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第16話 涙雨
驟雨が霧雨に変わる帰路、レナードも、オデルも、イアンも、言葉少なだった。
オデルの半馬身先をゆくレナードとイアンが、何やら話し込んでいるのを盗み見るようにして、オデルは唇を噛んだ。
気づいていないわけではなかった。時折、現れるレナードの寂しそうな横顔に。何かを窺う視線で、オデルの姿を追うのを、意識していないわけではなかった。
(……ぼくが、ふらふらしているからだ)
バレットとレナードがぶつかるのを、予測できないまでも、もっと上手く立ち回ることができていたら。そもそもバレットの発言を真に受けずにいたら、今日のような事態は訪れなかっただろう。
本降りだった雨が、邸に着く頃には上がっていた。
立食形式の軽い昼食を、外に張ったテントの下で各々が食べはじめる中、皆の視線が何かを問いたげにオデルへ向けられるのがわかった。青白い顔のまま、孤立しがちに紅茶に口を付けていると、レナードが傍へきた気配がした。
「オデル」
ビジネス上のパートナーでもあるイアンとの相談が一段落したのだろう。柔らかな声だった。
「レナード、あの……」
「大丈夫。心配ありません」
オデルが顔を上げると、レナードの鳶色の柔和な眸とぶつかった。レナードは、オデルの震えがちな唇を指先で拭い、いつもどおり抑制の効いた声で、少し哀しそうに語りかけた。
「何を言われても、きみが傷つくことのないようにします」
「え……?」
いったい何の話をしているのか、よくわからずに問い返すオデルへ、レナードはきっぱり言い切った。
「殺しはしません。約束します。きみの大切な友人だった人だ。命は助けます。必ず」
「っ……」
激しく身体の中で渦を巻いていた感情が、激昂に近い形でオデルを苛んだ。
「レナード、ぼくは……っ」
「絶対に、です」
真摯な声で宣言されて、オデルは何も言えなくなってしまう。レナードはそれを見越したのか、そっと屈み込むと、オデルの頬に触れるだけのキスをした。
「きみを、こんなことに巻き込むつもりは……。私はきみのことになると、抑制が効かなくなってしまうらしいのです。つらい思いをさせて……」
「ちがいます、レナード……!」
視界が濁り、溢れる寸前で、オデルは嗚咽を引っ込め、片手でレナードの袖に縋った。
「あなたを失うことになったら、耐えられません……」
もう一方の手に、カップの取っ手をぎっと握りしめて俯いた、オデルの頬にかかった髪に、レナードがそっと指を絡める。祈るようにオデルはその手に頬ずりした。
「生きて……生きていてください……っ、絶対に。約束です……っ」
「そうですね……」
「あなたに言わなければならないことが……。それに、あなたに……叱っていただかなくてはならないことも」
「オデル。この件は、私が望んだことで、きみの責任ではありません。でも、秘密を教えていただけるのなら、少し、楽しみです」
拳銃を選択しなかったのは、どこに当たるか予測が難しく、手元が狂う確率が高いからだろう。でも、剣ならあるいは……レナードはそう考えたのだ。オデルを哀しませまいと、ただそれだけのために譲歩をしたレナードは、少しくたびれた顔をしていた。憂い顔を拭いたくて、オデルは唇をほどいた。
「……あなたが負けたら、ぼくは一生、喪服しか着ません」
震えるのを堪え、声を絞り出すと、レナードは目を瞠った。
「ありがとうございます、オデル。私は、その気持ちが嬉しいです」
「本気です」
「わかっています。きみは本当に……好きです、オデル」
レナードの気配りと優しさに、ひりつくような痛みを覚える。同時に何に対してかわからないまま、腹を立てていた。オデルが矛盾した感情に揺れていると、レナードは優しく笑いかけた。
「戦闘不能になったら、潔く降伏します。きみを未亡人にするわけにはいきませんからね」
バレットの窮状を見ぬ振りができなかったのは、オデルの甘さで、弱さだ。自制心を総動員して、オデルはまっすぐレナードと視線を絡める。刹那、心がほろほろと崩れはじめるのを自覚した。
「レナード……少し屈んでくれますか?」
「ええ。どうしましたか……?」
