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第8話 恋(*)
日を跨いで降りはじめた雨は、明け方になっても激しくなる一方だった。
(……眠れなかった……)
オデルは重い瞼を持ち上げ、朝を迎えると、ベッドからゆっくり身を起こした。
昨夜は嫌な想像が脳裏を過ぎり、寝返りを打つばかりだった。レナードとともに使っている寝室は伴侶の不在に満ちていて、今までどうやってこんな場所で安眠できていたのか、わからない。
オデルは、しかるべき時間がきたら、心当たりに電話してみようと決め、ベッドからのろのろと足を下ろした。裸足のまま顔を洗い、身支度を整えつつ、寝不足のまま今日をはじめる覚悟を決め、窓を開ける。すると、途端に驟雨がオデル目掛けて吹き込んできた。
怒りのような激しさに晒され、空気と一緒に雨を吸い込み、レナードのいない初めての夜を越えたことを自覚すると、窓を閉めた。途端に部屋が静寂に満ち、オデルはため息をついた。
その時だった。
風雨の音に混じり、微かに馬の嘶きが聞こえた。
「レナード……!」
その瞬間、オデルは踵を返し、部屋を飛び出した。
蹄鉄の音とともに、馬車が到着したのを悟ったオデルは、ベストも着ず、薄着のまま玄関へ続く階段を駆け下りた。ちょうど執事が扉を開け、レナードを出迎えているところへ、無言のまま飛び込む。
「お帰りなさい……っ、レナード……!」
「オデル……?」
濡れそぼったレナードは、突然、現れたオデルに目を剥いて驚いていた。
「すみません……起こしてしまいましたか」
疲れた顔色のレナードは、オデルを両腕で受け止め、微笑んだ。
「酷い雨だったので、帰るのを諦めて工場の二階に泊まったのです。ひと段落ついたのが深夜だったので、家の者を起こすのも忍びなくて……。ですが、やはり電話を入れれば良かったですね……?」
レナードの言葉に、オデルは、はっとなり、身を離すと、身体の前で腕を交差させ、俯いた。頬が熱い。執事が目のやり場に困り視線を逸らす。慎みのない振る舞いに羞恥が遅れてこみ上げてきて、後悔とともに俯くと、レナードは自分の上着を脱ぎ、オデルの肩に掛けてくれた。
雨を吸い、ずっしりと重くなった上着はレナードの匂いと温もりで湿り気を帯びていたが、オデルは安堵を覚え、震える両手で上着を握りしめた。
「きみも、疲れた様子だ」
項垂れたオデルの頬を、レナードが優しくなぞる。睡眠不足で腫れたオデルの眦に軽くキスを落とすと、その指先がうなじへ降りた。
「ぁ……っ」
「これからは、遅くなったり、帰れない日は、ちゃんと連絡を入れることにします」
「あの、いえ……っ」
気遣うレナードに、オデルは落ち着かない衝動がこみ上げる。
「ぼくの我が儘ですから……気にしないでください」
シャツ一枚で、靴も履かずに、無防備な状態でレナードの前に子どもみたいに飛び出してきてしまった。心配というより、寂しさがこみ上げたのだった。オデルは上気した顔をわざと乱暴に手のひらで擦り、半歩、退き、レナードから離れた。レナードの余裕が、心の輪郭を引っ掻く。オデルの必死さを、わけ知り顔のレナードに許されている。この状況が落ち着かなかった。
「きみの我が儘は、嬉しいですよ」
「すみま、せん……」
「謝るようなことでは」
執事や、他の使用人の目もある。オデルはふと周りが気になりはじめ、レナードの手から逃れ、よそよそしく距離を取ると、表情を取り繕った。
「お疲れのところを邪魔したくないので、どうぞお休みになってください。ぼくは少し、あの、着替えて散歩にいきますので……っ。失礼します」
レナードが歩み寄る前に踵を返し、オデルは階段を駆け上がった。貴族として、まったく相応しくない行いだ。なのに、この胸の高鳴りは何だろう。狼狽して恥の上塗りをしたことへの羞恥心、と言うには、あまりにも激しく強いものだった。
レナードの、やつれた顔。休息を欲する匂い。他の気配は何もなかった。昼に来訪したイアンの残り香もしないほどだ。機械油とインクと汗の混じっただけの、正真正銘のレナードの香りだった。
レナードに背後で数度、名前を呼ばれた気がしたが、オデルは振り返らなかった。急いで寝室へ戻ると、誰もいないことを確認して、扉に鍵を掛ける。閉じた扉に背を預け、レナードの上着から染み出した雨で湿ったシャツを、ずるずると腰から引き抜き、顔へ寄せて匂いをかいだ。緊張を緩めるために深呼吸を繰り返したが、鼓動が煩く跳ねて、まったく落ち着かない。
心臓が、全身が、脈打っている。
発情期かと一瞬、疑ったが、慣れ親しんだ膿んだ熱のようなものはなかった。ただ、普段とは明らかに違う衝動がオデルを蝕みはじめていた。
