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第11話 忘れないでいて

 目を閉じたオデルのいる客間の扉を、遠慮がちに叩く音がした。  いつの間にか手のひらに汗をかいていたオデルが、覚悟とともに扉を開けると、レナードとイアンがばつの悪そうな表情で立っていた。 「レナード……それに、イアンも……、先ほどは、取り乱したりしてすみませ……」  互いに和解した雰囲気だが、オデルが口を開くと、レナードの人差し指がそれを止めた。 「きみに話があります。入っても……?」  先ほどより柔らかな声で、だが単刀直入に言われる。 「あ、はい、どうぞ」  幸先を制され、礼儀を欠いたことに気づいたオデルは、まずレナードとイアンを客間へ通した。扉を閉めたオデルが振り返ると同時に、ふたりともがオデルを振り返る。 「あの、レナー……」 「まずは、謝罪をさせてください、オデル」 「え?」  レナードに左手を握られ、跪かれる。レナードの背後にいるイアンを反射的に見ると、叱られた子どもみたいな表情で肩を竦めた。レナードの話を聞いてやってくれ、と言っている顔だった。 「きみを傷つけるつもりは、なかったのです。ですが、結果的にそうなってしまったことは、私の不徳のいたすところです」 「そんな……っ、違います。これは、ぼくが悪いのです。ぼくの方こそ……イアンを悪者みたいにしてしまって、後悔しています。ふたりに謝らなければならないのは、ぼくの方です。申し訳ありません……」  こんな場所でアルファがオメガに傅くなど、あってはならないことだった。オデルは身体を折り、レナードに立ち上がるよう促したが、逆に掴まれた手首を引かれ、跪いてしまう。互いに、どちらが謝罪しているのかわからない、奇妙な状態のまま、レナードはオデルへと身を乗り出した。 「この件について、我々は話し合うべきですね。私に弁明の機会をいただけますか? そうすれば、きみの謝罪は必要ないことが明白になります」 「それは……」  心の準備がまだできていない。しかし、拒むことのできない事態にオデルが狼狽すると、レナードが左手の薬指に嵌まった指輪にくちづけを落とす。イアンが見ている前だというのに、まるで意に介さないレナードの態度に、とオデルは赤面し、申し訳なく思った。 「あの……っ」  せめてレナードに立ち上がることを促そうとしたが、逆に手首を握られてしまう。 「……震えています」 「ぁっ、ご、ごめんなさ……ぁ」 「謝る必要はありません。オデル」  手を引っ込めようとしたオデルを、レナードはそのまま引き寄せた。バランスを崩したオデルがレナードの胸部に身体を預けることになってしまうのを、待っていたように抱きしめられる。 「あの、っあ、あの……っ」  離れてくれないと、心臓が保たない。鼓動が暴れる音がレナードに聞かれてしまうのが、怖かった。しかし、身を引こうとしたオデルをレナードは抱きしめたまま、少し掠れた声で囁いた。 「大丈夫です、オデル。私はちゃんと、きみが好きです。でも、こうして拒まれると、何と表現すべきか……」  レナードは少し躊躇ったあとで、喜びの滲んだ声を発した。 「……私がきみに、いけない感情を抱かせてしまったのだと、自惚れてしまいます」 「っ……」  濃く香ってくるレナードの香りに、オデルは頭がぼうっとなるのを意識した。処女地のうなじが疼き、身を捩ることも忘れて、くにゃりとなってしまいそうだった。だが、オデルの重さを支えたレナードは、そのまま頤を指で上げると、そっとオデルの頬にくちづけた。 「ぁ……」  何かがぐずぐずに蕩けていきそうで、今度こそ身体から力が抜けてしまう。何気ない接触だとわかっているのに、身体の芯が疼くのを、オデルはどうにか堪え続けた。 「前に話したように、私は嬉しいのです。きみが「ドレッサージュの君」について興味を持ってくれたことが。しかし……てっきりきみとの間に合意が形成されたのだと早合点してしまいました。きみが苦しんでいることに、浮かれるあまり、気づかなかった……伴侶として失格です。すみませんでした、オデル」 「ち、がいま……っ」  何かを勘違いをしていることに気づいたオデルが、理性を振り絞って首を横に振るが、レナードは聞き入れようとしなかった。 