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第17話 血と、その顛末

 地平が白く染まる頃、西洋風東屋で待機していたレナードらのもとへ、立会人を連れたバレットが現れた。 「バ、バレットさん……やはり、わたしなどでは……」  ローズブレイド公爵邸に宿泊した客らの囲みに怯えた様子で、立会人兼経理担当者と紹介された、猫背ぎみに歩く眼鏡を掛けたうら若い痩躯の青年は、貧乏くじでも引いたような複雑な表情で、ゴネるように小声でぼそぼそと話し、バレットの神経を逆撫でにしていた。 「金が入ったら、全部あんたに任せるんだ。適任だろ」 「で、でもですね……もし万が一のことがあったら……っ、そしたら、わたしが責められやしませんか……っ? い、今からでも棄権した方が……」 「今さらだ。遺書を預かっているのはあんただけなんだ。時間が惜しい。はじめるぞ」  秘密は厳守され、漏洩は回避できているようだった。唯一、フレイムトラスト社の記者とカメラマンが、しきりに構図を気にして取材メモを取っている他は、野次馬は一切、いなかった。  とはいえ、ローズブレイド公爵邸に奉仕する使用人らにも一報を入れたようで、貴族らの他に奉公人たちまでもが、決闘の開始とその行く末を、今か今かと待っていた。  バレットに翻意を迫ろうとして失敗した経理担当者が渋々黙ると、審判役を買って出たガジャージュ伯爵が進み出た。レナードも、さすがに緊張した面持ちだった。 「もしもの時は、きみに頼む、イアン」 「わかっている。万事、心配するな。勝ってこい」  フレイムトラスト社の記者らが、絵になる図を探しながらフラッシュを焚く。遅かれ早かれ、これだけの人数が集ってしまった以上、あとから噂になるのは避けられない。ならば、最初に記事を書いて、結末がどうなろうと、オデルとローズブレイド公爵家の品格を守る、というのがイアンの戦略だと、レナード経由でオデルは耳にしていた。  決闘の前に、互いに獲物を検分する。  ガジャージュ伯が両者を分けると、いよいよ合図を待つだけの本番だった。 「両者とも、異存はありませんな?」 「ありません」 「ありません」  殺し合いをすることに合意した両者が剣を構える。オデルは邪魔にならないよう、極力、レナードの視界から外れた場所にとどまった。レナードの剣の腕は知らないが、バレットが手加減をして勝てるほど簡単な相手でないことは理解しているようで、レナードも、それなりの覚悟で挑んでいる。 「構えて。……はじめっ!」  ガジャージュ伯爵の声を合図に、レナードとバレットの激しい突き合いがはじまった。  足場は昨夜、降った雨をたっぷり含み、泥濘んでいる。闘いはすぐに混戦になったが、両者とも足を取られることを気にして、踏み込みが浅く、刀身同士が絡み合う音ばかりが響き、致命傷を負わせられないまま、時間だけが無情に過ぎ去ってゆく。  貴族らと使用人らが見守る中、闘犬同士の闘いのように白熱した剣技が、肉を削ぎ、火花を散らしてぶつかり合った。  両者とも血が滲み、体勢を崩したままでの攻撃と拙い防御を繰り返すうちにボロボロになってゆく。剣戟に次ぐ剣戟が、体力と血肉を文字通り削り合い、やがて立っているのもやっとな状態になりはじめていた。純白だったシャツは裂かれ、赤黒い血が汚く滲んでゆく。息が上がり、雑になった剣筋を繰り出し続けるが、戦意を喪失することは双方ともなかった。  オデルはきつく拳を握った。  自分が出てゆくことで問題が解決するなら、身を投げ出す心構えはできていたが、オメガのオデルが出ていっても、邪魔になるだけだった。何の役にも立たないことが歯がゆく、それでも傷ついた両者から視線を外せない。レナードが勝利を掴み、罪が暴かれるまで、今にも駆け寄りたい衝動を堪え、当事者として顛末を見守るしかなかった。  何度、打ち合ったか、数えることも不可能になるほど長い間、決着は付かなかった。  しかし、観客らが待ち望んだ瞬間は、前触れなく唐突に訪れた。  左肩を突かれたレナードが蹌踉めいた瞬間、観客が大きく唸った。  ざわついた観衆の目前で、剣を左手に持ち替えたレナードが、低く鋭い声とともに、バレットの脇の下を薙いだ。 「っ……!」  肩が上がらなくなったバレットが、剣を取り落とす。  同時に拾い上げる隙をつくろうと、中腰になったバレットは、足元の土をひと掴み握り、レナードに向かって投げつける。飛んできた土くれを躱したレナードがなおも踏ん張り、剣を拾い上げようと横へ飛んだバレットの首元に剣先を突きつけた。 「っく……!」  なおも諦めようとしなかったバレットに対し、ビィン、と不快な剣の弾む音をさせたレナードは、バレットの手の甲を、剣の柄とともに地面に縫い付けた。 「っぐ……ぅっ!」  