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第5話 初夜
ずっとレナードが傍にいるせいで、オデルの下半身は熱でべっとりと濡れていた。
手を引かれて初夜の褥に入ると、レナードは熱のこもった目でオデルを見つめ、そっと引き寄せた。
「あ……」
瞼や頬にキスを落とされ、じんと痺れるような、それでいて甘い感覚が広がってゆく。
「オデル、これを」
レナードは、ベッドサイドにオデルを座らせると、サイドチェストの上にあった白磁のカップを勧めてきた。熱いココアのようなとろみのある濃い飲み物で、きっと発情促進剤が入っているのだろう。必要ないと思ったが、相手が求めるのなら従おう、とオデルはそれを嚥下した。
ミルクと砂糖の甘さの裏に、シナモンらしきピリリとした香辛料が香る。そのまま少し話をしていると、昼間からあった熱が嘘のように鎮まっていった。
「これ……?」
飲み干したカップを不思議そうに見下ろすと、レナードがそれを再びサイドチェストの上へ置いた。
「効いてよかった。汎用型のものですが、オメガ用の発情抑制剤です」
「え……?」
てっきりこのまま、熱をスパイスに初夜を迎えるものだとばかり思っていたオデルは、目を瞠った。
「今日は抑制剤を飲んでいなかったのですね? 私のために。なのに、気づかずにいて申し訳ありませんでした。つらい思いをさせてしまった」
優しく囁かれたオデルは、心底から恥ずかしくなり、頬を染めて俯いた。こうなってみて、心のどこかで交わりを覚悟するだけでなく、密かに期待していたのだと悟る。
「どうして……」
初夜に互いに発情促進剤を用いて性交をすることは、珍しくないと聞く。それに、抑制剤はきちんと服用していた。ただ、レナードとは相性が悪くないらしく、今までと同じ処方だと、長時間は効きが鈍るのだ。
「きみを大切にしたい。大事にしたい。壊したくない。だからです。それに……」
レナードは困ったように眉を下げ、オデルを引き寄せると、腕の中にぎゅっと抱きしめ、耳元で囁いた。その声は今まで聞いたことがないほど掠れて上ずり、熱を帯びていた。
「オメガの前では、アルファは獣になってしまう。そんな姿をきみに見せられない。恥ずかしいのです。自制のきかなくなった自分を晒すのが……だから」
どうりでテーブルの下で繋いだ手が冷たかったわけだ。レナードの抑制剤は、よく効いているのだろう。
「私たちは政略結婚ですが……本当に愛し合うまでは、しないでいましょう」
「っ……?」
その言葉に、オデルは思わず顔を上げた。
そんなことが可能なのか、という顔をしたのかもしれない。だが、政略結婚だからできるのだ、とオデルは思い直した。レナードが我慢を決断してくれた以上、オデルは抗議できなかった。そもそも、オデルの中に眠っていた無自覚な欲望を、レナードに晒す勇気もない。
「ずっと、あなたが欲しかった。私の花嫁……」
言葉を飲み込んだオデルに、レナードはそっと促した。
「さ、疲れたでしょう? 今日はもう着替えて眠りましょう」
「はい……」
悪い人ではないのだ。ただ、二人の間に愛が存在しないだけで。
無言のまま、互いに背を向けて服を脱ぐと、キングサイズのベッドの上に用意されたナイトウェアに着替え、二人で同じ部屋の広いベッドに横になる。レナードはオデルの戸惑う表情を愛おしそうに見つめると、少し戯けた口を利いた。
「寝物語でもしましょうか?」
「ええ、ぜひ」
オデルは昔話や神話の類が好きだった。自分のルーツに関わる話が出てくるせいだろう。だが、それ以上に、オデルはいつの間にか、この謎めいた優しい花婿のことを知りたい、と思うようになっていた。
「主人公は、誰がいいかな? 私が……主人公の話をしても、かまいませんか?」
「はい」
せがむオデルの声に、レナードは目元だけで微笑み、天井を向くと、深呼吸をした。
「昔々、あるところに……女王の愛馬の調教師を父に持つ、少年がいました」
