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第10話 寝物語

 霧の中、俯きがちに緩い歩速で悪路をゆくオデルの背後へ向けて、けたたましい車のクラクションが鳴らされた。オデルが振り返ると、車体を赤と白の二色に塗装した車が、オデルを追い越し、前方の道端に止まった。 「やあ、オデル!」  屋根を折り畳んだ車の運転席側にいるイアンが、手を振る。 「良かったら、乗っていきませんか?」  礼を言い、イアンの隣りにオデルが乗り込むと、暴れ馬に鞭を振るうように車が再スタートした。 「動くウェッダーバーン伯爵邸へようこそ! きみが最初のお客さまだ。街に用事ですか?」 「散歩も兼ねて、手紙を出してきたのです」 「そうでしたか。ところで、どうです? この車は! 風を切るのが気持ちいいでしょう?」  風のように飛ばすイアンの運転する横で、オデルは舌を噛まないよう気をつけなければならなかった。 「馬で駆けるより速いですね。視界が低くて、景色が流れるようで、迫力があります」  オデルがおっかなびっくり褒めると、イアンは満更でもない顔をした。手に入れたばかりの最新式の玩具が自慢なのだ。レナードに見せびらかしにきたのだと、声を弾ませている。てっきり馬車でくるものだと思っていたので、オデルは少し驚いた。  オデルの誕生日に、ローズブレイド公爵邸を訪ねてきたバレット・アシュリーへ、最後の手紙を託してきたところだった。オデルの心はまだ重かったが、手紙がバレットへ渡れば、もう思い悩むこともないだろう。  一線を引こうともがくオデルの目に、遠くローズブレイド公爵邸の門が見えてくると、しばらく運転に集中していたイアンが再び口を開いた。 「レナードが最近、元気がないんでね。親しくなった想い人と、ぎくしゃくしているとかで。でも、愛情を受け入れる準備はできている、と言っていますよ、あいつは。まあ、これは独り言ですから、聞き流してください」 「レナードが……?」  きっと「ドレッサージュの君」のことだ。婚前、バレットと淡い恋仲にあったことを隠したままレナードとの話を進めたオデルは、過去に不誠実だったことを気に病んでいた。文句を言える立場にないことはわきまえていたが、レナードの様子を聞かされると、胸が縒れる。オデルの興味を引いたイアンは、今日は饒舌だった。 「噂の運命の相手は、なかなか手強いらしいですよ」  なぜそんな話を振るのか、きっとイアンも焦れているのだろう、とオデルは推測する。優しすぎる性格のレナードの環境が変わりつつあることを、前もって警告してくれているのかもしれない。 「噂の、その……相手と、何か進展があったのでしょうか?」  どうしても「運命」という言葉が使えずに、その癖、興味のないふりもできず、オデルは探りを入れる真似をしてしまう。すると、驚くような事実がイアンの口から語られた。 「それはもう。やれ今日は何だの、昨日はどうだったの、それに比べて一昨日はだめだっただの、良かっただのと、おれに煩く零しますからね。まあ最近は、浮かれている日の方が多いだけましですが。人柄も少し丸くなったし」 「……そうですか」  痛みを伴うイアンの言葉に、オデルは軽々に反応してしまったことを悔いた。毎日のようにローズブレイド公爵邸を空けるレナードが「ドレッサージュの君」とそんな頻度で会っているとは、まったく気付かなかった。アルファである「ドレッサージュの君」の気配すら完璧に消しているレナードを、優しさゆえの配慮と捉えるか、隠しごとと捉えるかは、難しい判断だった。 「その……その方は、幸せそうですか?」 「さあてね。そればっかりは本人にしか、わからないでしょう。でも、聞いた限りじゃ、浮き沈みがあって、レナードがそれに振り回されているのが面白いので、おれとしては良いです」  オデルの疑問に答える言葉から、イアンもやはり「ドレッサージュの君」のことを知っているのだと確信した。もしかすると会ったことがあるのかもしれないが、イアンからも、レナードからも、それらしい気配がしない。