息を呑んで衆目がどよめき、悲鳴を上げる者、歯を食い縛る者がいた。王立騎士団の下部組織に勧誘されるほどの腕前を持つバレットを、レナードが力でねじ伏せた瞬間だった。  途端にカメラのフラッシュが焚かれ、ばっと群衆の中から飛び出した者が叫ぶ。 「なしなし! 負けました! 降伏します……! 命だけはお助けください……っ!」  バレットの経理担当者だった。神経質な叫び声を上げたが、イアンが強引に引き止め、揉み合いになる。 「待てっ! まだ負けを認めていない!」  同時にバレットが吠える。 「そうだっ、まだ負けちゃいない……っ」  利き手を封じられたバレットが、近くにある拳大の石を掴み、レナード目掛けて投げつけたが、石を避けると同時にレナードの手首が翻り、剣先が半回転した。 「ぎ、ああ……っ!」 「負けです、負け……っ! 認めてください、バレットさん! 死にますよ……!」  周囲の動揺は酷くなるばかりで、賭けをしている一部のアルファが大声で野次を飛ばし出した。経理担当者にもとばっちりがいき、イアンと揉み合ったまま、審判役のガジャージュ伯爵を振り返るが、伯爵もまだ両手を下ろしたまま、敗北、勝利のどちらも宣言しようとはしなかった。 「誓え……っ、私の伴侶に、二度と近づかないと」 「っ……」  満身創痍のまま体勢を立て直したレナードが、沈黙を続けるバレットに命じる。しかし、負けを認めようとしないと悟ると、レナードは縫い付けた手から剣先を引き抜き、手首を返すと、左肘の内側を払った。 「ぁあぁっ……!」 「誓えっ、バレット・アシュリー……!」  両腕をやられたバレットが、それでも自分の剣へ向けて膝で這いずると、観客らの興奮は収集がつかなくなり、煙草の吸殻や、辺りから引き抜いた草や泥が、双方に向けて投げつけられる大騒ぎになった。 「まだだっ! まだ俺は……っ!」  両腕を負傷してなお叫び続けるバレットに、経理担当者の一喝が飛んだ。 「何言ってるんですか、バレットさん! 我が儘でアシュリー商会を潰すどころか、この世からオサラバして、わたしに後始末を押し付けるつもりですかっ? 冗談じゃない! 潔くも何ともありませんっ!」  だらりと垂れさせた腕のまま、バレットは沈黙したあとで、急に笑い出した。  虚空に飛ぶ笑い声はどこか歪で、高らかに嗤うと、ぽつりと言った。 「……わかった。負けを認める。俺の、負けだ……!」  悲痛な声が響き渡ると、レナードは大地へどかりと仰向けに倒れ、さらに笑い続けた。 「勝者、レナード卿!」  その声が響くとともに、レナードが剣を納める。 「よし……!」 「レナード……!」 「バレットさんっ」  経理担当者がバレットの方へ、イアンとオデルがレナードへ駆け寄り、両者ともに医師らが付き、手当を急いだ。  しかし、しばらく高笑いを続けていたバレットが、レナードを呼んだ。 「幾ら金を積んだか知らないが……オデル様の心が向いているのは、俺だ……っ! これを見てみろ! 送られてきた小切手だ……っ! 成り上がり者が俺を殺したとて、この事実は消えない……っ! 消えな、い……ぞ、……っぐぅ、ぁ……」  突然、静かになったバレットを手当していた医師が、気を失ったことを確認する。その手の中に、手紙らしきものが握られていた。 「……」  周囲がざわめく中、レナードはイアンとオデルに支えられ、意識を手放したバレットの、すぐ傍まで歩いてきた。バレットの横で屈んでいた経理担当者が、慌てて振り返る。 「いっ、命は……っ」 「勝負が決した以上、当人にもきみに危害は加えない。すまないが、その封筒を寄越してくれないか?」  レナードに催促された医師が、経理担当者に是非を問うたあとで、小切手の封筒と、手紙をレナードの方へと差し出した。 「オデル……きみの判断に従います。どうしますか……?」  イアンが躊躇い、レナードが、開封の是非をオデルに問う。周囲がざわめきはじめ、勝負は終わったというのに、人の群れは散る気配がなかった。勝者の顔とは思えないほど青ざめたレナードは、わずかに震えていた。剣の切っ先は鞘に収められ、もう誰も傷つけることはできないはずだったが、痛みに耐える表情が、物理的なものではなく、心理的なものに因ることを物語っていた。  オデルはレナードの重みを肩に感じながら、泥と汗と血に塗れた手紙と、未開封のままの小切手が入った封筒に、そっと指先を触れさせた。 「……これらは正真正銘、ぼくの書いたものです。ぼくが、バレット宛てに出したものです」  呟くと、レナードは眉間を寄せて首を横に振った。 「オデル、きみが矢面に立つ必要は……」 「いいえ。レナード。この状況を引き起こした元凶は、オメガであるぼくにあります。根も葉もない噂が立つ前に、真実を公表すべきです。ぼくなら、大丈夫です」 「オデル……」  苦しげなレナードが、オデルを哀れむ目をした。