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第3話

 髪をワックスで固めて、白いワイシャツに袖を通す。リビングに置かれたソファの背もたれに腰を預けてボタンを留める。そこへ、田辺がネクタイを持ってくる。 「結ぼうか?」 「今日はいいや。カバンに入れといて」  答えた大輔は、壁時計の針を気にしながら、シャツの裾を押し込んでスラックスを引きあげる。ふいに笑いが溢れた。くくっと声をくぐもらせると、田辺が振り向く。  ソファの上のカバンを開け、ネクタイをきれいにしまっていたところだ。  不審げな表情に対して、笑ったままで答えた。 「こんなに面倒見てもらったこと、ない」  言いながら、ベルトを締める。 「母親みたい? それとも、嫁か……」  肩をすくめた田辺は薄く笑う。『嫁』という言葉に、以前ほどの重さはなかった。痛みも感じない。  離婚して約三年。もうとっくに心の整理はついた。いろいろなことが過去になり、いまは距離を取って思い出せる。田辺の存在が、そうさせたのだ。 「じゃあ、行くから」  時計の針がタイムリミットを示し、ジャケットを羽織った大輔は、カバンを掴んで玄関へ向かう。 「いってらっしゃい。気をつけて」  柔らかな声に追われて、振り返らないままで靴を履く。心の奥底がじんわりと湿って、言葉にしがたい気分になる。  新婚の頃は、元嫁の倫子(のりこ)も見送ってくれた。早く帰ってきてねと無邪気に送り出され、無理を言うなと心の中で悪態をつくようになったのはいつ頃だっただろう。  心の奥に陰が差して、立ちあがった大輔は肩越しに田辺を見た。  ざっくりと編んだルーズなカーディガンに、襟ぐりの広いボートネックのカットソー。腕を組んで壁にもたれていた男は、微笑みながら近づいてきて、その場に膝をついた。  大輔の黒いスニーカーの紐がほどけていたからだ。さっと結び直してくれる。  その姿を見ながら、元嫁の記憶を頭の隅へ押しやった。離婚したことは過去なのに、心の整理もついているのに、田辺といると思い出してしまうことが多い。ひとつひとつの分岐点をなぞって、同じ過ちをしたくないと繰り返し検分する。 「駅まで走ることになるよ。……車で送ろうか?」  その場に膝をついたままの田辺に、玄関先で見あげられる。職場の近くまで送るという提案は、首を振って断った。 「いってきます」  田辺の前髪のきれいなカールを指で揺らして、大輔は扉を開けた。エレベーターホールに向かいながら、忘れ物がないかを確認する。  腕時計に、携帯電話。家の鍵と財布。必要なものがすべて、あるべき場所に収まっていることを確認し終えると、ちょうどエレベーターが到着した。  乗り込んで、ロビー階のボタンを押して顔をあげる。すると、閉まりかけていたドアに手が差し込まれた。田辺だ。カードキーの入った財布を手にして、息を乱しながら乗り込んでくる。  驚いた大輔は、直後にあきれた。同時に、胸の奥が温かくなる。 「駅まで、送らせて」  するりと身を寄せられ、服に隠れて指が絡む。大輔はかすかに息を吸い込んで、「ん」と小さくうなずいた。  名残惜しく離れがたいときと、そうじゃないときの差はなんだろうかと考える。身体を繋いだあとなら、晴れやかな気分で手を振り合えたのかもしれない。  お互いの気持ちを確かめるのに、手っ取り早い方法だ。言葉よりも、キスよりも。あけすけな快楽の交渉を持つことが一番いい。  せめて玄関先でほんの少しの時間を取り、ぎゅっと抱き合えばよかったのかと、そんなことをバカ真面目に考えてしまう。大輔は失笑した。 「ニヤニヤして。ご機嫌だな」  コンビを組んでいる先輩刑事が疎ましげに睨んでくる。自分の顔をつるりと撫でた大輔は表情を消す。失笑していたのに、ニヤついて見えたなら心外だ。  車の助手席に沈むように座った西島(にしじま)は煙草を指でもてあそんでいた。覆面パトカーの車内は禁煙だ。 「調子がいいみたいでうらやましいよ、おまえは。若いってのはいいよなぁ。相手はどこの誰だ。そういえば、この前、コンパに誘われてたよな? いいのがいたか」  火のつけられない煙草をくちびるに挟み、西島は窓の外を眺める。  鉄筋コンクリートの二階建てビルが調査対象だった。暴力団の事務所として登録がある。所属は大滝組で、三次団体だ。近頃、妙に羽振りがいいと噂になっていた。  そこへ出入りする関係者を知るため、大輔と西島は一日中こうして張っている。事件はまだ起こっておらず、単なる調査だ。