だから余計に、オデルは傷つく自分を守ろうとしてしまう。ふたりから共通の匂いや気配がないか探るが、オメガが気づかないほど巧妙に隠されているのが、レナードの真剣さを示している気がした。 「あいつが熱を上げていることは、新聞には載らないでしょう? 口止めされているから、記事にはしないでいるのです。なのに、おれには惚気るものだから、始末に終えない。まったくけしからんですよ。あなたからも言ってやってください。仕事をするのはいいが、運命の相手の手をちゃんと握っておかないと、飛んでいってしまっても知らないぞ、とね」  そう言ったイアンが片目を瞑った。声がどんどん後ろへ流れてゆくが、不思議と聞き取ることは容易だ。オデルは心臓がチリチリと痛み出し、胸に手を当て、握りしめた。  あれからレナードとは話し合いをしていないが、オデルに向けられる視線は柔らかいものに変化していた。だが、話す必要がないほど「ドレッサージュの君」との関係が上手く進んでいるのなら、そのうち別れを切り出される日がくることを、心に留めておいた方がいいだろう。  政略結婚と承知の上で、差し伸べられたレナードの手を取ったのは、オデルだ。だから未だに処女地のうなじには傷ひとつなかったが、理解ある伴侶でいようと努めているオデルに一言もないまま、レナードの寝物語は続いている。  哀しくて、オデルは喉が詰まるほどの寂しさを、どうにか誤魔化そうとした。  こんな無防備な状態で、レナードでなくイアンから、又聞きという形で恋の結末を耳にしたくなかった。思わず、それが言葉になる。 「ぼくには、何も……言ってくれないから」  長く付き合えば、いい友人になれるかもしれない。必死にそう言い聞かせ、気持ちが溢れないように気をつけてきた。まだ新婚旅行にもいっていない。このまま別れを切り出され、レナードとの間に、確たる絆も、想い出のひとつも、残せないのだろうか。それを勝手だと非難するには、オデルはレナードを好きになりすぎていた。 「ぼくに、そんな資格がないことは、理解しているつもりです……。でも、求婚してきたのはレナードです。ぼくは、そんなに頼りにならないでしょうか……?」 「オデル……?」  どうして何も言ってくれないのか、とレナードを恨めしく思ってしまう。資格も権利もないはずなのに、レナードを諦めなければならない未来が、こないで欲しいと望んでしまう。たとえ「ドレッサージュの君」の噂が、ごく親しい者以外には秘匿されているとしても、オデルは関わることもできないのだろうか。 (——それとも、オメガだから……)  レナードがそんな考え方をするとは思えないが、過去にオデルが被ってきた数ある差別的なアルファらの態度を思い出すと、心が弱っている今、とても堪えた。何より、違うと思っていたレナードからそうみなされているかもしれないことが、哀しくて仕方がない。  オデルの出したひび割れた声に、イアンは驚きと戸惑いを浮かべた。 「オデル、どうかしましたか……?」  それが、オデルを追い詰めてゆく。 「あなたも、そうお考えなのでしょうか? ぼくには、資格さえないと……。確かにぼくは、オメガですから、一人前とみなされなくとも仕方がないのは理解しています。でも……っ」  せめてレナードに訪れた、試練も、幸福も、傍にいる間ぐらい、分かち合わせて欲しい。それすら許されないとしたら、オデルはただの道具になってしまう。ローズブレイド公爵家を立て直すためだけに必要とされた、生きた道具だ。 (駄目だ) 「ぼくだって、何も感じないわけじゃないのです。ただ、知りたくないことを事後承諾するのは、少し……勇気が要ります……っですから」  話せば話すほど、張りぼての仮面が剥がれてゆく。こんなこと、イアンに言っても何の解決にもならない。だが、胸の内に押し殺したはずのものが、悲鳴を上げていた。  多くを望んではいけない。  仲違いをしてはいけない。  喧嘩も苦情も、対立の原因になりそうなものはすべて、飲み込んできた。これまでの努力が無下になるから、オデルは溢れ出した想いを止めようと、強いて呼吸を数瞬、止めてみる。  