耳打ちをされると思ったらしく、耳を澄ますようにオデルの方へと屈み込んだレナードの唇に、触れるだけのくちづけをした。一瞬の接触だったが、見ていた者も周囲にいただろう。虚を突かれたレナードから離れたオデルは、頬が朱に染まるのもかまわず、正面からレナードを見た。子どもじみた癇癪を起こしたように、自分の衝動を抑えられなかったことに恥じ入る一方、後悔も嫌悪感もなかった。
「……震えていますよ」
背中を伸ばしたレナードが、オデルの朱い頤をそっと持ち上げた。
「怖いです。でも、ぼくはもう……」
オデルがほどいた唇に、今度はそっとレナードがくちづける。触れるだけだが、吐息が混じり合う。頬を染めたオデルを見下ろすと、レナードは少し皮肉げな笑みを浮かべた。
「……どうやら私は、きみが傷つくと、虐めたくなるらしい」
頤を起点に顔の輪郭をなぞられ、まだ未踏の地であるうなじへと指が伸ばされる。ぞわりと鳥肌が立ったが、その奥に愉楽が眠っていることをオデルは自覚していた。
「決闘が終わったら、きみをちゃんと叱って……、少し、虐めてあげましょうか?」
囁かれたレナードの声に、熱いものが喜悦とともに、臓腑から迫り上がってくるのをオデルは感じた。
「はい……レナード」
「いいのですか? 私は、きみを、めちゃくちゃにしてしまうかもしれませんよ……?」
「だとしても……、待って、います」
うっとりと頷きながら、酸素が足りずに呼吸困難に陥りそうだった。息を吸おうとするが、肺がちゃんと仕事をしてくれない。大切な友人だった人、とバレットを表現したレナードに、まだ何も返せていない。だからこそ、オデルは今を最後にするつもりはなかった。
「それは楽しみですね」
レナードは微笑むと、オデルの左手を持ち上げ、その甲にキスをした。薬指に指輪がないことに気づいていないはずはないが、それについて、レナードは何も言わなかった。
「きみを愛している。本当です」
するりとレナードの指先が、オデルの処女地から離れる。おもむろに呼ぶ声に応える形で、レナードは振り返り、返事をすると、オデルへ向けて言った。
「明日に備えて仕事を片付けなければなりませんから、今夜は先に眠っていてかまいません。疲れたでしょう。……また明日」
「はい、レナード……わかり、ました」
仕事をするアルファの顔になったレナードを、祈るように見送ったオデルの視界に、イアンと他数名の貴族らが合流する。緊急事態を知らない来客らがいないよう、また、秘密が外に漏れないように、仔細を伝えて回っているようだった。
「大丈夫か?」
「問題ない。が、今日中にしておくことが山積みだ。手伝ってもらえるか?」
「乗りかかった船だ。当然だ、親友」
イアンとレナードの会話の一部が聞こえた。オデルにいらぬ注目がいかないよう、気を配ってくれているのだ。今は彼らの邪魔にならないことしか、オデルにできることはなかった。
甘い匂いに身体の芯が燃えている。オデルは怒りに似た激しい衝動を抑えようと、近くのテーブルにカップを置き、美味しそうに並べられたサンドウィッチや菓子類へ、悪戯に視線を走らせながら、引き下がる機会を窺った。
オデルがひとり、ぼんやりレナードとの会話を反芻しながら歩いていると、不意に目の前に影が差して「失礼」と低い声が降ってきた。
「こちらこそ、失礼しました。……ガジャージュ卿」
顔を上げると、堂々たる体格の壮年の男性が立ちはだかるようにして、そこにいた。
「あなたが、レナード卿の伴侶ですな。はじめまして。今日はとんだ日になりましたな」
「まったくです……。どうか、オデルと。レナードから、お話は伺っています」
もう決して間違えたくない。肚が決まると、不思議と落ち着きがオデルに宿った。顔を上げ、白髭のガジャージュ卿に視線を向けると、傍らにあるサンドウィッチを一緒に勧められた。
「レナード卿は、とても良い人物ですな。意見の相違があることを差し引いても、わたしの主張を頭ごなしに否定しないところが、気持ちの良い男です。あなたも、なかなか気の利いたところがあるとお見受けしました。オデル」
「あ、ありがとうございます」
先ほどの戯れを見られていたのだろうか。オデルが、まだ赤みの残った頬を擦りながら照れると、深いバリトンに再び問いかけられた。