這うようにしてベッドに潜り込むと、オデルはレナードの濡れた上着を身体に巻いて丸くなった。レナードの匂いのする左半分へもぞもぞと這い込み、しばらく目を閉じていたが、緊張が解けない。湿ってしまったシャツを脱ぐと、顔の前で丸めて、再び匂いをかぐ。自分の匂いとレナードの匂いが混じったことが確認できると、やっと少し落ち着きが戻ってきたが、やがて下半身の異変に気づいたオデルは、絶望に近い声を漏らした。
「な……んで……っ」
下着の中がきつい。興奮のためか、勃起していた。外は雨で、暗雲が立ち込める空は相変わらず大きな雨粒を叩きつけるように空から落とし続けている。鍵は閉めてあり、レナードも誰も部屋にはいない。条件が揃うと、オデルは散歩に出るどころか、たまらず下衣の前をほどき、下着の中で存在を主張している自分自身に指を絡めた。
「ん、ぁ……っ」
少し触っただけで声が漏れてしまうほど、興奮しているだなんて。はしたなく利き手を上下に動かしはじめると、途端に溜まっていた熱が暴れ出した。
「ひ、ぅ……っ、く、ぁ、っ……ぁ、あっ、レナー……ド、っ……んぅ、っ……っ」
頭からシーツを被り、レナードの上着と自分のシャツに守られた場所で丸くなり、オデルは真摯に熱の放出を試みた。
「っ、ん、はぁっ……っあ、んぁ……ぁっ」
声を抑えきれない弱さを責めるようにして、オデルはくしゃくしゃになったレナードの上着に歯を立てた。充填された熱が膨れ上がり、透明な雫が先端から溢れて、オデルの手を濡らす。腰の奥から眩い快感がこみ上げてきたかと思うと、放出は一瞬だった。
「っ、ん、んん……っ!」
声を殺しきれずに身をくねらせ、絶頂が訪れるに身を任せた。迸った熱が空気と反応して冷めてゆくのに、オデルは満足できずに足の指先をぎゅっと丸めた。
「ぁ……な、んで……っ、なん、で……っ、ぁっ、ぁ……っ」
(こんな……っ、どう、しよう……っ、どう、したら……っ)
興奮のあまり、過敏になった身体から火花が散るような錯覚に陥る。止めなければと急くあまり、背徳的な熱が再び迫り上がってくるのを抑えられない。こんなはしたない姿を、誰にも見せられない。
(き、もち……ぃ、っ……)
普段なら、普通に果ててしまえば、ある程度、制御できるところまで熱も去るはずだった。発情期さえ、オデルは軽くて済む程度のものしか経験したことがない。それが今は、アルファの伴侶の匂いはもちろん、表情や気配、声、触れられた頬やうなじに残る微かな感覚さえもが、オデルを駆り立て、追い詰めようとしていた。
「レ、ナード……ッ、レナード、ッ」
不在の伴侶の名前を呼びながら、いつもなら意識するだけで鎮まるはずの疼きが、酷くなる一方だった。一度も触れたことすらない中に、明確に欲しいという欲望が湧き、未踏の地を荒らされたいと望みはじめる。
「ぁあ、ぃいっ、ほ、欲し、ぃ、欲しいぃ……っ」
求めたところでレナードはいない。去らない熱を追い出すために、再びオデルは前を慰めはじめた。戸惑いを孕んだそれが、焦燥に変わるのに時間はかからなかった。数度の絶頂を数えることすら覚束なくなり、声を殺すことさえ忘れ、耽った。
「やっ……、これっ……だ、だめ……なの、に……っぁ、あっ……!」
『アルファは、オメガの前では、獣になってしまいますから——』
そんなこと、誰が決めたのだろう。
オメガだって、獣になるのだ。それとも、オデルだけが違うのだろうか。
発情期でないことは、感覚でわかった。ここまで強く具体的に誰かを想いながらするのは、初めてだった。
「はぁ、ん……っ、ぁぅ……、ぅ、ひっ……ぃっ、ぃぃ……っ」
眩い幻影を脳裏に描き、オデルは必死に呼吸し続けた。きっと次は終わる。今度こそ、正気に戻れる。熱に浮かされた状態は、寝不足が堪えたせいだ。手のひらは白濁にまみれて、冷えた傍からトロトロと継続的に熱を放ち続ける。こんな快楽は知らなかった。腹の中に熱のうねりが残り、挿れられたこともないのに、その場所をかき回して欲しくて仕方がない。熾火が着火し、一瞬で燃え上がったものに、強引に薪をくべられ続けているようだった。
発情抑制剤は、レナードと暮らすようになってから、再調整した量を忘れずに飲んでいる。
(なのに……なんで……っ)
去らない灼熱に侵されて、苦しくて死んでしまいそうだった。
「ぁ、ぁあっ、レナー……ッ、す、好き……っ」
口をついて出たその言葉に、オデルは、はっとし、いつの間にか涙を流しながら感じていることに気づいた。
(間違いない。この身体は……)
レナードを、欲している。
(心、は……)
レナードに、恋を、してしまっている——。
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