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第13話 ロイヤル・アスコット

 賭け事に目がない帝国の民草が沸き立つ、ロイヤル・アスコットの季節がやってきた。  特に初日は、王侯貴族から労働者や下級市民まで、誰もが賭けに夢中になる。レナードに伴われたオデルも礼装姿で、先ほど特別貴賓席でイアンに会ったところだった。イアンは先日のことなど忘れてしまったのか、ひとしきりオデルの姿を褒めると、いつもの調子でレナードを揶揄い、けろりとした顔で、早々にシャンパンを取りにいってしまった。 「オデル。プレ・パレード・リングにいってみませんか? 今年はどの馬が勝つと思いますか?」  出走馬が二十五分前にお披露目されるプレ・パレード・リングに、レナードがオデルの腕を取り、誘った。プレ・パレード・リングで披露された馬は、出走十五分前にはパレード・リングへ移され、それからレースに出ることになる。グランド・ワンと呼ばれるステークスに賭けるなら、出走前の様子は必見だった。 「何番に賭けますか?」  ねだるような声で、レナードが耳元で囁く。その声に甘い響きが混じるのを意識せずとも、浮き立ってしまう自分をオデルは戒めた。  あれからレナードは、柔和な視線をオデルに注ぐようになった。眠る時は相変わらず、同じベッドに横になり手を繋ぐが、オデルが覚悟していたのに、レナードはそれ以上の行為を強いようとはせず、アルファとしての権利を行使する素振りも見せない。ただ、時々、オデルへ親愛と呼ぶには濃すぎる情愛を示し、オデルがおっかなびっくり応じようとするのを、楽しげに待っているようだった。 「オッズは三連単の方が高いですが、私はきみがどう賭けるかに、興味があります」  レナードの声は楽しげで、オデルもつい真剣に返事をしてしまう。 「ぼくは単勝を狙いたいです。一番か、三番」 「潔いですね」 「特に三番がいい気がします。勘ですが……額に流星のある、左前足に白い靴下を履いているところが可愛らしいし。愛嬌はレースには無関係ですが、ひと目で、いい馬だとわかります」  後ろ脚を跳ね上げる仕草が、気合いの乗った証拠だとオデルは考える。三番の馬が、ひょい、ひょい、と歩くたびに後ろ脚を跳ね上げ、今にも走りたがる様子がよく見えていた。引き馬係の誘導にも素直に従うところが好感触だ。五頭とも選りすぐりの良馬だからレースの予想は難しいが、やり甲斐があった。  ざっと出走馬の五頭を観察し、意見したオデルに、レナードも頷いた。 「一番はシルヴィッド卿の馬ですね。毛艶がいいし、落ち着いている。でも、三番を選んだきみは目が高いと言わざるを得ません」 「元調教師の勘……ですか?」 「それもありますが、どちらかというと親の欲目に近いです。三番はレフティソックスと言って、イアンと私の会社が所有する厩舎の馬なのです」 「えっ」  そういえば先ほどから、レナードは主催側の人々に、時折、意味ありげな視線を投げられては、帽子の鍔を持ち上げ、いちいち挨拶を返していた。てっきりオメガのオデルを連れているのが珍しくて、じろじろと無遠慮な視線を投げられているのだと思っていたが、そうではないようだ。  オデルが振り返ると、レナードの視線を真正面から捉えてしまう。いけないと思って目を泳がせ逸らすが、レナードは優しげな眼差しを寄越すばかりだ。 「元調教師として、私も一応、雑に予想しますが……六十五フィート以上の高低差のあるコースですし、騎手も一流揃いです。ですからきみの言うように、緊張しすぎていないわりに、気合いの乗ったレフティソックスがいいと思います」  出馬表を片手にレナードは頷き、あえて周囲に気を配るかのように耳打ちした。 「我々は三番に賭けましょう。馬券を買ってきます。ここにいてください」 「わかりました」  オデルはレナードが消えた雑踏を眺めたあと、まだそれほど混雑していないプレ・パレード・リングを見渡した。礼装姿の紳士淑女らが、抜け目のない視線で出走馬の値踏みをしている。誰もオデルを気にしない様子に、少し肩の力が抜けた。今日はきちんと抑制剤が効いてくれているようだ。第二性別がオメガだと判明してから、努めてアルファの集う場所を避けてきたオデルにとって、今年のロイヤル・アスコットは良い機会だった。