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第9話 悪い夢を見ないように
その朝が過ぎてから、オデルは、レナードと目を合わせられなくなってしまった。
レナードに気づかれない時間を選び、伴侶である彼を辱める後ろめたさが、密かにオデルを苛んだ。覚えてしまった禁断の味を忘れられず、熱を慰める行為をせずにはいられなくなってしまったことへの罪悪感と、いつ見咎められるかという恐怖心、衝動を抑制できない意志の弱さと不甲斐なさがない交ぜになり、オデルの心は、くしゃくしゃに乱れてしまっていた。
静観していたレナードも、さすがに十日が過ぎても続くオデルの拒絶は腹に据えかねるらしく、たまに不機嫌な顔をするようになった。それでも自分を変えられないオデルは、回し車の中の鼠のように、必死に取り繕い、同じ場所でもがき続けていた。
幸い昼間は、先日の工場の件や諸々の雑事に忙しく、家を開けることが多いレナードだが、あの朝以降、きちんと帰宅し、オデルと夕食をともにして、同じベッドで眠っている。
そして、その夜、ついにレナードが切り出した。
「先日の、朝帰りの件ですが」
窺うようなレナードの一声に、オデルは身を強張らせた。しかし、不満を募らせているはずのレナードは、努めて理性的に言葉を選んでくれた。
「腹を立てるのも無理からぬことです。きみを蔑ろにしてしまい……」
「そうではないのです」
いけないことをしている罪悪感に、オデルは慌ててレナードを遮った。どう贔屓目に見ても、レナードを避け続けるオデルに問題があるのは瞭然だ。オデルは、心変わりを理解しようと努めてくれるレナードの気持ちに、胡座をかいてしまっている自分を恥じた。
恋を自覚してから、レナードの残り香がより鮮明にわかるようになった。先日、レナードがローズブレイド公爵邸を空けている時に、主治医に頼み込み、オデルは発情抑制剤のレシピをより強いものに変えていた。それでも日に一度は熱を処理しないと、レナードの傍へ寄るのも難しい。ひとりで慰める行為は、孤独で、空虚で、屈辱的で、それでいて甘く、誰にも打ち明けられなかった。公爵家付きの医者にすら、細かい話は誤魔化してしまった。揺れ動く意志も身体もろくに制御できずに、オメガゆえの不安定さばかりを突きつけられる。克服しようともがけばもがくだけ、足を取られて抜け出せなくなる自己矛盾に、オデルは焦燥感を募らせていた。
「そうではない、とは……? 他に何か、理由があるのですか?」
「それは……言えません」
オデルが俯くと、レナードは少し踏み込んだ。
「言えない、というのは……私にもわかるように教えていただけないでしょうか?」
「……言えば、きっと呆れて嫌いになるでしょう。ぼくも、自分が嫌になりました」
せめて取っ掛かりだけでも、と食い下がるレナードを、オデルはまともに見られない。取りつくしまもない状況を打破するのが難しいと悟ったのか、レナードはしばし黙考し、オデルをベッドサイドへ招いた。
「オデル、こちらへ」
「っでも……」
初めて要求される、アルファの声で命じられたことへ、オデルが逡巡すると、レナードは再び強いた。
「いいから、こちらへ。座って、少し話をしましょう」
躊躇うオデルに、レナードは有無を言わせぬ口調を強くした。アルファのレナードの要求を拒むのは、番っていないオメガのオデルには少し難しい。本能がアルファに従う悦びを求めるからだが、レナードはオメガの特性を良く理解し、今まで強いる言葉を使ったことがなかった。
しかし、そのレナードも、今回は譲る様子がない。
レナードの傍へ寄るのが怖い。身体が反応してしまったら。その状態を、悟られてしまったら。抑えがきかなくなり、思い余って理性の箍が外れ、行為を迫ってしまったら。今までどうにか築いてきた、薄氷のような信頼関係を壊したくない。レナードを蔑ろにすることで、その氷にヒビが入っていたとしても、踏み出す勇気を持つのは難しかった。
だが、ここで逃げても、また気詰まりな日々が続くだけだ。日に日にレナードから得ていた信頼が、崩れてゆくのも理解していた。オデルは自分を奮い立たせ、サイドチェストにある緊急用の突発発情に特化した抑制剤のアンプルを飲んで、レナードの指示に従った。
ベッドがふたり分の体重でたわむ。オデルが、礼儀正しく拳二個分ほど距離を取った隣りに腰掛けると、不意にレナードの腕が伸びてきて、逃げられないように腰に回された。レナードの所作により周囲の空気が攪拌され、暴力的とも言える濃い香りが鼻腔を占有し、ぐらりと眩暈に襲われる。
「……私は、少しばかり浮かれすぎていたようです」
「え……?」
沈んだ声だった。てっきり責められるものだと予想していたオデルへ向けられた、反省するかのような気弱なレナードの声に、顔を上げる。鳶色の眸が至近距離でオデルを見つめるのとかち合った途端、じわりと身体が反応した。オデルは下腹部に力を入れ、傍にあった大きな枕の四隅に付いているタッセルのひとつを握り、耐えた。
