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第18話 離別
バレットは重症だったが、医師の素早い措置により命は取り留めた。
レナードも相当に血を流し、あちこち傷だらけだったが、出血のわりに深く抉られるような致命傷はなく、支えられながらなら、歩くことが可能だった。医師は最低、二週間は絶対安静だと強く主張したが、客用寝室のひとつで手当てを受けていたバレットの意識が戻ると、レナードはオデルとイアンに支えられながら、怪我を押してバレットを見舞った。
矜持をへし折られ、途中で気を失ったことを失態だと理解する様子のバレットは、憎々しげにレナードらを威嚇した。
「何をしにきた……っ! オデル様が俺に肩入れしていることがわかっただろ! アルファでなくとも、俺たちの間には絆がある……! オメガの心を射止めることは、ベータにだって不可能じゃ……っ」
「バレット卿」
オデルが口を挟むと、バレットはぎくりと怯えた顔をした。オデルは、経理担当者がことの顛末をまだ伝えていないのだと知ると、暗澹たる気持ちになった。決闘の無効化も辞さない勢いのバレットに、引導を渡す仕事が、オデルには待っていた。
「ぼくが最後に出した手紙を読まれたのでしょう? なぜ、あんな真似を……?」
「……」
気遣う様子のレナードと視線を交わしたあとで、オデルは小さく頷き、黙ったままのバレットへ続けた。
「ぼくからの、別れの言葉は届いていたのでしょう? 手紙にも書きましたが、バレット卿からいただいた手紙は、例外なくすべて読まずに燃やしました。読んでしまったら、未練が残ると思ったからです。きみも、それを知っていたはずです」
「そんなもの……」
バレットの異質な沈黙に、オデルは困惑しながら、密かに哀れんだ。
「きみの立会人は、回復するまで黙っていることにしたようですが……今、ここで誤解を解かなければ、きっと、もっと酷いことになります。ですから、はっきり申し上げますが、ぼくはきみと別れたあと、レナードと恋に落ちました」
呟いたオデルが経理担当者に視線をやると、びくりと動揺し、目を逸らした。彼の立場を追い詰めるのは気が引けたが、オデルはバレットに向き直った。
「きみとのことは過去として、記憶も薄れてゆこうとしていました。ロイヤル・アスコットの時、声をかけていただいて助かったのは事実ですが、一方で、戸惑いを覚えたぐらいです」
オデルは懐から、預かっていた最後の手紙を、目を瞠るバレットに渡した。
「ぼくの真実は、ここにあります」
バレットは震える手で不器用に、最初こそ喜色を浮かべて手紙を開いたが、やがてその文面を追う視線が尖り、最後にはわなわなと震えはじめた。
「こんなもの……っ、嘘だ! あなたは強請られているだけだ……っ」
「嘘ではありません。脅されたこともありません」
「じゃ、あの金は……っ! 俺を、想ってくれているから、寄越してくれたのではないのですか……っ? 俺は、あれをあなたの想いの強さだと……っ」
「いいえ。ぼくの判断ミスでした。テムズ川から屍体が上がったら、公爵家が泥を被ることになる。これ以上の汚名は、避けたかった。それだけです。ですから、返事もいらないと記しました」
「っ……!」
沈んだオデルの声に、バレットは膝の腕に広げた手紙をぐしゃりと握りつぶした。
「う、なじ、を……噛まれてもいないのに……っ」
絞り出されたバレットの声に、レナードがかすかに反応するのを感じたオデルは、淡々とした声で反論した。
「本当に愛し合うまで、レナードは待つと言ってくれました。彼の優しさに甘えたぼくが、ちゃんと心を明かさなかったから、今回の事件が起きてしまった。ぼくは……オメガであることを恥じていました。レナードは、ぼくのそういう部分ごと、愛してくれた。もう今は、いつ噛まれても、驚かないし、かまいません。きみとのことが決着したら、ぼくらは番いになります。これは、ぼくの望みでもあります」
オデルが言葉を続ける間、バレットは一度も目を合わせようとしなかった。
「きみとの時間は、終わりました。それを、今日は知らせにきたのです。数々の誤解を与えたことだけは、謝罪します。申し訳ありませんでした。さよなら、バレット卿」
オデルの言葉に、バレットは完全に失意したようだった。全身を震わせているバレットの傍らで、経理担当者が青ざめた顔色をしていた。
「くそ……っ」
一言、そう呟いたバレットは、手紙を握りしめた拳を無理矢理上げて、腿の上を叩いた。
「くそっ、くそ……! くそっ……!」
拳が振り下ろされるたびに、グシャッ、グシャッ、と紙が軋む鈍い音が響く。そのうちどこかの傷が開いたらしく、打ち付けた方の腕や、上掛けが朱色に染まりはじめ、怯えながらベッドサイドにいる経理担当者が狼狽の声を上げた。