その声は懐かしそうに、静かに昔を掘り起こす。オデルは、天井を見つめるレナードの横顔をそっと盗み見た。穏やかで、優しげだが、頬が少しだけ上気しているように見える。オデルのことを想ってくれているのだろうか。自分の存在がこの青年の心の何割かを占めているのだと思うと、ふわふわと不思議な気持ちがした。
「少年は父を尊敬していました。父は、父の父、父の父の父、そのさらに父の時代から……敬愛する王の愛馬の世話を任される家系に生まれたことを誇りに思って生きてきたようでした。元は、帝国統一戦争の時代に、王となるさる国の主に付き従った騎士のひとりだったようですが、アルファながらその地位は、それほど高くなかったようです。ですが、少年もまた、大きくなったら女王陛下をお守りする騎士に——父のような良き調教師になることを信じていました」
絞られた灯りの下で見るレナードの横顔に、オデルはどこか安心する。いつしか、この人の唯一と呼ばれ、求められることを夢見ていた。恋とは違うかもしれないが、こうしてはじまる関係があってもいい。伝える機会はまだ訪れないが、ローズブレイド公爵家を救ってくれたレナードには、とても感謝していたし、そんなレナードに興味を持つ自分を、やっとどうにか許すことができそうだった。
レナードは、薄闇の中、幸せそうに口角を上げて囁いていた。
「……ですが、ある日を境に、少年は大それた夢を抱くようになります」
「夢……?」
「はい」
そういえば……と、人伝てに聞いた話を、ぼんやりオデルは思い出していた。レナードがまだ男爵位に叙される前から囁かれていたから、根も葉もないやっかみからくる噂だろうと相手にしていなかったが。レナードはもしかすると、寝物語に託けて、大切な話をしようとしているのかもしれない。
「その朝、少年は、無事にアルファに分化したことを報告するために、初めて父の仕事に付いてゆく許可をもらったのです。父の仕事相手は、女王の愛馬です。期せずして、女王本人に謁見がかなうかもしれないことを、当然、少年は意識していました。雲ひとつない晴天の珍しい秋の朝で、瑞々しい草花の露に、馬は下草を嬉しそうに食みたがっていました。父が、報告を兼ね、女王陛下に一礼するのを、少年も真似ました。しかし、女王はその時、たまたま彼女と親しい高位の貴族の子どもを連れていました。その子はまだ未分化とのことでしたが……彼こそが、きっと運命の相手だと、少年は直感したのです」
「それは……」
凪を湛えていた意識が、レナードの声に波立つ。言葉を飲み込んだオデルに、レナードは静かに続けた。
「まだ幼いその貴族の子は、物怖じひとつせず、じっと私を視界に入れ、睨んでいました。少年が怖気付くほど、その目は美しく澄み渡っていた……そして、幼いながら、見事な馬場馬術の技量を持っていました。ただ、その子に欠けたところがあることに気づいた私は、どうしても納得できず、それゆえ彼を視てしまう。視線を外せなくなった私は、彼が一向に笑わないことがとても悔しかったのです。馬上での彼は見るからに高貴で、威厳に溢れていました。少年は不遜にも、彼の笑顔を願い、臓腑の底が熱くなるような衝動を、生まれて初めて覚えた。私が、女王ではなくその子どもを目で追いはじめたことに、陛下はお気づきになられ、騎乗が終わると同時に、馬の手綱を持った私に、そっと耳打ちなさいました。「あの子を手に入れたいのなら、まずは私に近い地位まで、上ってこなくてはね?」と……。そうして……まんまと、私は誘惑されたのです」
「女王陛下が、そんなことを……?」
オデルは昔、謁見した際に見た、女王の厳然とした態度を思い出していた。オデルも女王とは長い付き合いだったが、彼女のそんな悪戯好きな側面を、知らない自分に引け目を覚えた。
「幻聴だったのかもしれません。が……以来、それが私の夢となり、希望となり、生きる意味となり……以来、熱に浮かされたように、その日をずっと、望み続けています。ずっと……」
なぜ、一介の調教師が貴族社会の慣習に背き、波風を立ててまで男爵位を求めたのか。誰も知らず、尋ねてもはぐらかされるばかりだったが、レナードの熱の込もった声を聞いたオデルは、ストンと何かが腑に落ちた。
