」  沈黙の抗議は届かない。  その場から動けない俺をよそに、イヅルの影が去っていく。  パタンと。  扉が閉まった瞬間、思わずかけだした。  その扉をもう一度あけたら、まだそこにイヅルがいる気がして。  そうして笑って『ヒナ。ウソだよ』って。  そうやって笑って、抱き締めてくれて……  期待を胸に扉を開けた。  ーーけど  そこには期待していた人影はなくて。冷たい風が一気に小さな部屋を満たしていく。  ふいに、涙が溢れた。  ……いつの間にこんなに素直になれなくなったんだろう。  もう少し言葉に出せてたらよかったのかな。  お互いがお互いのことを思いすぎて、素直に言葉に出せなくなっていた。 『アイツはそんなヤツじゃない』  そういってくれたイヅル。  思えばあの時からだ。  あの時から俺はお前を………  あのときのなんともいえない幸せな気持ちは  今はもうどこにもなかった。

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