「し、止血を……っ、止血を、お願いします……っ」
「馬鹿言えっ、これしき、俺は……っ!」
腕にしがみつこうとする経理担当者をバレットが邪険に振り払おうとすると、眦を吊り上げて食ってかかられる。
「駄目です! そんな風に自棄になられたら、わたしが困りますっ! こんな傷をこしらえて……! 何があっても、責任を取ってくれる約束だったでしょう……っ!」
「っくそ……っ」
手紙を握りしめたバレットが唇を引き結び、耐えている横で、オデルが離別の言葉を吐こうとした時、レナードが口を開いた。
「オデルに約束したとおり、命は助けます。きみも、約束を守るようにしてください。……いきましょう、オデル、イアン」
かろうじて踏ん張るレナードが蹌踉るのを、オデルとイアンが支える。オデルはそのまま感情のない視線でバレットを一瞥し、レナードを伴うと、イアンとともに踵を返した。
「俺はもう……必要ないのですか……っ? オデル様……」
絞り出された声に反応したくなるのを堪えたオデルは、振り返らずに部屋を出た。別れの挨拶もなかったが、バレットには、それで伝わるはずだ。
扉が閉じると、内側でバレットの慟哭が聞こえた。それはどんな傷よりも鋭く、深く、オデルを切り裂き、残るだろう。レナードと、イアンとともに、オデルが単調な足取りで書斎の傍まで戻ると、ぽつりとレナードが囁いた。
「……きみが、矢面に立つ必要はなかったのに」
その柔らかな声が、誰のどんな声よりも深く、オデルに刺さる。
「情けをかけては、彼のためにならない……そう考えるのはわかりますが、きみがその咎を負わなくとも」
「いいのです、レナード」
本心だった。
「これ以上、誰かに甘えることは、何よりぼく自身のためになりません。ぼくは、あなたに相応しい人物になりたい。あなたがくれる愛情を、一片たりとも無駄にしたくはないのです。それに……傾国のオメガとでも呼ばれていた方が、殿方からの怪しいお誘いを躱しやすいかもしれません」
「オデル……」
「ぼくは悪いオメガなんです。だから、あなたに叱っていただかないと」
茶化した素振りで嘯くと、廊下の途中でイアンが遠慮した。
「悪い。レナードの代わりにやることが山積みなんだ。おれは、ここで失礼するよ」
「ありがとうございました、イアン」
「すまない、イアン。私も、来週には復帰する」
「馬鹿を言うな。とにかく今後は、医師の指示にきちんと従ってくれ。きみだって、致命傷がない以外は、あっちの御仁と大差ないんだからな。オデル、きみも、気をつけてやってくれますか」
「はい、もちろんです」
私情を排し、無慈悲に、希望の一片たりとも残さず、哀れみすら覚えさせず、バレットからすべてを剥ぎ取り奪うことでしか、別れは訪れなかった。ひとりを選ぶとは、そういうことなのだ。同じ過ちを二度と繰り返さないために、オメガであるオデルは、自分に向く数多の欲望を孕んだ視線を、切り捨てる覚悟が必要だった。レナードに相応しく、愛され、番いになるには、彼以外を排することが必要不可欠なのだと、オデルは短いが、様々なことがあった仮初めの新婚生活から学んでいた。
しかし、イアンと別れ、二階の寝室へレナードを送り届けようとすると、言われた。
「すみませんが、書斎の隣りの客用寝室へ、お願いできますか? 二階の主寝室は、きみが使ってください」
まだ傷が痛むのだろうレナードに、これ以上、気を遣わせるわけにもいかず、言われたとおり、オデルが一階の書斎の隣の客用寝室へ案内すると、レナードはベッドへ横たわるなり、青白い頬で深く深呼吸し、目を閉じた。
「オデル。きみがくれるものは、いつも私に見合わないほど、高価なものばかりです」
「ぼくも、……あなたと、同じ気持ちです、レナード」
勇気を出してそう返したが、レナードは半分眠たそうに瞬きをした。先ほど、医師から処方された鎮静剤が効いてきているのだろう。
「きみといると、獣になってしまいそうですから……」
「レナード、ぼくなら……」
バレットは、傷が癒えて身動きが取れるようになるまで、ローズブレイド公爵家の客間に留め置かれることになっている。しかし、もう二度とオデルと、顔を合わせることも、言葉も、手紙も、視線すらも、相互に交わすことはないだろうと、オデルも、レナードも、そしてバレット自身もおそらくは、わかっていた。本当の別れとは、そうして訪れるものだということを。
「はやく、ぼくを叱って……ください。……待っています、レナード」
オデルは眠りに落ちてゆくレナードの額に、静かに触れるだけのキスを落とした。
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