「きみと一緒になれたのが嬉しくて……。この初夏のような時間がずっと続けばいいと、願っていました。でも、我々は元々、知らない者同士だったのですから、互いに知る努力を怠ってはいけなかったのですね」
がっかりしたように話すレナードは、そっとオデルを引き寄せ、抱きしめた。体格差から、レナードの鎖骨にオデルの頬が触れる。シルクのような心地の肌に、かっと胃の辺りが燃えはじめ、衝動を散らすために身体を強張らせたオデルは、奥歯をきつく噛んだ。
「すみませんでした。我慢ばかりさせて。でも……きみは私を試しているのか、煽っているのか、判断が難しいです」
ナイトウェアの薄い生地を通して、レナードの温もりがオデルの身体へ移る。オデルより少し体温が高いのか、暖かい。おずおずと、聞いたことのない弱気な声で、レナードは切り出した。
「怒らないで聞いて欲しいのですが……」
まるで先生に懺悔をするような、遠慮がちな言い方だった。
「散歩にいくと言ったきみが、扉の向こうで甘い声を上げているのを……偶然、知ってしまったとしたら、伴侶の私は、どうするのが正解だったのでしょうか……?」
噛みしめるようなレナードの告白に、オデルはひゅっと息を吸い込んだ。握っていたタッセルが指を離れ、クッションが足元に落ちる。頬が火照り、耳が赤くなるのがわかった。過去のあさましいおこないが晒され、寒くもないのに震えはじめてしまう。
「盗み聞きをしてしまったことを謝罪しても、許していただけますか……? もし、許されなくとも、きみへの気持ちを知っていて欲しいです。それに、むしろこの件から、きみという人を、私はとても好ましく……」
耐えられなくなったオデルが、両手でレナードの口を塞ぐと、レナードはオデルの両手を、片手で難なく下げ、続けた。
「先日、主治医から、きみの抑制剤のレシピをより強いものに変えたと、報告を受けました。オデル、もしかして、私たちは……」
「あれは……っ」
聞くに堪えないレナードの言葉を遮るように、オデルは怒鳴った。
「た、ただの、体調の、変化、です……っ。あれは……、あれは……っ」
恥ずかしくて消えてしまいたい。取り繕っても、レナードを上手く誤魔化せても、オデルの心の中の真実は変わらない。あの朝、扉のすぐ外にいたレナードを責めても、内側ではしたないおこないをしていたオデル自身を呪っても、時間は巻き戻らないし、事実は曲がらない。
「……っごめ、んなさい……っ。ごめ、ご、ごめん、なさい……っ、ごめんなさい……っ」
今すぐレナードの記憶ごと、消えてしまいたい。
それともいっそ、窓から身を投げて、死んでしまおうか。
オデルは必死にレナードの片手を握り、彼を穢したことを詫び続けた。
「謝る必要はありません、オデル……私は、今も地に足がつかなくなるくらい、きみと暮らせることが嬉しいし、きみが憎からず私を意識してくれていることに、浮かれました」
「っ……」
もしかするとレナードは、オデルが日々、自己処理をしていることにも、薄々勘づいているのかもしれない。言わないだけで、それは優しさで、矜持を守る深い思いやりの行為だが、いたたまれないほど強く消滅を願わざるをえなかった。
「に、二度と、二度と、しません……っ。わす、忘れて、ください……っ。あ、あなたを、穢したことは、認めます……っ、でも、本心では……っ」
「オデル。私は嬉しかったのです。なのになぜ、謝るのですか」
「だ……っ」
だって、恥ずかしい。
ぎゅ、とオデルの腰を抱き寄せたレナードが、指先を掴み、そのまま指を交差させた。
「ゃ……っ」
あんなみっともない真似を、この指を使ってしてきた。欲望に負け、流される日々を告白することが、オメガの意志の薄弱さをレナードに晒すことが、怖い。そういう人間であると思われたら、立ち直れない。視界がぼやけ、涙がぱたぱたと、不規則なリズムでオデルのナイトウェアに散った。ぜんぶ漂白して、消してしまいたかった。なのに、オデルの眦から溢れる涙を、レナードの唇が優しく吸い取る。
「……泣かないで」
「っ……」
嗚咽を堪え、オデルは震えていた。レナードの憂いを孕んだ声が、深く掠れている。
「きみを……私のものに、無理矢理してしまおうとも考えました。でも、きみに嫌われたらと思うと萎縮して、怖いのです。こんなこと、初めてで、どうしたらいいのか……」
社交界の寵児の浮き名など、耳をそばだてなくても入ってくる。世慣れた、少し年上のアルファだったから、きっと猫を被っているのだと思い込んでいた。レナードが噂どおりの人物であったなら、オデルは失望と軽蔑を覚え、自らを犠牲に捧ぐだけの、不幸な人生を後悔しながら謳歌できただろう。
だが、震えているのはオデルだけではなかった。オデルの震えが伝染したように、レナードの声もまた上ずっていた。