「いいえ、違いません。イアンから大筋は聞きました。だから、謝罪しているのです」 「どう、して……」  謝罪など必要ないのに、レナードの率直さに何度、救われたことか。成熟していないのは、オデルの方だ。オデルは知られてしまった醜い感情を恥じ、レナードから離れようと、抗うように両手をぎゅっと握った。 (駄目、だ。ぼくは……)  これ以上、レナードを煩わせたくない。  だが、オデルより先に、レナードが言葉を継いだ。 「私としたことが、基本的な確認を怠ってしまいました。きみを深く傷つけているなどと、考えもせずに、毎晩、きみに語ってしまいまいした……きみの魅力を。次からは、曖昧な比喩表現は避け、主語を明確にして話しましょう。謝罪を受け入れていただけますか?」 「え……っ?」  何か大事なことをさらっと告げられた気がして、オデルがもぞつくと、レナードはやっと腕を緩めた。 「オデル……?」 「な、何……の、こと……です、か?」  意味がわからない、という表情をしたのだろうか、レナードが口角を少し上げた。 「きみのことです」 「え……?」 「正確に言えば「ドレッサージュの君」が、きみであることを告げずに、思わせぶりな言葉を弄して、きみを悪戯に傷つけ、煩悶させてしまったことです」 「え、な……何……え?」  混乱した脳内を整理しようとするオデルに、レナードは蕩けるように微笑んだ。 「まったく……そういうところですよ。私をどれだけ夢中にさせれば済むのか……」  レナードは、イアンから「ドレッサージュの君」について、車内で揉めたことを聞いているはずだ。オデルが資格もないのに嫉妬していたことも、きっとレナードに届いている。だから、絶交しないで欲しいと頼み、ひとつでいいから、別れる間際までに想い出をもらえれば、それで満足しようとオデルは決めていた。オデルはオメガで、アルファではない。この会話に何らかの齟齬があることに気付きはじめたオデルは、誤解を解こうと慌てて主張した。 「あの、レナード、ぼくは……っ、理解……すべき……、じゃなくて、理解、したいのです。あなたを……あなたを支えるには、理解することが先決だと……」  レナードを知らないから、一挙手一投足に煩悶するのだ。「ドレッサージュの君」という存在がオデルに与えるダメージを軽減するには、レナードと彼の絆を知らなければ。その上で、レナードの挙動を許せるようになりたいと、オデルは考えていた。 「私を理解しようとしてくれたのですね?」 「もちろんです……! でも、足りませんでした……」  オデルの告白を聞くと、レナードは再びオデルを抱きしめた。 「っ……ちょっ」 「理由を、訊いても?」  レナードの声が、ため息とともに熱を帯びる。オデルにすらわかるように、フェロモンの匂いに喜びの気配が加わり、鮮やかに変化した。 「……配慮が必要なら、遠慮なく申し出ていただけるように……。それに、あなたと、ひとつでいいので、想い出が……欲しかった、から……」  我が儘だとわかっている。レナードには大きな借りがある。ひとつだけなら、望んでも罪にならないと考えるのは、甘えかもしれない。下心があったことを否定できないオデルを、レナードは責めるどころか、子猫を見るような表情で、威嚇した。 「きみは、私と別れるつもりでいるのですか?」 「えっ?」  手のひらの上で弄ばれるみたいに、レナードの声に甘く叱責される。 「だって、あの……、嫌では……ないのですか?」 「嫌……?」 「だって……っ」  せっかく「ドレッサージュの君」との関係が発展しそうになっている、大事な時なのではないだろうか。もし「ドレッサージュの君」も、憎からずレナードを想っているのなら、オデルとの婚姻は障害になるはずだ。 「オデルは、私と別れたいのですか?」 「違います……っ」  でも、歪な関係になってしまっているこの結婚が、レナードの足枷になるのを承知で黙っているつもりはなかった。体裁の話だって、甘んじて受け入れられる。配慮が必要なら、隠すより、申し出て欲しかった。 「あなたは悪くありません。ぼくが……ぼくの覚悟が足りていなかったのです。あなたを利用したのですから、当然です……。でも、ローズブレイド公爵家は、あなたに全面的に協力することを惜しみません。