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第7話 愛とは?

「無粋ですまないが、急ぎの用なんだ」  新ローズブレイド公爵となったレナードのもとを、イアン・テイル・ウェッダーバーン伯爵が訪ねてきたのは、それからしばらく経った、午後のことだった。 「意思確認なら、電話で十分では? イアン」  借財に関する手続きと、新たに起こした事業の決済に忙殺されていたレナードと相談したオデルは、新婚旅行を夏が終わる頃に引き延ばすことを決めたばかりだった。気の置けない関係らしいイアンにレナードが反論すると、弾けるように笑われた。 「まあそう邪険にするなよ。実はきみの花嫁を拝みにきたんだ。式じゃ、うちの記者らが粗相をしないかに気を取られていて、肝心の花嫁と口を利く機会がなかったからな」 「どうせそんなことだろうと思った」  爽やかな笑い声を上げるイアンに、レナードは呆れ顔でオデルを紹介した。 「オデル。彼は私の寄宿学校時代からの友人で、イアン・テイル・ウェッダーバーン伯爵です。数ある事業のパートナーでもありますから、これから家へも出入りするでしょう。私が不在の時は、追い返してもかまいません」 「おいおい、酷い言いようじゃないか。……と、これは挨拶もせずに失礼を。式では世話になりました。どうぞよしなに。イアンと呼んでください。レナードはおれの無二の友でね」  レナードに抗議するのを忘れず、イアンは左胸に手を当てると、オデルに向かって軽く会釈をした。優雅で、少し人を食ったような身のこなしをするイアンは、悪戯っ子の少年のようにオデルに向かって目配せした。 「オデルとお呼びください、イアン。ウェッダーバーンというと、フレイムトラスト社の?」  大手新聞社の名前をオデルが出すと、イアンは頷いた。 「よくご存知で。父が破天荒で有名ですが、おれは社長としては二代目でね。名前も事業も、うっかり気楽に継承しました。以来、ジャーナリズムの奴隷ですよ」  戯けた態度で軽々な口を利くが、フレイムトラスト社がやり手で名高いことは、時勢に疎いオデルでも知っている。社交界で数度、すれ違うだけの関係でしかなく、こうして直接、話をするのは初めてだった。レナードがフォローを入れると、掛け合いのようになってしまうのが可笑しかった。 「オデル、イアンはこういう奴なので、どうぞ気安く接してください。少々軽薄に見えますが、これも戦略で、根は真面目な奴です」 「ちょっ……そういうことを言うなよ、レナード……! どうせ新婚旅行の邪魔をしにきたのは、おれだよ」  レナードの言葉尻をつかまえたイアンが、軽く自虐する。結婚式の取材許可をレナードが出すと言いはじめた時は、止めるべきか迷ったが、フレイムトラスト社の記事が好意的に書かれていたこともあり、他の新聞社も肯定的な記事を追って出してきていた。男性オメガであるオデルと社交界の寵児のレナードの結婚が、社会的にも前向きに認知されつつあるのは、こういうことの積み重ねがあったせいだろうか、とオデルは密かに舌を巻いた。 「美しい運命の花嫁を、生で見ないだなんて勿体ない。加えて親友の伴侶だしな」  おべっかを使うイアンに、レナードは「締め切りはいいのか?」と苦笑した。 「うちの記者は皆、筆が速いからな。君の結婚も早速、記事になったじゃないか。誰にも靡かなかった社交界の寵児を射止めた運命のオメガ……なんて、ロマンチックだろ?」  ——運命の、オメガ。  実際は、番にすらなっていないが、オデルは後れ毛で隠された白皙のうなじを意識し、曖昧に笑った。 「きみが記事を書かせているんだろ、イアン」 「ははっ、まあ、そうとも言う」 「油断のならない奴だな。ゴシップもほどほどにしておいてくれ。それと、嘘は書くなよ」 「嘘なぞおれの目が黒いうちは決して書かせないが、読者の希望を先読みするのも我々の仕事だからな。塩梅が難しい」  レナードの声も、オデルに対する時よりも、ずっと気安い。イアンは開放的な気質の持ち主で、ざっくばらんな性格のようだ。レナードは半分、困り顔だが、こんなに楽しそうにしているのを見たことがない。澱んでいた部屋に新しい風が吹き込んできたようで、オデルは密かにイアンに感謝した。  レナードはオデルを大切にするが、結婚後もどこか他人行儀で、距離を詰めてこようとしない。政略婚だから、それが当然なのかもしれないが、近頃は、少し気詰まりな雰囲気になることも多かった。 (でも、もし彼が……)  頭の片隅にいつもある「ドレッサージュの君」が、イアンである可能性がどれぐらいあるだろうか。そう考えてしまう自分をオデルは省みた。誰とも知れぬ相手よりも、イアンのような人物の方が好ましく思えるが、イアンは幸いにもというべきか「ドレッサージュの君」の条件からは外れる。  しばらく馬鹿話をしていると電話の音がして、やがて執事がレナードを呼びにきた。 「すまないが、少し外すよ。私の花嫁を頼む、イアン」 「任せてくれ」  レナードが電話の応対のために部屋を出て、騒々しい空気が霧散すると、イアンはオデルをじっと無言で見つめた。 「あ、あの……」  不躾な視線にたじろいだオデルが身を引くと、イアンは「いや」と首をひと振りした。 「単刀直入に尋ねますが、気を悪くしたら謝ります。あなたはレナードを……愛せそうですか?」 「っ」  イアンの質問に、オデルは息が止まった。 「な、ぜ、そんな、ことを……?」  まるで見定めるようなイアンの視線が、あくまで好意を映しているだけだとしても、オデルは足が竦む。 「ただの好奇心です。婚前に、レナードが、あなたが乗り気でない、と嘆いていたのでね」 「レナードが?」 「ええ。……おっと、これは内緒にしておいてください。あいつは弱みを晒されるのを怖がりますからね。でも、レナードは、あなたのことがとても好きですよ。たとえどんな噂が立とうと、後ろ指をさされようと、不名誉な汚名を着ようと、この機会を逃したくないと……悪人と誤解されようとも、あなたと番いたいと言っていました。だから、こちらへ伺ったんです。率直に、友人の結婚相手に興味が湧きました」  イアンはそう言うと、傍らに置かれたカウチに足を組んで腰掛けた。 「記事を読まれたなら承知しているでしょうが、あなたがたふたりは、運命の番いだと言われているのです。彼が望むのはあなただけだ。オデル」  言っているのは、イアンが発行しているフレイムトラスト社の記事だろうと思ったが、そこは黙っていた。レナードは大衆に喧伝することで、少しでもローズブレイド公爵家、ひいてはオデルへの風当たりを弱めようとしてくれたのだと、わかるからだ。 「運命、の……」  甘い雰囲気の言葉に、少し前までのオデルだったら、きっと酔い知れ、溺れていたかもしれない。初夜の前だったらば。だが、今はイアンの言葉に、手足の先が冷えてゆく。  レナードはイアンに「ドレッサージュの君」について、どの程度まで話をしているのだろうか。もしイアンが知らなければ——いや、関係性を鑑みれば、それは不自然すぎる。イアンもやはり知っていると考えるのが自然だろう。だが、それが誰かまでは、わかっていないのかもしれない。  オデルは「ドレッサージュの君」を差し置く形でレナードと結婚し、伴侶となってしまった。番っていないとはいえ、もしもレナードの求める相手が現れたら、謝罪することしかできない。  オデルは、きゅっと唇を噛んだ。青ざめているのがわかったが、努めて顔を上げた。 「誠実でいるよう、努力します。それでも足りなければ、身を捧げることも。それでは、駄目でしょうか……?」  もしも今以上にできることがあるとすれば、イアンにヒントをもらいたかった。この言葉を、いつか「ドレッサージュの君」を探し出した時、イアンが思い出し、伝えてくれるよう願いながら。 「……美しい、愛ですね、それは」  イアンはただ呟くと、再び立ち上がり、オデルのすぐ前まできて相対した。 「レナードはいい奴です。幸せにしてやってください、オデル」 「……いいのですか?」  驚きに目を瞠ったオデルに、イアンは不思議そうに頷いた。 「? もちろんです」  質問の意図が掴めなかったらしいイアンの表情に、オデルはやっと、心から思ったことを素直に口に出しているだけなのだと悟った。 「できることは、何でも。レナードの足枷にならないように、努力します」  決心を言葉にして、背後に線を引く。別れる時がきたら、きっと哀しいだろう。だが、レナードにどうしてもと頼まれたら、揺らいでしまいそうだった。そうなっても「ドレッサージュの君」を恨まないように、静かに消える方法を模索せねばならない。 「レナードはいい花嫁をもらったようだ」 「ぼくは……」  違う、と否定もできたし、自分がそんな理想的な人格者だとも思わなかったが、オデルは確りと頷いた。 「きっと以前より……レナードを、好きだと思います」  告白することで、知っておいて欲しいことを託す。言葉が重荷になったら困るから、レナードでなくイアンにだけ打ち明けよう。