「不安ですか?」
「え?」
「あなたの伴侶が、法を犯してまで決闘する場に立ち会うことが」
ガジャージュ卿は、バレットとも懇意だ。オデルを探ろうとしているのかもしれない。オデルは率直に話すことで、少しでも理解が得られることを願った。
「はい。不安のない者などいないと思います」
もし決闘騒ぎが漏れたら。それが女王の耳に入ったら。万が一にもレナードが、負けることがあったら。今度こそローズブレイド公爵家は凋落したという確かな烙印を押されるかもしれない。オデルの不安をどう受け取ったのか、ガジャージュ卿は大きく頷いた。
「警察はわたしと、その他の有志で抑えます。その点は、心配なさらず。命については……、こればっかりは、予測がつきませんが」
「お力添えいただき、感謝します。ガジャージュ卿。ぼくひとりでは、何もできなくて」
権力を握っているのなら、この決闘ごとぶち壊してくれるのが一番だが、アルファの貴族らは血の気が多く、気負った彼らに消極的判断を提示しても、乗ってくるどころか、臆病風と揶揄されるだろう。オデルひとりが反対しても、オメガの戯言だと笑うばかりで、彼らは真に受けもしないことは、わかっていた。
「野心家の多くは、その自信と反比例した実行力しか伴わない例が多いですが、あなたの伴侶はそのどちらも備えている。失礼を承知で言わせていただけば、オメガと婚姻して道を違えるのではと、心配した時期もあったのです。しかし、レナード卿の様子を見れば、あなたをどれだけ慕っているか、心から理解できます。観察する者と、される者……両者の態度が変わりましたからね。あなたの存在を、皆が意識するのはそのせいです」
「そう、なのでしょうか……?」
「きっと、遠からず、あなたにもわかると思います。愛というものが持つ、偉大な力が」
遠回しにではあるが、目の前のアルファが何を言わんとしているのか、わかる気がした。
「ガジャージュ卿、その「ドレッサージュの君」の話ですが……」
オデルが主張しようとすると、白髭に隠れた口元が、悪戯がバレた時のように、にやりと笑みをつくった。
「あなたのことでしょう?」
「えっ?」
「噂では、こう言われています。『「ドレッサージュの君」と結ばれた社交界の寵児は、真実の愛のもとに帰依し、その者のもとにひれ伏し、二度と頭を上げなかった』と。わかる者にはわかるが、わからぬ者には誤解を生む表現でしょうな」
それはフレイムトラスト社の飛ばし記事と似通っていたが、より表現が鋭角的だった。
「ぼくはてっきり……いえ、誤解のないように言わせてください。ぼくが「ドレッサージュの君」だとレナードに打ち明けられたのは、婚姻したあとのことなのです。ですから、もしかすると、ぼくと同じ誤解をしていらっしゃる方が、まだいるかと……」
オデルが急いで付け足すと、ガジャージュ卿は大きく頷いた。
「当人の言質を得られたわけですから、これからは、わたしも噂を誤解釈する手合いに出くわしたら、真実を話すよう努めましょう。まあ、その前にフレイムトラスト社の号外が、どうにかしてしまうかもしれませんがね」
面白そうに皮肉を言い残したガジャージュ伯爵は、気が済んだのか、些か声をあげて笑いながら、オデルのもとから去っていった。
(そうか)
オデルは急に左手の薬指に何もないことが、恥ずかしくなった。
ちゃんとレナードのものだと主張することぐらいは、オデルにもできるはずだった。
そうこうしているうちに、あちこちで話が弾み、わっと笑い声が起きた。政治や経済の話が活発に交わされる中、レナードとイアンはバレットへの金を用意すると決め、決闘で起きるかもしれない万が一の事態に備え、慌ただしく準備をはじめたようだった。
オデルは、これ以上、噂の種にならないように、その場からそっと離れることにした。
非業の死など、誰も望まない。
たとえ勝負に負けても、生きてさえいてくれたらいい。
レナードと目が合ったオデルは、少し手を振り、先に休むことを伝えると、邸へ入った。
階段を一段ずつ上るたびに、膝と、熱を持った唇が震え出した。
レナードとの初めてのくちづけは、雨と、涙の温もりがした。
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