「戸惑っているのは、きみだけじゃない。私も、なのです、オデル。きみに、獣のような姿を晒したら、私の世界は、終わってしまうかもしれない……不安でたまらないのです。とても非合理的な考え方です。でも、私はどうやら、きみが好きです」
レナードとの日々に、楽しさを見出だしはじめていた。レナードもまた、そうだったら嬉しかった。だが「ドレッサージュの君」の存在が脳裏を掠めるたびに、オデルは余剰な期待を抱くべきじゃないと、静かにレナードの気持ちを割り引く癖がついた。
だから、こんな胸が締め付けられるような痛みは、かき立てられる悦びは、幻想に過ぎない。でなければ、抗うオデルを呑み込みかねない大きな情動に、必死で耐えている意味がない。
「理解、でき、ま、せん……」
「そうでしょうか……?」
レナードの声が、失望で陰ったのがわかった。酷いことをしている自覚があるが、額面どおりに言葉を受け取って、傷つくのが怖い。
「あなたが、どうして……」
上手く言葉が出てこないオデルは、握られた指をそっとレナードから引いた。触れる時に強引だったレナードの指先は、離れる時は脆かった。
「どうして「どうして」と思うのか、不思議です。きみが何をしていても、何を隠していたとしても、きっと好きなままです」
(でも、その「好き」は……)
その好きは、レナードの中で順番が付いている「好き」だ。
「いつか、きみと、すべてを分かち合えることを、夢見ているのです、私は」
そんな言葉で籠絡しないで欲しい。希望も約束も未来も、かなわない可能性のあるものは、何も受け取りたくなかった。これ以上、レナードを深く想い続けたら、引き返せなくなる。
「きみに、私の気持ちを知ってもらいたい。きみが好きだから、些か強引な手段を取りました。きみが好きだから、今、こうしています。きみが、好きだから」
「っ……ぼく、は……っ」
きゅっと両手をきつく握ると、レナードはオデルの前髪を一房、梳いた。
「急がなくていいです。でも、考えてください。少しでいい。少なくとも、ひとり、きみには私という味方が増えています。朝帰りのことを、許していただけますか……?」
そんなことはとうに忘れてしまっていた。オデルがこくこくと無言のまま頷くのを確認すると、レナードは促した。
「そろそろ眠りましょうか?」
「は、い……」
互いに左右に別れ、横になるまで無言だった。ナイトウェアとシーツの衣擦れの音に、オデルは気まずい沈黙を覚える覚悟をしたが、レナードも揶揄する口調に、少し落ち着いた。
「私は目を閉じますが……よければ手をつないでいただいても?」
「は、はい」
レナードはシーツの中でオデルの左手を握ると、小さくひとつ深呼吸した。
「きみが、悪い夢を見ることが、ありませんように……」
優しくつながれた指から、温もりが浸透してゆく。しばらく天井を眺めてから、オデルも呟いた。
「……子どもみたい、です」
小さな声だったが、レナードの横顔を盗み見ると、わずかに口角を上げ、胡乱な声で囁いた。
「存外、私は子どもっぽいのです……。イアンにも、たまに……言われます……いい加減に、成熟しろ、と……」
レナードが目を閉じたままだったので、オデルはその横顔を確かめるように凝視していた。
沈黙が降り、やがてレナードの呼吸が深くなり、胸部が静かに上下しはじめる。眠りに落ちる直前の状態のまま、時々、意識が戻るのか、レナードは言葉を紡いだ。
「きみを……私、は……」
その先は言葉にならず、あとにはただ沈黙が残るだけだった。オデルが左手を握ると、レナードはされるがままで、もう握り返してくることはなかった。宵の花が蕾に戻るように、眠りに落ちていったレナードの隣りで、オデルは少しだけべそをかいた。
「レナード……眠り、ましたか……?」
そっと声をかけても、反応がなかった。
今夜は寝物語はないのだと気付き、物足りない気持ちになる。無意識なレナードに傷つけられるのを、甘いと感じてしまうことにオデルは気づいた。レナードの寝息の傍で、オデルはひとつ、深呼吸とともに吐き出した。
「悪い夢を見ないよう、彼を、お護りください……神様」
好きな人が安寧を得られるように。それがオデルと共有できない類のものだとしても、幸せを願わずにはいられない。
運命でなくて良かった。もし、これが運命だったら、正気でいられないだろう。想像上のレナードだけでなく、彼そのものを穢すことすら、きっと今なら簡単にできてしまう。
たとえレナードに、オデルとは別に愛する人がいたとしても、そんなことなど霞むほど、真摯に祈っていたた。
その夜を境に、嵐のような恋心を持て余すことになったとしても、オデルは、自分の中に眠る感情の深さに、ただ驚いただけだった——。
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