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第12話 未来をつなぐ過去

 ふたりきりになったオデルの袖を、レナードがそっと引いた。 「もう少し、座って話しませんか? オデル」 「はい……」  レナードの傍にいることは試錬を伴ったが、オデルは承諾し、二人掛け用のカウチに腰を下ろした。ひとつには、レナードがアルファの強いる声を用いなかったこと、もうひとつには、オデルもレナードに尋ねたいことがあったからだ。 「我々は、互いに少し、言葉が足りなかったようです。今後はちゃんときみに言います。私が愛しているのは、きみだと。きみを愛している、ということを」  オデルの隣りに腰掛けたレナードの言葉に、ふわっと内臓が暖かくなる。忘れていたが、今日はまだ熱を逃がしていない。現在のオデルの発情抑制剤の服用量は上限に近く、溢れてしまうのを意識せずにはいられなかった。  が、それでもレナードの傍にいたい気持ちが勝る。  本当なら、夜まで過接触は避けるべきだった。だが、レナードが望むなら、どこでどうなろうと、うなじを噛まれる覚悟もできていた。甘い熱がレナードだけでなく、オデルのフェロモンが放出される際にも、わずかだが混じりはじめている。ひりつく熱に抗い、オデルはレナードと視線を合わせた。 「あの……」 「ん……? 嫌ですか?」 「嫌じゃ、ありません……、ただ、少し、困るだけで」  どうにか体裁を取り繕い、オデルに触れるレナードへ、疑問をぶつける。 「先ほど、レナードは「ドレッサージュの君」がぼくだと、言っていましたが……その、ぼくには、それらしい記憶が、ありません……すみません」  率直に告白すると、レナードは切なげに笑った。 「いいのです。きみが覚えていなくとも、あれは私の人生のうちで、最も美しい瞬間でした」  レナードは嬉しそうに、隣りにいるオデルの左手をそっと引き寄せ、握った。口角を上げ、深呼吸をすると、訥々と語り出す。 「私が……「ドレッサージュの君」の正体を知ったのは、叙勲の少し前、内々に女王陛下とお会いした折でした。かつてきみは、陛下を実の祖母のように慕っていたと、女王から直接、伺いました。その時に、きみがどこの誰なのか、正確にわかったのです。陛下のはからいで、幸運にもきみを見初めることができた。……幼かった我々は、女王陛下の注意がよそへいっている時に、少しだけ話をしたのですよ。きみは陛下を心より敬愛申し上げている、と断言しました。一方で、彼女の前に出ると、誇らしさとともに、未熟な自分が恥ずかしくなる、とも。率直で、飾らず、卑下せず、それでいて誇り高い存在でした。一介の調教師の息子に、きみは何の偏見を持つでもなく、打ち明けてくれたのです。己の存在のすべてを。アルファ間にも格差があり、それが当然とされる時代だったにもかかわらず、高貴な身分にあるきみが、私にそう振る舞ってくれたことが、どれほど尊く美しかったか……私は折に触れて思い出しました。きみはきっと、ただ素直に振る舞ったに過ぎなかったのでしょう。でも、内省するきみに、私は恋に落ちたのです」  レナードの言葉に、オデルは、そういえば、そんなことがあったような気もする、としか思えないのが悔しかった。まだ第二性別が未分化だった頃、父に連れられて、よく女王と乗馬を楽しんだ記憶は確かにあった。うろ覚えだが、その時、誰かと話をしたかもしれない。ローズブレイド公爵家の嫡子として、女王は殊の外、幼いオデルに目をかけていたことは確かだ。幾度か、乗馬の試験を受けに、王城を訪れたこともある。そういった大事な機会は、とても緊張して、幼かったこともあり、周りが見えていなかった。大切なことなのに、鮮明に思い出せないのがもどかしい。  オデルが仰ぎ見ると、レナードは夢でも見るかのように、その時のことを思い出しているようだった。 「私は幸運でした。きみが覚えていないとしても、あれは私にとって、何にも代えがたい瞬間でした。ただ、あの一瞬を私にくれたきみに、ずっとお礼を言いたかった。ありがとう、オデル。私の運命になってくれて」 「レナード……ぼくは、ぼくの方こそ……」  オデルは、些細な言葉の端々から、レナードの愛情を疑ったことを後悔した。握られた指に力をいれると、優しく握り返される。オデルは、きゅっと唇を結び、それからほどいた。 「あなたと「ドレッサージュの君」のことを知るうちに、ぼくはどんどん嫌な奴になっていって……そんな自分が嫌いでした。あなたに相応しくないと。でも……っ、あなたを我慢することが、こんなにつらいだなんて」  レナードが飽きるまでだと、どこかで線を引かないと、崩れそうになるのを自覚していた。レナードに傾きすぎないよう自制し、最後通牒が下りたら、潔く別れることばかりを気にしていた。