どんな、ことでも……」  バレットとの淡い初恋を終わらせた時、次の恋がこんな形でやってくるとは想像もしなかった。オデルはいつの間にか、この政略結婚が無意味なものになることを怖れるようになっていた。この婚姻を進めてもいいか、確認するためだけに、わざわざ雨上がりの朝に訪ねてきてくれたレナードのことを思い出す。あの日から、レナードに対して数え切れないほど不誠実な態度を取ってきた。これはその報いだとオデルは思った。 「答えになっていません。きみは、私と別れるつもりなのですか?」 「それは……」  いずれ、その時がくれば従うまでだったが、レナードを前にすると頷くどころか、身体の自由が利かなくなった。ぎゅっと祈るように両手を握りしめたオデルに、眉を寄せたレナードが口を開きかけた時、突っ立っているだけだったイアンが、堪えきれない様子で呆れた声を出した。 「ああもう、さっきから、聞いていれば何だ、きみ! レナード……!」  発破をかけるような口調で、イアンはレナードを糾弾した。 「いい加減、その辺で止めておいてやれ。まったく……元を糾せば、諸々を端折りすぎたきみが悪いんだろ。オデルが困っているじゃないか」 「だって、オデルが私と別れるなどと言いはじめるから……」 「どこからどう見たって、きみの詰めが甘いからだろ。他に言うことがあるだろ?」 「それは、そうだけれど……」  不満を露わにしたレナードを、イアンがせっついた。 「おれの存在を忘れるようにいちゃついておいて、これ以上拗れたら、もう知らんぞ!」 「イアン……でも」 「でもじゃない。だいたい、きみの方が年上なんだからな!」  存外に傷ついた様子のレナードに、オデルが狼狽えていると、イアンが些か同情の視線を向けてきた。 「オデル、きみはレナードの言うことを聞いていて、いいのです。この男はアルファで、帝国随一の成金で、きみを求めたのは純粋な心からなのだから。……レナードも、表裏がなさすぎるのも問題だと、これでわかっただろ?」  イアンの取りなしにため息をついたレナードは、改めてオデルへ向き直った。 「オデル」  名前を呼ばれたオデルは、心臓が飛び出しそうなほど驚き、身を震わせた。 「きみは大きな誤解をしているのです。でも、最初にはっきりさせておきますが、その誤解のせいで、きみの価値が毀損されることはありません。私は軽率だった自分を呪いますが、きみにまったく不満はありません」  そこまで吐き出すと、レナードはオデルの頤に指先を触れさせ、囁いた。 「「ドレッサージュの君」は、きみなのです。オデル」 「……え?」  呆気なく囁かれた声に、オデルは固まった。空耳かと疑い、都合のいい幻聴かと戸惑うオデルへ、レナードは駄目押しをした。 「私の憧れた「ドレッサージュの君」が、オデル・ヴィーガ・アトウッド……ローズブレイド公爵家の嫡子であることを知った時、どれほど嬉しかったことか……。私の人生を変えたきみと、形だけとはいえ結婚できて、毎朝、これが現実であることに感謝するばかりです……オデル」 「……は? えっ……と」  混乱するオデルに、レナードは切なげに懇願する。 「逃げないで。事実なのです。きみには些か刺激が強すぎるかもしれませんが……きみこそが「ドレッサージュの君」であることに間違いありません」 「だっ……でも、ぼくは、あの……アルファではありません。あなたはアルファを探しているのでは……?」 「第二性別が未分化だった、と言った覚えはありますが、アルファだと限定ことはありません。高貴な家の子息であることは、事実ですが」  オデルは、咄嗟にイアンの方を見た。イアンはやれやれと言った様子で肩を竦めるだけで、何の反論も補足もしない。つまり、過不足なく真実だということだった。レナードがオデルの頬を、両手でそっと包む。 「オデル……こんなに単純で簡単なことで、我々はずっと、ぎくしゃくしてきました」  レナードは落ち着いて見えるが、必死さの裏返しのように、頬に触れる手が震えていた。 「きみの態度に腹が立ったこともありましたが、理由がわかれば、どうということのないことでした。ですから……きみに、謝罪をしなければ。許していただけますか……?」 「ぁ、ぇ、は、……はい」  オデルの返答に満足したのか、レナードは額に額をくっつけて、謝罪をした。 