もしものときのために、地道な情報集めをしておくのも仕事のひとつだった。 「薬物(ヤク)を扱ってるなんて、マユツバって気がするけどなぁ」  ハンドルにもたれてつぶやき、大輔はぼんやりと目を細めた。 「行ったんだろう、コンパ」  「まだ、そんな話してるんですか。行ったけど、人数合わせですよ」 「人数合わせだろうが、出会いを求めてれば、出会うだろ」 「いや、意味がわかんない」  大輔が笑うと、ヤクザ顔負けのいかつい雰囲気をした西島に肩を押される。 「女を作れよ、女を。……ヤクザとツルでるとロクなことにならねぇぞ。ほどほどだ、なにごとも」 「なんの話ですか」  しらを切った大輔の横顔へ、西島の鋭い視線が容赦なく突き刺さる。振り向くのはさすがにこわい。大輔はうんざりとして、ため息をついた。 「別に、ツルんでるわけじゃないし……。情報だって、ちゃんともらってるし」 「ついでに、どこの世話をしてもらってんだって話だ。そのあたり、わかってるんだろう」 「……いまさら」  苦々しさが胸の内に広がり、大輔は顔を歪めた。煙草を指で回した西島が言う。 「週に一回の昼飯と、月に一回のホテルなら、まぁギリギリセーフだろうな。でもなぁ、おまえ……、月に四回のマンション通いは、ギリギリじゃないアウトだ」 「知って……」  それ以上、返す言葉が見つからず、大輔はぐっと息を呑む。  春頃は、応援するようなことを言われていたが、夏の頃から状況が変わった。田辺との関係に対する風当たりは強くなり、ことあるごとに揶揄される。  いつかは釘を刺されるとわかっていたが、これほど赤裸々に責められるとは想像していなかった。  大輔も田辺も、本来は異性愛者だ。そのふたりが続ける男同士の肉体関係なら、情報協力の見返りとして目こぼしが続くと、どこかで期待していたのだ。  西島が苦い表情で眉をひそめた。 「……ほかのヤツらは知らない。だから、うっかりして足元をすくわれるなよ」 「情報を取ってくれば、文句はないんでしょう」  大輔はぶっきらぼうに答えた。  ほかのヤツらというのは、西島と大輔が所属する組対こと組織対策本部の暴力団対策課に属する別チームのことだ。普段から成績を競っているが、この頃は、薬物関係の手柄を立てようとつばぜり合いに拍車がかかっていた。  最近、厚生局の麻薬取締部が大物芸能人を麻薬使用で逮捕したからだ。テレビでも頻繁に特集され、懸案となる入手ルートの解明を巡っては、麻薬取締部と組対の薬物課が火花を散らしている。もちろん、ヤクザが噛んでいる可能性は高く、組対の暴力団対策課も首を突っ込んでの三つ巴だ。  自然、各組織内のチーム同士も、牽制が激しくなる。切磋琢磨なんて言葉はきれいごとで、裏では足の引っ張り合いも横行していた。 「薬物関係なら、岩下(いわした)は関係ないんじゃないの?」  大輔はわざとくだけた言い方をして、先輩の西島を見る。気心の知れた仲だ。特に不満げな顔をされることもない。 「まぁ、そうとも言えるよな」  くちびるに挟んでいた煙草を箱へ戻した西島が表情を歪ませたのは、大滝組若頭補佐である岩下周平(しゅうへい)のことを考えたからだろう。彼は、田辺の兄貴分だ。  デートクラブの経営が主な資金源と見られている、元女衒の色事師だった。 「そうとも、って……。大滝組は薬物関係を御法度にしてるし、幹部が表立って関わるなんてありえないと思いますけど」 「ちょっとは自分の頭で考えろ。確かにな、大滝組は自分のところで扱うのを嫌がってるけどな。量が増えただろ。あと、種類」 「関西で出回ってるヤツが流れてるなら、桜河会(おうがかい)のシノギで間違いないでしょう……」  大滝組のシマで薬物を捌いているのは、京都のヤクザだ。近くの大阪・神戸は、関西一の組織・高山組(たかやまぐみ)の管轄になっているのでわざわざ遠征して商売をしている。  黙認している大滝組は場所代で儲けているという構図だ。  西島がうなずいて答えた。 「だとしたら、だ。大輔。なおさら、そういうことを岩下が許すと思うか? 量や種類が増えたら、尻尾も出やすい」  そうなれば、取り締まりの対象として目をつけられてしまう。商売の責任は桜河会にあるとしても、痛くない腹を探られるのは避けたいはずだ。  窓の外を眺めながら話す大輔は首を傾げた。  「さすがにそんな細かいことまで、コントロールしてないんじゃ……。いや、そういうところはあいつも知らないと思う……」  そもそもの話だ。いくら岩下の舎弟分だといっても、田辺の仕事は投資詐欺で金を集めることだ。