その優しさに値する人物になりたいと、強く思う。だが、この手紙を、なかったことにはできない。たとえ一時、レナードを深く傷つけてしまうとしても、修正の余地なく関係を破綻させる可能性があったとしても、真実を知らせる必要がある。それがレナードに応えることだ。誠意を嘘で穢すわけにはいかない。 「ご存知のとおり、かつてぼくは……バレット・アシュリーと恋仲にありました」  オデルの発言に、ざわついていた周囲が次第に静寂を帯びる。オメガの言葉をこれほど真剣に受け止める環境は、これまでまったくなかった。レナードの隣りで彼を支えるイアン、傷を負い気絶してしまったバレットの傍らにいる経理担当者、医師らや、ガジャージュ伯爵、フレイムトラスト社の記者ら、そして、オデルらを囲む群衆までもが静まり返り注視する中、オデルは声を上げた。 「彼から融資の相談を受け、ぼくの判断で工面したお金を、アシュリー商会へ届けたことは事実です。そして、この手紙もぼくの筆跡に間違いありません。……どうぞ、読んでください、レナード。あなたに知っていただきたいことが、書かれています。誰でも、読んでいただいてかまいません。ぼくの罪の証拠が、したためられています」  痛ましげな表情をしたレナードは、渋々、イアンに告げた。 「……読んでやってくれ、イアン」 「いいのか?」 「皆、顛末を知りたがっている。……オデル、きみとはあとで、色々と話をしなければ」  イアンは、しばし躊躇ってから、三つ折りにされた便箋を開くと、文面を目で追った。さして長い手紙ではない。二回、読み終えたイアンは、深いため息ののちに「読むからな」とレナードに念押しした。  イアンがよく通る声で読み上げる。 「『親愛なるバレット卿。今までぼくを好いてくれて、ありがとうございました。でも、もうお会いできないことを、お伝えしなければ。彼を愛しています。ですから、お別れしなければ。さようなら。お元気で。いただいた手紙はすべて、封をしたまま処分いたしました。私書箱は、この手紙とともに閉鎖します。オデル』——以上だ』」  イアンの声が止むと、ざわめきが大きくなり、すぐにそれはどよめきに変わった。待機させていた荷馬車の荷台に、気を失ったバレットが担架とともに乗せられる。同乗する医師とともに早急に帰還の準備が整えられはじめた。レナードも、イアンとオデルに支えられ、医者とともに馬車に乗り込んだ。 「さあ、見世物は終わりだ! 道を開けてくれ! 一刻を争うんだ! 退いてくれ!」  ガジャージュ伯爵の雷鳴のような怒鳴り声に、やがて見物人らがばらけてゆく。その中央を縫うようにして、二台の馬車がローズブレイド公爵邸へ向かい、駆け出した。  イアンが窓から首を突き出し、フレイムトラスト社の社員らに向けて叫んだ。 「きみらも良くやった! 記事は夕刻版の頭に載せるつもりだ! 頼んだぞ……!」  労いの言葉をもらった記者らが了承したと片手を上げると、車中で目を閉じたレナードが、口を開いた。 「オデル……、イアン……」 「レナード……!」 「何だっ? レナード?」  歯を食いしばりながら、レナードが呟いた。 「バレット卿を、ちゃんと診るよう、指示を……」 「馬鹿を言うなっ、死にそうなのはきみの方だぞ!」 「私なら、ただの貧血……」 「強がっている場合か! 他人の心配をする前に、安静にして寝ていろっ!」 「相変わらず手厳しい……」  レナードは傷が痛むのか、馬車が大きく揺れるたびに顔を顰めていた。その間にも、純白だったシャツが朱く染まり続け、同乗しているオデルは怖くなり、レナードの隣りで祈るように蹲った。  オデルの組まれた手に、レナードの泥と汗と血が混じった手が重ねられる。 「きみの誠実を疑うところでした、オデル……」 「レナード……」  口を開くことすらおそろしく、躊躇われる馬車の中で、オデルを気遣うレナードに、何をどう話せば傷が癒えるかを、オデルは考え続けた。レナードの手を握り返したオデルが、その手の冷たさに慄いていると、レナードが囁いた。 「よく、辛抱しました……私のオデル」  掠れた声に、オデルは涙が盛り上がるのを堪えた。 「そんなこと……っ。これ、くらい、当然です……っ」  濁った視界にいるレナードが、血を流している。  でも、生きている。  少しでも動いたら、傷が取り返しのつかないことになりかねないと思うと、下手に触れることも躊躇われた。随行する医師が、レナードの傷口を消毒しながら、カルテに記入している傍らで、勝者の顔とは思えないほど青ざめ、わずかに震えたまま、レナードは呟いた。 「それでも」  嬉しかったです——そう呟いたレナードに、オデルは何も言えず、汚れた手の甲に一粒だけ涙を落とした。

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