「すみませんでした、オデル……。きみは本当に素晴らしい。私はきみと別れるつもりなど、まったくありません。せっかく見つけた私の運命の人なのですから、ずっと一緒にいていただけませんか……? こうしてきみに触れられない間は、些か堪えました。もうしばらく、きみを補充させていただいても?」 「は……」  安堵のせいか、ストンと納得した結論に、オデルは頬が燃えるようだった。呆然とするにはあまりに劇的な展開で、ぼうっとなりながら、身体の奥から制御しなければならない類の衝動が湧き上がってくるのを堪えた。 「触れても……?」 「は、い……少し、なら……」  レナードの声が少し上ずり、掠れていた。オデルだけが緊張しているわけではないのだとわかると、頷くことができた。 「ああ……オデル……、私の花嫁……」  レナードはオデルが首肯すると、まったく遠慮を感じさせないで、両腕でぎゅっと背中を抱きしめてきた。鼻先が首筋に当たると、そのまま深呼吸をされる。オデルは必死でむずむずする感覚を、押し殺そうと身体に力を入れていなければならなかった。 「あの……あ、あまり……こう、しないで……」 「こう、とは?」  尋ねてくるレナードの声は少し意地悪だった。逆らえないのが甘いだなんて、辻褄が合わないが、向き合ってくれようとするレナードに嘘はつけなかった。 「触れられるのが、嫌なわけでは……ない、のです。ただ、あなたは、その、ぼくに、あ、合い過ぎて、いる、みたいで……っ」 「それは嬉しいですね。でも、しばらくは我慢してください。まだイアンがいます」  悪戯半分の口調でレナードが言うと、イアンが腰に手を当て、揶揄した。 「おい。おれを障害物みたいに言うなよ。酷い奴だな、レナード……!」  文句を言いながら、イアンはわざとらしく大きなため息をついた。 「ったく……おれは帰るぞ? レナード。オデル、お邪魔しました。レナードの奴が大人気ないので、見送りは不要です。じゃあな」  イアンの茶々に、レナードとの間にあった、熱を孕んだ空気が薄まるのを感じたオデルは、もがいて立ち上がった。 「イアン……! あ、あなたに当たったりして、ぼくは自分が恥ずかしいです……っ。本当に、間違っていました。謝罪させてください。申し訳ありませんでした……」  振り返り、声を絞り出したオデルに、レナードも立ち上がる。イアンはからっと笑った。 「いいんですよ。もう、きみはおれの友人で、親友の伴侶でもあります。どうせレナードが見切り発車したんでしょう。でも、腑抜けていた頃よりずっと、今の方がいい。それだけ愛情が深い証拠だ。……よかったな? レナード」  不本意極まりない合いの手を入れられたレナードは、図星という表情で気まずそうに詫びた。 「悪かった、イアン」 「まったくだ。次はロイヤル・アスコットで会おう」  甘い雰囲気にあてられまいとしてか、イアンは早々に踵を返し、客間を出ていった。見送りにいこうとしたオデルをレナードが引き止める。 「彼ならひとりでも帰れます」 「でも……」 「来週は、ロイヤル・アスコットですよ、オデル」  その声が少し弾んでいることを意識した途端、オデルはふわっと気持ちが浮き立つのを感じた。 「ロイヤル・アスコット……」  レナードの言うように、貴族の社交場だった。慌ただしくなるのは目に見えており、準備が間に合うかどうかも定かではない。しかし、レナードが采配すれば、きっと大丈夫だと信じられた。  女王陛下の御前で行なわれるレースを、毎年、楽しみにしていた頃のことをオデルは思い出した。第二性別がオメガだと判明してからは、アルファばかりで混み合う場所は遠慮することが多くなっていたが、まだ弟たちが生まれる前の幼かった頃、父に手を引かれ、地面を蹴る馬の蹄の音に心を踊らせたものだった。 「きみは馬が好きでしょう? 今年はふたりでいきましょう、オデル」 「いいのですか……?」 「もちろんです」  レナードは、やっと眼差しが絡んだオデルの手を再び取り、くちづけを落とした。  オデルは急に恥ずかしくなり、おどおどと視線を泳がせたが、レナードが揺らぐことは、もうなかった。

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