回り回って伝わる確率はわからない。でも、婚前の不埒な自分では最早ないことを、オデルは証明したかった。 「レナードはあなたのことが、とても好きですよ。あいつはあれで、一途なところがありますから」  イアンはオデルの首筋にちらりと視線をやったが、何も触れずに微笑んだ。 「そう、でしょうか……?」  証拠など必要ないほど、イアンの言葉を純真に信じられたら、どんなに心が軽くなるか。しかし、イアンはオデルの表情をマリッジ・ブルーの一種だと捉えたのかもしれない。軽々と気持ちのいい声で、笑い飛ばした。 「ははっ、いよいよ証拠が要るとなったら、うちに聞きにくるといい。いつでも、どんな時でも、我がフレイムトラスト社は、あなたのような方なら歓迎だ」 「……ありがとうございます、イアン」  名刺を差し出したイアンから、オデルは丁寧にそれを受け取った。おべっかかもしれないが、イアンにそう言ってもらえることが、レナードに認められたかのように嬉しかった。 「何の相談をしているんだ?」  電話を終えたらしいレナードが戻ってくると、オデルと視線を交わしているイアンに硬い表情で尋ねる。 「きみの想い人の話さ。他に話題などあるものか。……それで? 何かあったのか?」  イアンが電話の内容について問うと、レナードが難しい顔になる。 「ウィルフォックスの繊維工場からだった。事故があり、人が巻き込まれたらしい」 「いつ?」 「今朝だ。先週、立ち上げたばかりの機械が、誤作動をおこしたとか」 「今朝? ……しかし、おれが訪ねた時は何の問題もなかったぞ。……いや、待て。うちは時間外労働はしないはずだろ? 場合によっては労務規定違反になる……」  イアンが笑みを引っ込めると、二人が交わす視線が鋭くなり、途端に話がきな臭くなりはじめた。 「巻き込まれた人数と、怪我の程度は? 無事なのか?」 「二人が機械に挟まれたようだが、軽い捻挫と打撲で済んだそうだ。が、とにかく私か、きみと話さないと気が済まないと先方は息巻いている。怪我人を救助したところで、こちらへ連絡を入れたらしい」  二人とも表情が硬くなり、自然と足が玄関へと向かった。オデルはレナードとイアンを追いかけた。 「下手をすると、またストになるぞ、レナード。あそこは最新式の機械を入れたばかりで、まだ自転車操業状態だ。利益を見込んでいるのは最短でも三ヶ月後のことだ」 「だから我々と話がしたいのだろう。いこう、イアン。二人いれば、二倍は速く片付くはずだ。先方は、この期に労働時間の短縮か、賃上げをねじ込むつもりかもしれない」 「なんてこった。こう次から次へと……。すまないが、オデル。きみの旦那様を少し拝借してもいいだろうか?」 「あ、はい」  振り返ったイアンがオデルへ話を投げると、レナードも緊張を滲ませた声で言った。 「遅くなるでしょうから、今夜は待っていなくていいです」 「気をつけて」  何と言うべきか迷ったオデルが無難な言葉を紡ぐと、レナードは微笑みながら歩み寄った。 「愛しています、花嫁」  頬に軽くキスをされ、それきり背を向けられる。その背中を遠く感じたとしても、引き止める権利はないと、オデルは拳をきゅっと握りしめた。  玄関先まで見送りに出ると、執事が用意した馬車にふたりが乗り込む。レナードとイアンの乗せた馬車は、いつもより気持ち速度を増して遠ざかっていった。  *  その日——レナードは帰ってこなかった。  外は土砂降りで、夜中から明け方にかけて嵐を呼んだ風が、窓を叩いていた。  誰かのところへ泊まったのだろう。イアンが一緒にいるはずだ。きっと、彼といるだけだと、オデルはその日、広いベッドの上で眠れないまま考えた。 (もしも「ドレッサージュの君」が見つかった、との一報が、レナードに入ったら……)  果たしてレナードは、このローズブレイド公爵邸に、帰ってくるだろうか。 (いや、違う。こんなこと、考えるべきでは……ない)  信じると決めた傍から、疑って揺れている。レナードが待っていなくていいと言ったのだから、待たないで眠るのが正しいのに、それすらできないだなんて、伴侶失格ではないか。  広いベッドの半分から、レナードの匂いがする。  ひとりで眠るのがこれほど寂しいとは思いもしなかったオデルは、白みはじめたカーテン越しの空に背を向け、何度目になるかわからない寝返りを打った。

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