「彼女の誘惑に唆され、走り続けてきたつもりです……夢は、まだ終わりません。私の愛しい人が、幸せに微笑む姿を、まだ、見ていませんから……」
多少、眠気に見舞われたのか、レナードの発音が怪しくなってゆく。
「ずっと好きだったのです……。あなたに……打ち明け……なければ、と……」
「……それ、は……」
オデルのことではないだろう。レナードは、些か微睡みはじめており、返答が怪しくなってきていたが、そんなレナードの周囲で何度か耳にした「想い人」の存在。妬みが生んだ貴族社会によくある根も葉もない噂だと高を括って、オデルは婚姻前にそのことについてレナードを追求しなかったことを、後悔した。レナードはオデルの声よりも、語りに集中する様子で、名残惜しげに続ける。
「ひと目惚れでした……凛々しく、手の届かない存在だった。名前もわかりませんから、一時的に「ドレッサージュの君」と……呼称していたことも……」
オデルは後悔に打たれ瞼を閉じた。「ドレッサージュの君」の噂は、社交界で名を馳せるようになったレナードに、なぜかついて回る有名な逸話だったからだ。だが、本人の口から零れた言葉はオデルの印象を覆す。だからレナードは、ローズブレイド公爵家を欲しかったのだ。公爵の地位が手に入れば、上流階級のさらに上位にいる貴族らとの、数多あるパイプが手に入る。女王への謁見も然りだ。「ドレッサージュの君」の名前を探り当て、探すことも容易になる。そもそも女王が爵位をお与えになったということは、即ちレナードの想いをお認めになった証左ではないか、とオデルは唇を震わせた。
「口も……利いたことがないのに、ですか? その……」
相手が放つ「ドレッサージュの君」という言葉を、どうしても口にできない。言葉が震えないよう気をつけるので精一杯だった。レナードは、満足げに呼吸を深くした。
「圧倒されて……でも、私に夢を与えてくれた彼と、女王のおかげでここまできました……。陛下のお力添えあってのことですが……今も、彼は弛まず、私の心を奪い……ます……」
慈善事業でも何でもない。現在形で語られる「彼」に、オデルの心は波立つのを止めない。
オデルに事情があるように、レナードにも事情があったのだ。ローズブレイド公爵家の家柄と交友関係という餌は、婚姻以外に手に入れる術が限られている。でなければ、なぜアルファになり損ねた、人として半人前以下の男性オメガ、しかも莫大な借金を拵え、社交界どころか帝国本土の噂になるようなオデルと、番ったりするだろうか。
「ですから……私は……」
レナードの弱まる声は、囁きになっていた。愛し合うまではしない、という約束は、法的拘束力の前では、正当で誠実な理由として映るだろう。注ぎ込んだ何億万に及ぶ負債を飲み込む形で形式上の結婚をしたとしても、番っていなければ別れることも容易だ。
オメガはオメガを産む確率が高い。ましてや、オデルは突然変異で生まれ落ちたオメガだ。まだ幼い双子の第二性別がアルファなら、オデルがアルファを産まなければ、双子のどちらかにローズブレイド公爵家の家督は譲られる。レナードは若くして引退を勧告され、残るのはローズブレイド公爵家に連なる元公爵としての身分と、その伝手をたどり、探し続けた「ドレッサージュの君」の消息だけだ。
きっと、それでいいとレナードは思ったのだ。だから賭けに出た。
「そ……」
そうだったのか、とオデルはひとり、呟いた。抱いていた疑問が氷解すると同時に、向けたはずの好意を利用されることが、こんなにも胸を抉るのだと自覚する。その瞬間、オデルは初めてレナードが湛える寂しげな笑みの理由がわかった気がした。
もっと冷静でいられると確信していた昔の自分を、愚かだったと蔑む。自業自得であり、傷付いたことを認めたくなかったオデルは、唇を引き結び、それに耐えた。
責める資格など、あろうはずがない。
眠りに落ちるレナードの横で、オデルはひとり、冷えたシーツに一粒だけ涙を落とした。
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