しかし、隣りで慌てた様子のイアンは、ローズブレイド公爵邸の正面玄関に車を停車させると、オデルへと向き直った。オデルはイアンを直視できず、座席の中で、ぎゅっと身を縮めた。 「待ってください、オデル……、きみは、何か勘違いを……」 「レナードは」  言わない方がいいことだと、わかっていたつもりだった。  はずなのに、一度、溢れ出した哀しみは、オデルの心の扉を強引に押し開く。 「寝物語をするのです……イアン」 「寝物語……?」  戸惑いの声を上げたイアンの隣りで、オデルは深く息を吸い込み、滲む視界を遮ろうとして顔を手で覆った。 「毎夜、毎夜……どんなに愛していて、どんなに切なく恋しいか……聞かされ続ける……っでも、ぼくがそれを望んだのですから、受け入れなければと……」  愛されないことが恥ずかしい。もし離婚となれば、イアンの資産の一部はローズブレイド公爵家に分けられることになる。父や弟たちを安心させることはできるが、レナードがうなじを噛まない選択をした、その意味が重くオデルにのしかかってくるだろう。レナードの性格上、きっとオデルを擁護する。その見返りとして自由を得たレナードが、今度こそ求婚しにゆく「ドレッサージュの君」のことは、きっとフレイムトラスト社の記事にはならない。オデルの元伴侶のレナードは、痛み分けだったと周囲から判断されるだろう。落としどころが決められているも同然だ。 「こうなることを、見越してレナードは……」 「オデル……、頼みます、誤解しないで。「ドレッサージュの君」は……」  イアンがオデルの方へ身を乗り出し、その肩に触れようとした、その時、ローズブレイド公爵邸の扉が乱暴に開く音とともに、レナードの硬い声がした。 「イアン……!」 「レナード……」 「すまないが、オデルをこちらへもらおう」  警告の声とともに歩み寄るレナードに、イアンがムッとした表情をした。 「おい、違うぞ。これは……」 「ちがいます、レナード。……すみません、ぼくが……悪いのです。この状況の責任は、ぼくにあります」  滲んだ声で弁明するオデルは、戸惑いと怒りを孕んだレナードを直視できなかった。レナードがオデルを呼ぶたびに、心の奥がぎゅっと反応する。優しく心地よい響きのレナードの声は「ドレッサージュの君」のことがなければ、子守唄のようにずっと聞いていられる、素敵な声だ。  こんなにきれいな人だなんて。  レナードの誠実で凛々しい表情がオデルに向くたびに、好きになってゆく。 「きみも、こちらへ……花嫁」  猜疑の気配の満ちたレナードの声に、オデルは奥歯を噛みしめ、車から降りた。何も言わずに去ることができず、レナードとすれ違う時、懇願した。 「彼は悪くありません、レナード。勝手に邸を抜け出して、すみませんでした……でも、イアンは……」 「話なら、中で。きみもだ、イアン」 「っ……」  険しい顔のレナードは、オデルを一瞥しようとしなかった。 「……ごめんなさい、レナード」  何に対する謝罪か、オデル自身も判然としないまま、視線を合わせようとしないレナードを置いて、オデルは邸へ入るより他になかった。のろのろと階段を上がる間に、背後でアルファたちふたりの言い争う厳しい声がした。レナードは、オデルの為にイアンを怒ったのだ。仲違いの原因をつくってしまった罪悪感に、胸が張り裂けんばかりに痛んだ。  話をしなければ。  そもそも、寝物語に付き合う約束は、初夜の明けた朝にふたりの間で交わされたものだ。レナードと最初にした約束だから、反故にするのが嫌だという理由だけで、オデルが耐え続けてきたものだった。  だが「ドレッサージュの君」について、双方の意見をすり合わせるべき時がきたのかもしれない。  オデルは客間に入ると、二人掛けのカウチに深く腰掛け、ため息をついた。  レナードとイアンに、謝罪と訂正をしなければ。  場合によっては、秘密の開示も。  そう決めると、オデルは頭を整理するために、静かに目を閉じ、背中をカウチに預けた。

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