レナードが連れてきてくれたおかげで、いつも頭の片隅で憂いていた『オメガである』という事実から、冷静に距離を置ける気がした。  熱心に出走馬の様子を見ながら、人の流れに従い歩くうちに、いつの間にかオデルは柵の一番前まで押し出されてしまった。その肩を遠慮がちに触れるものがあり、レナードだと思ったオデルは、振り返ったあとで、後悔した。 「レナー……」 「オデル様」  浮かれたオデルを受け止めたのはレナードではなかった。鋭い眼差しの、遠い記憶の中の人物が、夢から舞い戻ったかのように立っていた。 「バレッ……ト」 「お久しぶりです、オデル様。お元気そうで何よりです」  黒いお仕着せを着たバレット・アシュリーが、顎を引き、小さく頷いた。オデルは、ベータの彼がなぜここにいるのか、迂闊にも疑問と混乱を表情に出してしまった。 「そんなに驚かなくとも……意外ですか? 今年からロイヤル・アスコットは庶民にも開かれた場所に生まれ変わったのですよ。ジェントリと認められた者は、アルファに限定されず、通行証を発行してもらえるようになったのです。金の力は偉大だ」  バレットはステッキの柄で帽子の鍔を押し上げ、鋭い眼差しで皮肉げな視線をオデルへ向けた。 「そう、でしたか……。あれから、どうしているかと……」  通行証を購入できる経済力があれば、ベータも上流階級に食い込むことが可能になったのだ。納得はしたものの、オデルはバレットの様子に違和感を覚えた。上手く言えないが、どことなく思い詰め、落ち着きがないように見える。バレットは周囲に視線を走らせ、オデルの方へ少し屈み込んだ。 「……うなじを噛ませていないのですか? オデル様」 「っ」  バレットの責めるような口調に、オデルは思わず、ぱっと自分の首の後ろに手をやった。伸ばしがちな後れ毛のせいで、風が強く吹くか、深く俯かない限りは簡単にわからないはずだが、バレットは鋭い観察眼を持っていた。 「遠目にもあなただと、すぐにわかりました。先ほどまで一緒にいらしたのが、レナード卿ですね? さすが、帝国一、金回りの潤沢な方だと言われるわけだ。ローズブレイド公爵家が持ち直したという噂は、本物だったのですね」 「噂……?」  時勢に疎いオデルより、バレットの方が時代を先読みする力がある。少し痩せ、眼差しに影が差して見えるのは、オデルの欲目だろうか。何を考えているのかわからないバレットへ、口を開くことを躊躇するオデルの様子に、バレットは自虐的な笑みを見せた。 「どうやら公爵は身持ちの堅い御仁のようですね。おかげで社交界は火が消えたようですよ。周りをご覧ください、オデル様。あなたは目立ち過ぎる」  バレットに言われて、それとなく周囲を見回すと、誰もがオデルから目を逸らす様子が窺えた。独りになったオデルをどう扱うべきか、持て余し、所有者を探す視線が、間合いをはかりつつ、責任の所在を問うている。レナードという伴侶の不在が脅威だと、彼らは言外に饒舌だった。 「誰かのものになったのなら、俺の出る幕はないと思っていましたが……あなたを見つけられたのは、神の思し召しかもしれない」 「バレット……」  バレットは、独りでいるオデルを見かねて、アルファとの間で、わざと緩衝材の役割りを果たすべく、声を掛けてくれたのだ。一度は袖にした相手だ。放っておくこともできたはずだった。庇ってくれたバレットに、一切の期待を持たせずに報いるには、どう接するべきなのか。残酷で卑怯なやり方はしたくない。それに、バレットが何を望んでいるのか、今のオデルには見当もつかなかった。 「……ありがとう、ぼくが、不注意でした。レナードを探してきます……」  煩悶の末、たった一言、簡潔な謝辞に留め、踵を返そうとしたオデルの進行方向を、バレットは遮った。 「駄目です。ここから動かない方がいい」 「でも、きみに迷惑をかけるわけには……」  こんなところを衆目に晒したら、何を言われるかわからない。何かが起こった時、バレットを盾に逃げるような真似は、したくなかった。 「俺はベータで、平民ですよ。あなたは優しすぎる。そんな様子じゃ、相変わらずきっとレナード卿が苦労されているのでしょうね? お気の毒に」 「……否定できません」  皮肉な口を叩くバレットに、オデルは唇を引き結んだ。レナードの不在を嘆く一方で、こういうところがあるから、バレットに恋をしたのだと思い出した。お飾りのオメガだと陰で蔑まれようとも、バレットは一切、意に介さなかった。困った人が誰であろうとも、手を差し伸べるのを厭わない。そういうところは変わらないのだ。  黙ったオデルに向けて、バレットは少し大きな声で、まるで周囲に聞かせるように、当てこすった。 「……そうだ、俺に出資しませんか? 資金調達に走り回っていますが、アルファはどうにも階級意識が強くて、なかなかベータの事業に金を出したがらない。厄介な連中ですよ。うちは今、内情が火の車でね。その指輪でひと財産、できるでしょう? とびきり高価な代物のようだ」 「これは、駄目です……っ」  オデルが左手の指輪を庇うと、バレットは皮肉げに笑った。 「冗談ですよ。いや……まあ、半分は事実ですが。金がなきゃ、近いうちにテムズ川に身投げだ。俺の屍体が浮かんだら、身元確認をお願いできますか? 頼めるのはあなたぐらいなのです。オデル様」 「それは……」  影のある眼差しで、容姿も態度も堂々たるものだったが、オデルの知っているバレットは、際どい冗談を言うような人柄ではなかった。何がバレットを変えたのか、獰猛さを感じさせるどこか投げやりな様子に強い違和感を覚えたオデルは、突然、現れた元恋人の思惑が読めず、眉を顰めた。 「気が変わったら、連絡を。電話帳でアシュリー商会と引けば、出てきます。では」  バレットもやり過ぎたと思ったのか、事務的な口調で言い置くと、踵を返した。 「手紙が……!」  翻った背中に、オデルは追い縋るように声を上げた。 「……手紙?」 「まだ、届いていませんでしょうか? もし、新しく出されても、もう読めません。きみからきたものは、すべて処分してしまいましたし、私書箱も閉じましたから。ですから、様子を知る術がありませんでした。すみません……」  明確な拒絶の意思表示のつもりだった。バレットは一瞬、動きを止めたが、やがて肩を竦め「もう、ゆかねばなりません」と呟いた。 「お健やかで。投資話なら、いつでも歓迎ですよ」  瞬く間に人混みに紛れ、風景の一部に溶け込んだバレットの背中を、オデルは青ざめたまま、追える限り目で追った。やがて出走馬がパレード・リングに移動する時間がきたようで、人の流れが変わる。  同時に、今度こそレナードが姿を見せた。 「ああ、オデル……! 迷子になってしまうところでした。見つかって良かった」 「レナード……」  あからさまに安堵が顔に出てしまったオデルが、レナードの袖を握ると、愛嬌のある鳶色の眸が笑った。 「どうしました? 怖い思いでも?」 「いえ……でも、心細かったです」  オデルが口走ると、レナードは柔らかな口調で誘った。 「馬券は買いました。単勝三番。せっかくですから、特別貴賓席でレースを観ましょうか」 「はい、レナード」  オデルの背中を暖かなレナードの手袋に包まれた手が、優しく触れ、促す。もうこの触れ方を知っている、と思うと、オデルはなぜか泣きそうになった。  一度は恋に落ちた相手が、ただならぬ問題を抱えていることを、オデルは知りもしなかった。バレットを思い出す回数が、減ったからだ。だが、何より寂しかったのは、初恋の相手がオデルを利用しようとしたことだった。バレットに会ったことを、レナードには言えない。オデルだって、レナードを利用しているようなものだ。心の中を見せることができない以上、周囲にそう判断されても、言い返せない。  婚前、何度も拒もうとしたレナードの温もりが、暖かく、欲するものに変わってしまっていた。レナードに身構えてしまうのは、ずっと罪の意識があるせいだと思っていた。  でも、違う。 (捨てた、んじゃない。ぼくが捨てられた、んだ……)  バレットは手紙を読んでいないようだった。もしかすると、行き違いになっているのかもしれない。あるいは、バレットの心の中からも、オデルがいなくなりつつあるのだろう。 (子どものような、恋だった)  心の一部に空洞ができたようで、憂鬱を追い出そうとオデルは深呼吸した。  もどかしさを感じながら、淡い初恋が終わったのだと、オデルは理解した。

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