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第4話
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横浜の山手にあるレストランのランチタイムは女性客で満ちている。にぎやかな笑い声と折り重なるように聞こえてくる話し声、カトラリーの触れ合う金属音も柔らかに響く。
男女のカップルも男同士の取り合わせも珍しい中で、田辺はランチミーティングの素振りをして座っている。堂々としていれば、周囲に怪しまれることはない。
店側が気を利かせ、窓際の隅にある席に案内されたのもよかった。テーブルの配置がほどよく離れているので、人目につかず、会話を盗み聞かれる心配も少なくて済む。
目の前に出された、スプラトゥスの香草パン粉グリルを器用に切り分けた田辺は、優雅な仕草で口元へ運ぶ。
ランチミーティングの相手は、スーツ姿の岡村(おかむら)慎一郎(しんいちろう)だ。岩下の舎弟仲間で『同期』と呼べる悪友のひとりだった。関わっている仕事が違うので、こうして定期的に情報交換の場を作る。
夜に会うことも多いが、邪魔が入らないのは昼間だ。
岩下からの呼び出しもかかりにくい。
「この魚、なんだった?」
岡村に聞かれ、田辺はワイングラスを手に取った。一口飲んでから答える。
「スプラトゥス。ニシンだろ」
「ニシンなんだ、へー……」
感心したように片眉をあげた岡村も、ワイングラスを引き寄せた。会うのが昼でも夜でも、ふたりが酒を飲むことに代わりはない。
「勉強しろよ、岡村。あのクラブの客は、一流の人間も少なくない」
「多くもない」
田辺の言葉を素直に受け取らず、岡村はそっけなく答えた。
クラブというのは、岩下の管理してきたデートクラブのことだ。これまで社長職に就いていた岩下が退き、後継者にはカバン持ちを続けてきた岡村が抜擢された。
デートクラブの表向きはカタギの会社であり、岩下の抱えるシノギの中では実入りが多くないと思われている。実務は支配人が取り仕切り、登記簿上の社長兼オーナーも名義を借りた別人の名前だ。
しかし、裏向きでは、売春、各種の違法パーティーの開催と、かなりの金が動き、一筋縄ではいかないシノギになっている。それらすべてを統括してきたのが便宜上『社長』と呼ばれる岩下だ。女衒、色事師と揶揄されてきた兄貴分は、その悪評をいかんなく発揮しいて、他人の欲を金に換え、その上で、買いたくても買えない顧客名簿を作りあげた。
政治経済に関わるさまざまな人間の欲が、リストアップされている。
つまりは、弱みを書き込んだ黒革の手帳だ。
使い方次第で、金にも権力にもなり、ヤクザとして生きていくためだけでなく、日本のあらゆる分野の人脈を発動させることができる。もちろん、使う人間の手腕も問われ、岩下でなければ無理だと周囲の人間は口を揃えた。田辺もそう思っている。
しかし、管理に関しては、意外にあっさりと席を譲った。
カバン持ちとして、どこへ行くにもついて回っていた岡村なら、岩下の流儀はよく理解できている。朴訥とした雰囲気で目立たず、ともすれば存在感が薄い男だったが、見る者が見れば『右腕』と評されることもあった。堅実さは認められていたが、岩下に匹敵するような華はない。
なにかが足りないと言われ続ける岡村に、同僚として悪友として、田辺は何度も『我を出せ』と助言した。あまりに個人の色がなく、このままでは足元を見られて利用されると心配してきたのだ。相手の失敗に心を痛めることなく笑うような付き合いだが、おちぶれていくことは望まない。
相手も自分も一流であるからこそ、悪態ついて罵り合う楽しみが活きる。
いつまでも兄貴の背中に隠れているわけにはいかないのだから、どこかで岡村らしい生き方を掴んで欲しいと願ってきた。しかし、それが叶ったときには、田辺の心配も的中した。
誰が言っても朴訥とした無個性を貫いてきた岡村が、あるときから急にやる気を出したのだ。意欲がみなぎり、身のこなしも洗練されて、岩下の陰に隠れていた華はひっそりと地味に開いた。それは見違えるほどだったが、問題もある。意欲の発露が、叶わない片想いにあることだ。
よりにもよって、岩下の男嫁が相手だ。すっかり惚れてしまい、その男嫁、旧姓・新条(しんじょう)佐和紀(さわき)からは、いいように扱われている。
佐和紀を昔から知っている田辺は同情したが、岡村本人はどことなく幸せそうだ。
しかし、佐和紀は佐和紀だ。結婚したって、首に縄がかかったって性格は変わらないのだろう。確かに、顔は整っている。結婚してますます磨きがかかり、ちょっとお目にかかれないぐらいの雰囲気のある美形になった。『麗人』という言葉が似合うと掛け値無しに思えるぐらいだが、本性は暴れん坊で、がさつで、どこをどうこねくり回しても、女々しさなんて微塵も出てこない。正真正銘の『男』だ。
田辺も一時期は興味を引かれたが、あまりのギャップに嫌気が差した。いいのは顔だけ。それは肝に銘じている。
「ニシンといえば、佐和紀さんが……」
ふいに言って、岡村は口元をゆるませる。悪魔に魂を売った顔だと、田辺は苦笑いを浮かべた。
「それ、いらない情報」
すかさず拒絶したが、岡村は黙らない。
「そういう曲をカラオケで歌うんだけど、妙に味があって……。演歌も悪くないって気分になる」
「で、なに?」
「それだけ。おまえは聞いたことないのか」
「そういう飲み方はしてない」
うっかり本当のことを言ってしまい、睨まれる。田辺と佐和紀の関係は、利益を搾取する者とされる者だ。美人局に誘い、さんざん上前を撥ねてきたので関係はよろしくない。
「じゃあ、今度、聞かせてもらうといい」
しらっとした岡村の表情に、わずかなあくどさが兆す。
「いや、俺を呼び出さないように言ってくれよ。俺が行かなかったら、おまえとふたりだろ。機嫌を取るチャンスだ」
「おまえを苛めたあとが、あの人は機嫌がいいんだ」
「俺を売るな、俺を。それはそうと、このまま、クラブの『社長』をやるんだろ」
「さぁ、どうだろう。そうなるかな」
「浮かない顔だな」
どこか億劫そうな岡村に、からかいの視線を向ける。
「忙しい。すごく、忙しい」
睨み返してくる岡村は、感情のこもった言葉を重く繰り返した。身に余る大役に謙遜を続けているのではない。そんな感激の瞬間は過ぎさり、シビアな時間の制約に不満があるらしい。岡村らしい本音だ。
佐和紀の世話係として動く時間が減るからだと、田辺は納得した。
「岩下さんがやってきたことだろ?」
「それも、信じられない」
「慣れてきたら、手の抜きドコロもわかる。いまだけだ」
「らしくないな」
見据えられ、田辺はにやりと笑い返した。
悪ぶって裏があるように見せたが、脳裏によぎったのは大輔の姿だ。好きな相手といられる時間の大切さは身に沁みて知っている。
大輔と恋人になってから、田辺の心は日に日に穏やかになっていく。このまま、なにもかもの角が取れて、丸くてつやつやした人間性に変われそうな気がするぐらいだ。
「あの会社、組から切り離せないのか」
ふいに思いついて口にすると、岡村はほんの少しだけ考え込んだ。首を傾げながら声をひそめる。
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