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第19話 獣の休息
「オデル……」
「?」
そっと言い添えその場を離れようとしたオデルが振り返ると、レナードはぼんやりと瞬きした。
「……私は、少し後悔しています。ゆっくり、我々の速さで歩こう、と提案したことを……。きみをトロフィーのように扱いたくない一心で決めたことでしたが、独りよがりだったかもしれません。きみに、いらