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第15話 決闘騒ぎ

 ローズブレイド公爵領で、商談がてら、遠乗りのレースがおこなわれることになったのは、それからしばらくあとのことだった。  貴族ばかりが数十名、客人としてローズブレイド公爵邸へ泊まり、明朝、一斉に馬を駆り、領地の端に立てられた赤い旗を最初に持ち帰った者が勝者になる、というものだった。優勝者には名誉とささやかな賞金が出る。そうした遊戯の傍ら、商売の話も進めようとの提案を、レナードが取りまとめてきたようだった。  まだ朝露の残る早朝に、貴族階級のアルファばかりが集う中にバレット・アシュリーの姿を見つけたオデルは、胸が潰れそうなほど動揺した。イアンから貰った小切手は、週末を挟んだが、先日、バレットが代表を務めるアシュリー商会宛てに郵送したあとだった。返事はいらない旨を書き添えたため、届いているのかわからなかったが、さすがに金額が足りなかったということはないだろう。爵位も持たず、一段低い身分として扱われるベータのバレットが、アルファばかりの集う商談に紛れ込み、この場にいる理由がオデルにはわからなかった。 「あの、レナード。なぜ、彼が……?」  おそらく、ジェントリのひとりとして招かれている以上、第二性別を理由による差別は、品位に欠けるおこないだ。しかし、せめて理由があれば、少しは冷静になれるかもしれなかった。 「ああ、彼は……招待リストに入れた覚えはないのですが、取引先のガジャージュ伯爵の随行者のようなのです」 「そうでしたか……」 「彼もまた、実業家らしい。アシュリー商会でしたか」 「彼は、元々、我が公爵家に、代々、奉仕してくれていた家の出なのです。ですから……」  オデルが顔を知っている理由を述べると、レナードは穏やかな調子で言った。 「なら、私と同じですね」  ガジャージュ伯爵は、レナードが男爵位を叙せらる前から、何かと後ろ盾になり、動いてくれていた恩のある人物だとのことだった。神代の時代から連綿と続く階級社会のあり方に、問題提起をする思想家としても名を馳せており、今回、バレットを同行者として連れてきたのも、ガジャージュ伯爵の主張の一環なのかもしれなかった。  遠乗りの第一陣が出立すると、同時に先頭争いの掛け声が、あちこちから上がった。第二陣、第三陣、と次々に、腹に響く蹄鉄の音をさせて遠ざかってゆくのを見送ったオデルは、レナードとイアンとともに最終組を送り出したあと、のんびり出立するところだった。 「ホストがお株を奪ってしまっては、つまらないからな」  先日、シルヴィッド卿の馬に鼻差で辛勝したレフティソックスに跨ったレナードへ、イアンが陽気な軽口を叩く。オデルがフレイムトラスト社を訪ねたあと、何度かレナードと顔を合わせているイアンだったが、記憶喪失にでもなったかのように、オデルとの間に交わされた秘密を打ち明けようとする気配はなかった。しかし、アシュリー商会を起こしたバレットが、ローズブレイド公爵邸に泊まっていることは知っているらしく、たまに、バレットを目の端で追いかけていた。オデルは、小切手の件で接触してきた時には気をつけるべきだと、最低限の心構えをして、あとは気にしないようにした。  天気は初夏にしては珍しく快晴で、陽光が透明に感じられる眩しい朝だった。昨夜のディナーのあと、深夜まで話を詰めていたレナードもイアンも、飲み過ぎた気配もさせず、すこぶる快活だ。雨の多い時期や、冬には見られない、露に濡れた大地や木々、小川の水面の透き通った輝きに魅せられながら、しばらく三人でゆくうちに、オデルは次第に物足りなくなり、愛馬の腹を拍車で促した。 「少し先にいきます」  レナードにそう言い置いて、ぐんぐん風を切り、早朝の野を駆け抜ける。風が頬に当たり、澄んだ空気が美しかった。父が倒れ、邸も、調度品の数々も抵当に入れられ、財産が底を尽きかけていた時期も、厩務員らが辛抱強く世話をしてくれていたおかげで、馬の反応が良い。久々の鞍上は視界が高く、遠くまでよく見え、心地よさについ、オデルは浮かれた。  しばらくゆくうちに、背後で上がったレナードの声が耳に飛び込んできて、オデルは我に返った。 「レナード、呼びましたか?」  手綱を締め、減速させながら左巻きに馬を半回転させると、オデルを追ってきたレナードが非常事態を知らせた。 「イアンが泥濘に嵌まったようです。私は彼を助けますから、あそこで落ち合いましょう」  オデルと同等に弧を描いて馬を返したレナードが指差した先の地平線には、まだ白い点ぐらいにしか見えないが、西洋風東屋があった。 「わかりました。ふたりとも、気を付けて」  昨夜の雨により、領地の所々、陥没している場所に水たまりができ、踏み間違えたイアンの馬が、前脚を取られたようだった。イアンは帽子を振り「先にゆけ」と合図を出したが、オデルが頷くと、レナードは引き返していった。 「面目ない。馬は苦手なんだ」 「何を言ってるんだ。学生の頃、ポロの選手で鳴らした奴が」 「万年デスクワーカーに無茶を言うなよ。拍車を押し当てる筋肉なんか、すっからかんさ。おれはもう引退だよ」  二人の掛け合う声が背後から風に乗り流れてくるのを聞き、オデルは愛馬の腹を優しく押した。東屋の白い佇まいが近くなるまで全速力で馬を狩る。久々に、自由になった気がしていた。  朝靄の晴れた日差しの中に佇む西洋風東屋の背後は杜で、遠くに、馬を駆る貴族らの甲高い声が木々を超えて渡ってくる。馬の嘶きと馬蹄の音に耳を傾けながら、オデルは誰もいない東屋にたどり着くと、腹帯を緩めた愛馬を外の水場へ繋ぎ、屋根の下へ入った。久しぶりの乗馬に心が躍り、汗をかいた額を拭うため、帽子を脱いで、ぐるりと領地を見渡す。これほど開放的な気分になれたのは、いつぶりだろうか。もし、レナードが遠乗りに誘ってくれなかったら、オデルはロイヤル・アスコットで出くわしたバレットの件に、いつまでもぐずぐずと悩んでいたに違いない。 (今のぼくがあるのは、レナードのおかげだ)  ひとり、誰にも煩わされない時を、ぼうっと東屋のベンチで放心した。  しばらく何も考えず、景色を遠く眺めていると、急に雲が出はじめた。見上げると、小雨がぽつぽつと降りはじめる。みるみる暗雲が立ちはじめ、本降りになるのに時間はかからなかった。オデルは、レナードとイアンの方角を探したが、うまく視界が利かなくなっていた。雨が次第に強くなると、外界と隔絶されたような東屋の屋根の下は静寂に満ち、鳥籠の中にいるようだった。囀ることができるようになったのは、レナードの辛抱強い優しさのおかげだ。 (愛している、と……伝えられるだろうか)  この遠乗りが終わったら。機会が巡ってきたら。きっと、確信が持てる気がした。淡い初恋を失った記憶以上に、新たな恋情がオデルの中で燻っている。愛を受け入れる心構えができたことをレナードに報せるには、どうすればいいのか、ずっと考え続けてきた。  目を閉じ、雨音に耳を澄ましたオデルが想像を巡らせていると、雨粒を縫うように、馬の嘶きが聞こえた。馬は孤独を好まない生き物だから、仲間を求めて声を上げることがある。隣りに繋いだオデルの愛馬が鼻を鳴らしたのを聞き、瞼を開けたオデルは期待とともに振り返ったが、そこにいたのはレナードのレフティソックスでなかった。  第一集団が折り返してきた馬群から、遅れ気味にはぐれた白馬が、オデルのいる東屋の方角へ進路を変え、駆けてくる。その鞍上にいるのがバレットだとわかった時、オデルは身体を強張らせた。 「オデル様……」  濡れ鼠のまま、バレットは馬を降り、挨拶をした。 「あなたが見えたので、少し寄り道を」  ガジャージュ伯爵のいる第一陣とともに駆けていったはずのバレットは、オデルの愛馬の隣りに自分の白馬を繋ぐと、雨をしのぐ目的以外には何もない風で、東屋の屋根に入ってきた。バレットの身体から滴った水が大理石に染みをつくったが、意に介さない態度だった。 「……ガジャージュ伯爵の随行者として、いらしていたのですね」  濡れ鼠のバレットに、本来ならばハンカチぐらいは貸すべきかもしれないが、オデルは東屋のベンチから立ち上がると、不自然に見えないよう、バレットから距離を取った。 「伯爵には許可をいただきました。こちらに、あなたがいることがわかったので」 「……ぼくらの間には、もう何もないです。バレット卿」  オデルの言葉に、バレットは威嚇するように笑ってみせた。 「あなたは、俺に小切手をくれた。ですから、関係はあります」 「それは……」  オデルはレナードらがいる方角を見たが、驟雨の中、目を凝らしても、レフティソックスが現れる様子はなかった。 「……ぼくらは、もう終わったはずです。過去のことは全部、忘れてください」  過去のすべてを清算できたら、レナードに告白したい。だが、バレットは鞭を持ったまま、オデルの方へと近づいてきた。帽子を取り、無造作に汗と雨で濡れた頭を振ると、水滴がオデルのブーツの爪先にまで飛び散った。 「俺に投資してくださったことへのお礼を、まだ言っていませんでしたね。あなたの真心を、俺は忘れません。あなたの存在を、忘れたことが、なかったように」  そのまま真っ直ぐ向かってくるバレットに、肌がざわりと反応する。オデルは今まで抱いたことのない感覚に驚き、一瞬、気を取られた。 「俺を恨んでいらっしゃるでしょうか? あなたを置いて、姿を晦ました俺を……」 「恨む……?」  反応が遅れたオデルに、少し興奮しているのか、バレットは饒舌だった。 「結婚式にも現れず、異義も唱えず、尻尾を巻いて逃げたことを、後悔しない日はなかった、と言ったら……信じてもらえるでしょうか?」 「何の、話を……」 「俺たちの話です、オデル様。十八歳の誕生日に届けた薔薇を最後に、ベータであることを言い訳に、あなたを攫う勇気もなく、逃げたのです、俺は……」  忸怩たる口調で、バレットが後悔していることがわかった。雨に濡れた体躯が、淡く湯気を立てているのがわかるほど近くに寄られる。バレットはそのまま東屋の柱のひとつにオデルを追い詰めた。 「あれは……昔の話です。あまり近づかないでください。ぼくはもう、レナードの……」 「では、なぜまだ、うなじを噛ませていないのですか?」 「っ」  逃げ場を失ったオデルは、バレットの強い視線に脅威を覚えたが、どうにか平静を保とうとした。 「それは、レナードとの間に、取り決めがあるからで……」 「社交に積極的でないあなたは知らないのかもしれませんがローズブレイド公と「ドレッサージュの君」との醜聞が、貴族らの間で広まっているのですよ? あの男は……腹立たしいほどオデル様を侮っている。なら、俺が手を出してはいけない理由はないでしょう」 「それはちが……」  バレットの口から「ドレッサージュの君」という単語が飛び出したことに驚いたオデルが顔を上げると、唐突に視線がぶつかった。バレットは苦々しい苛立ちを湛え、オデルを追い詰めてゆく。 「その更地を見るたびに、俺との間に未練があるのでは、と思い出します。正直、数日は何も手につかなかった。伴侶のいるオメガ相手に、俺のようなベータに望みなどないと、散々、ガジャージュ伯爵にも窘められました。確かに、俺は、アルファではない。だけど、あなただって同じだ。あなたもまた、俺と同じように、アルファにはなれない」 「寄らな……っ」 「オデル様」  息を呑みバレットを遠ざけようと持ち上げた手首を、強い力で握られ、オデルは鳥肌が立った。嫌悪感に近い、無遠慮なベータの腕を不快と感じる自分に、何よりも強い衝撃を受ける。オデルの背を預ける形になった柱に片手を付いたバレットは、揺るぎもせずに吐き捨てた。 「俺は、あなたと別れてから、変わりました……怖気付く必要など、本当はなかった。ベータであることに、一番、引け目を感じていたのは、俺自身だったんです。そして、相手であるあなたを、オメガだから結ばれることなどないと決めつけた。でも、この状況は……あなたを待つことしかできなかった俺が、意気地なしだと思い知らされるに充分です。報いを受けたんだ。もし、まだ、わずかでも……」  バレットは、柱に付いた手をずらすと、オデルのうなじの毛にくしゃりと触れた。 「俺に、あなたを噛むだけの勇気があったら……未来は変わっていたかもしれないのに」 「バレッ……ッ」  柱に踵が当たっており、これ以上、下がれないと悟ったオデルは、背筋がぞくぞくと震えるのを知覚した。快楽とは程遠い、嫌悪感。不意にレナードの存在が脳裏を過ぎる。互いに欲望はあるが、レナードは身体を繋げずに、待ってくれている。オデルと両想いになる日がくると、信じてくれているからだ。その自制心こそが愛情の証だとオデルは知っている。だから、軽々に好意を表せない。愛していると気づいてしまったからだ。 「せめて俺に、あなたを攫うだけの力があれば……っ」 「やめ……!」  オデルの手首を掴んだバレットに、強く引き寄せられ、抵抗する。狡い言い方をする、とオデルは唇を噛んだ。初めての恋も失恋も、バレットに落ち度はなかった。すべてオデルの我が儘だった。そして、バレットが話すことだけが真実だと信じられるほど、オデルはもう子どもではなかった。 「や、めてください……っ、バレッ……ッ、ぼくは、もう……っ」  おデルはもう、バレットに気持ちがないことがはっきりわかった。なのに、バレットの渦には、オデルを巻き込む強さがあった。 「離して……っください、バレット……ッ」  強いるバレットと東屋の中で揉み合いになり、抵抗するオデルが身体を竦めた瞬間、近くで馬の嘶きが聞こえたかと思うと、二頭の馬が東屋のすぐ傍まで駆けてくる音がした。 「その手を離せ……!」  先頭のレナードが、激昂の声を上げた。  オデルが振り返ると、レフティソックスが西洋風東屋のすぐ傍まで乗り付けてきていた。後ろには、不愉快そうな顔をしたイアンもいる。馬上からバレットを見下ろしたレナードは燃えるような声で命じた。 「私の伴侶から離れてください。バレット・アシュリー」 「……俺に、その命令口調が効くとは思わないことです、新公爵」  バレットもまた、馬上のレナードを振り返り、ぎろりとねめつけた。バレットから少しでも距離を取ろうとしたオデルは、膝が震えていることに気づかず、ずるずるとその場にへたり込んでしまった。けれども、このまま事態を傍観するだけでは終われなかった。 「もうやめてください、バレット……」  絞り出すような声になってしまったオデルにチラリと視線をやったレナードは、心配そうな色を見せたが、またすぐにバレットを見下ろした。 「この状況に説明を求める」  レナードの冷たい矛のような声に、バレットが吠えた。 「なぜうなじを噛まないのですか……!」  怒鳴られたレナードが、一瞬、目を瞠った時を捉え、バレットは前へと進み出た。 「こんな扱いをするあなたに、大事なオデル様を黙って渡したとなれば、末代までの恥だっ」  レナードは些か億劫そうに深いため息をつき、失望に近い声音で言った。 「こんな扱い……? 何を言っているのか……。我々の間に約束があるからに決まっているでしょう。きみに明かす義理はありませんが。それより、他人の伴侶に乱暴を働くと、どうなるか、それこそを、きみは知るべきだ」  額に流星のある、左前脚に白靴下を履く栗毛の馬が、主人の不興を察したのか、ぶるりと鼻を鳴らした。オデルが自力で立ち上がると、レナードは再びバレットを睥睨し、おもむろに外した白手袋をバレットに投げつけた。 「拾え。バレット・アシュリー」 「……」 「話をする気分ではないだろう? 私もだ。役者も揃ったことだし、きみとは、いずれ決着を付けなければならないと思っていた」  いつもより沈んだ話し方のレナードは、レフティソックスが鼻先を振っても、びくともしなかった。バレットは、心得たとばかりに笑みを浮かべ、雨と泥に濡れたレナードの白手袋を拾い上げた。 「……いいとこ育ちの坊ちゃんに、俺がやれるとでも?」 「自信がないのなら、このまま立ち去ることだ。そして、二度と私の伴侶に近づくな」 「伴侶、ね……いいでしょう。受けて立ちますよ。レナード公」  激昂された方がまだましだと思うような冷えた声でのやり取りに、青くなったオデルが口を挟もうとすると、レナードの背後にいたイアンが怒鳴った。 「おい、冗談だろ……! 今時、決闘なんて時代錯誤にもほどがあるぞ! しかも違法だ!」 「関係ない。伴侶に乱暴を働かれて黙っている男がどこにいる? きみには証人になってもらうことになるぞ、イアン」  振り返ったレナードの目を見たイアンは、悪態を付いた。 「くそっ、おれは親友を見捨てるなんてできないぞ……っ」 「レナ……ッ」  オデルが止めようと発した声に被せるように、バレットが怒鳴った。 「賭けるのはオデル様の心だ!」  やめさせなければ、と口を開きかけたオデルの声は、かき消され、バレットが獰猛に笑う。 「それともうひとつ。俺が勝ったら、うちの会社の社債を引き受けてもらう」 「いいだろう」  オデルが顔を上げると、レナードは引き絞られた弓のような目をしていた。感情の抜け落ちた声で即答する。その様子を見たイアンも、額を押さえながら、腹を括った顔になった。 「場所は?」  バレットの問いかけに、間髪置かずレナードが応じる。 「ここで」 「時間は?」 「明日、日の出の時刻に」 「獲物もあなたに選ばせてやりますよ。負けた時に文句を言われちゃ、かなわない」 「では、剣で。……オデル」  すべてを決めてしてしまうと、不意にレナードはオデルを呼んだ。震えるオデルに、今度は困ったような笑みをレナードは見せた。 「きみを巻き込んでしまって、すみません」 「そんな……っ、レナード、ぼくは……っ」  オデルが踏み出そうとすると、遮るようにイアンが宣言した。 「決闘の成立を確認した! 明日、日の出の時刻に、場所はこの西洋風東屋にて、獲物は剣! 医者はこちらが用意する! ……立会人を双方立てるが、おれはレナード側に付く。審判は……」  見回すと、いつの間にか、声の通る近いところに数十の馬群が複数できていた。領地の端までいった者らが、赤い旗を各々持ち、ことの成り行きを見ている。「違法では?」「面白い」「どちらに賭ける?」などと口々にする耳打ちが聞こえてきた。その声らをかき分けて、立派な白髭を蓄えた壮年の貴族が黒馬とともに進み出た。 「……わたしが引き受けよう。そこの若いベータは、わたしの随行者だからな」 「ガジャージュ卿、お願いできますか」 「うむ」  ガジャージュ伯爵が頷くのを確認したイアンは、次にバレットへ話を振った。 「バレット・アシュリー卿、きみの側の立会人はどうする?」 「心当たりならある。それと、もうひとつ、条件を付けさせてくれ。俺は、オデル様がその場にいることを望む」  バレットの背中から、焔が立ち上るような錯覚をオデルは覚えた。明朝、オデルの目の前で、このふたりが殺し合うのを目撃することになる。その元凶が自分であることに怯えたオデルは、震える拳を強く握った。  イアンが自棄っぱちに叫び、条件をねじ込んだ。 「おれからも条件を付けさせてもらうぞ。この決闘、記事にする! フレイムトラスト社の独占スクープだ……!」  レナードもバレットも、互いを見たまま、引き絞られた弓のような眼差しで頷いた。すべてが決まると、バレットは東屋から出て、白馬の手綱を握り、ひらりとその背に跨った。 「好きにしてくれ。……今日は帰らせてもらいます。明日が楽しみだ」  いつしか雨が上がった空の下、バレットは、ガジャージュ伯爵とともに、邸の方へ速足で駆けていった。 「……我々も帰りましょうか。オデル?」 「ッ……レナード……」 「駄目ですよ、そんな顔をしては。私は負けるつもりはありません。大丈夫」  蒼白に近い顔色をしているオデルは、胸の軋む音に耐えながら、西洋風東屋から踏み出し、腹帯を締めた愛馬に再び騎乗した。  バレットは王立騎士団の下部組織である騎士養成学校から、ベータとして初めて勧誘があったほどの剣の腕前だ。十代の頃はジュニアのフェンシング競技会に、アルファに混ざり出場したこともある。そんな相手と決闘だなんて、狂気じみていた。  大切にされていることはわかっていた。なのにオデルは一度だって、レナードに面と向かって愛を告げていなかった。浮かれて、悩んで、とうとう失いたくない存在を、失いたくないと伝える機会を逸してしまった。  今からでは遅い。鞍上のオデルから、レナードはそっと視線を逸らし、邸のある方角をぼうっと眺めていた。オデルが横に並ぶまで、待っている。どんな時でもオデルを尊重するレナードに、言わなければならない言葉を飲み込む。 (……ぼくは、愚かなままだ……)  明日になれば、レナードを永久に失ってしまうかもしれない。  だとしても、命を賭けるレナードの心を乱すおこないは、慎むべきだった。

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