兄貴分が関わる組の仕事のことは、ほとんど知らない。それでも、大輔のために、いくらか動いて知り得た情報を運んでくれている。  その遠巻きなところが、大輔と田辺、双方にとって都合がいい。核心に近づきすぎると、田辺を飛び越えてヤクザ側が動き、大輔を協力者として買収しようとする恐れがあった。 「聞いてこいとは言ってない」  西島はそっけなく鼻を鳴らす。  ふたりの目の前にあるビルには、まだ、誰も現れていない。もし現れたとしても、いまは記録するだけだ。車にドライブレコーダーも取り付けられている。 「あんまり深い仲になるな。相手は、ヤクザだ」  冷淡に言われて、大輔の背中が、ひやりと冷える。ミイラ取りがミイラになるとでも言うのだろうか。口を開きかけて、やめた。  組対の動向を知ろうとする岩下が、田辺に情報収集を命じる可能性はあった。田辺の立ち位置を考えれば、断ることはできない。いまでもちょっとした情報は流しているが、田辺が持ってくるネタに比べれば小さなことばかりだ。情報同士の交換で済んでいるうちはいいが、金を積まれると雲行きは怪しくなる。  大輔が向こう側の協力者になってしまっては、暴力団対策課内での立場が危うくなってしまう。  西島はそのことを言いたいのだろう。  考えないようにしているだけで、大輔にも自覚はある。  特に、岩下周平というヤクザとは距離を置くことが最善だ。すでに餌食となって自滅した刑事もいる。  だからこそ、絶妙の距離感で田辺を情報源としている大輔は重宝されていた。 「大輔。いいか。大滝組のほとんどのことは、岩下が緻密な計算でバランスを取ってる。それぞれが好き勝手にしているように見えても、あの渉外能力はとんでもない。……なのに、な。目に見えて薬物売買が派手になってる」  西島に対して、大輔はちらっと視線を送る。 「なにかが動くということですか」 「岩下の策が動いているのか……、もしくは、大滝組も知らないルートができたかもしれないって話だ」 「まさか……」 「ありえない話じゃない。大阪の高山組が、噂通りに分裂(割れる)かもしれないなら、ありえる」 「本当に、割れるんですか……。抗争とか……」 「いまはやらねぇと思うけどな。派手に殺し合っても、なんの利もないからなぁ。けど、関東が煽りを食わないって話でもないだろ。ニシンを追って漁場を変えてくるって話だ」  西島がまた、ふんっと鼻を鳴らした。大輔は意味がわからずに首を傾げる。 「え? ニシン?」  新しい薬物の名前だろうかと、本気で思う。 「え、おまえ、ニシン、知らないのか。魚だろ。ニシン御殿が建つんだぞ」 「はい? 魚? ヤクじゃなくて」 「なに言ってんだ。意味がわからん」  あきれた目で見られ、大輔はむっとした表情を返す。ふたりはしばらく睨み合ったが、どちらも引かず、同時に前を向いた。 「西島さんは、新しいルートが存在すると思うんですか」 「半グレかもしれないし、外国人かもしれない。……どっかから持ち込まれて、売られて、誰かが買うんだ」  そこにヤクザが絡んでいるのなら、組対の出番だ。薬物課よりも早く現物の押収ができれば、暴力団対策課の手柄になる。 「……ヤクザが組を抜けるのと、舎弟が岩下から離れるんじゃ意味が違う。おまえの相手の後ろには、岩下がいるんだ。引き際を考えろ。いつまでも同じ人間を相手にするな」  大輔は、とっさに振り向いた。西島は前を見たまま、くちびるを引き結んでいる。  別れられないと言いかけて、大輔もくちびるを閉ざした。ぎゅっと強く、引き結ぶ。  ただのヤクザなら、手順を踏めばどうにか、組を抜けてカタギに戻ることができる。けれど、岩下の舎弟が、彼と縁を切って離れることは難しい。田辺は『岩下の長財布』とまで呼ばれた財源だ。そう簡単に関係は変わらないし、距離を置くことそのものが裏切りと取られる可能性もあった。  利害だけの協力者だと胸を張って言えるなら、西島の助言に従うのが正しい。田辺と距離を置き、新しい情報源を見つけることに躊躇もないだろう。でも、そうはいかなかった。  大輔はもう恋をしている。  相手は、ヤクザだ。そして、大輔は刑事だった。『協力者』という隠れ蓑がなければ、本気になればなるほど危険に陥る、許されない関係だ。  見ないようにしてきた現実を突きつけられ、そういう時が来てしまったと、ただぼんやり考えるしかなかった。

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