そんな必要は、ないのにだ。  ともに過ごすうち、いつしか特別になっていった。狭量で嫉妬深い、最低な人間に成り下がるところを救われた。愛そうとするほど、負の感情が身を蝕むのを止められなかった後悔も、それが盛大な勘違いのもたらした、見当違いの感情だったことも、幸運だった。  恥ずかしそうに心中を打ち明けるオデルを、レナードはまるで鳥の囀りに耳を傾けるように、楽しげに聞いていた。 「不安になるのも無理からぬことです。この結婚には、陛下の内々の御意向もありましたから。私としても、何としてもきみと結ばれたかったので、勇み足になってしまいましたし」 「陛下の……? どういうことですか?」 「彼女は私に、ローズブレイド公爵家に、どうにか肩入れできないかと相談されたです。私には以前から心に決めた人がいましたから、その方に結婚を申し込むと、お答えしましたが」 「そんなことが……」 「ええ。そして、私は目的を達しましたが、きみの心が私に向いていないのに、力づくでどうこうするわけにはいかない。いつか、きみと心のすべてを共有できたら……と、夢を見ています。ですから、なおさら慎重に、ことさら臆病に、なっていました。不幸なすれ違いでしたが、今は、幸運でもあったと、私は思います」  淡々と語るレナードからは、甘い匂いが華やかに香ってくる。視界がふわっとするのをオデルが堪えていると、不意にレナードの指先が涙を拭ってくれた。 「寝物語に託すのも、考えものでしたね……。どちらかが寝落ちしてしまうから、最初から最後まで覚えているとは限らない、なんて落とし穴があるとは……。きっときみも、私を粗忽者と笑うでしょう」 「そんなこと、ありません。ぼくだって、間違っていたし、あなたに酷いことを……」 「これしき、全然、平気ですよ。でも、どうやらきみは、眠っている私の加虐性のようなものを引き出す傾向にあるようです……オデル」  その瞬間、レナードの相貌が変化した。 「ぁ……」  普段は影を潜めている獣のような精悍さが、露わになる。レナードの指先がオデルの頤をわずかに持ち上げ、気づく頃には互いがほとんど触れ合える距離にいた。 「こ、れ以上、は……」 「嫌、ですか……?」 「嫌じゃ、ありません……っ、ただ、こ、困り、ます……っ」  レナードが叙勲の前に女王と話したのなら、ピンポイントでオデルに結婚を申し込んできたのも頷ける。オデルは容姿が独特だから、きっと周囲の噂である程度の見当は付いていたのだろうが、女王よりお墨付きをもらい、行動したのだろう。いずれにせよ、競売まであと一週間を切る頃に現れたレナードがいなければ、オデルもどこかへ身売りを余儀なくされていただろう。 「あ、なたが、傍に、いる、と……っ、ぼく、は……っ」  必死に体裁を取り繕おうとするオデルを、レナードは面白そうに見ていた。 「私は困りませんが」 「ゃぁ、ちが、っ……ぼ、ぼく、は……んっ」  レナードの気安い様子に、オデルはすぐに切迫した。甘い疼きが身体の芯をじわじわと焦がす。少し手を握られ、触れ合う距離に詰められただけなのに、レナードの誘惑は巧みだった。 「離れ、て……も、無理……っ、レナー……ッ」  哀願しはじめた時、やっとレナードは適切な距離を取ってくれたが、手は握ったままだった。レナードの慈しむような、面白がるような視線に、オデルはみっともない表情を晒した気がして、いたたまれなくなる。 「すみ、ませ……っ」 「いいえ、こちらこそ、すみません……。私の方こそ、きみに意地悪をしてしまいました。どうやらきみは、眠っている私の加虐性のようなものを引き出す傾向にあるようです」  レナード自身も驚いた声音で、そう囁かれると、オデルは自覚できるほど赤面した。大事にされすぎていて、距離を詰める機会を待ってくれるレナードの慎重さに、オデルは愛しさを掻き立てられる気がした。 「レナード……ぼくを、好きにしてください。あなたに従います」  思わず口走ると、レナードは目を瞠り、口角を上げた。 「嬉しいですね。でも、今は……まだ鍵も掛けていませんから、もう少し待ちましょう」  レナードはオデルの髪を一房、梳くと、溢れそうに潤んだ眦に再びキスを落とした。 「愛しています、オデル。でも、焦らなくていいのです。今はまだ……」  一陣の風が心の中に吹き込み、燻っていた、あらゆる感情がぬぐい去られる。あとに残ったのは、信頼と安堵だった。オデルが込み上げる衝動に顔を上げると、悪戯でもするような表情でレナードが微笑んだ。 「我々は、我々の速度を守れば、いいのです」  愛される実感が、オデルの心にも微かに、だが確実な変化をもたらそうとしていた。

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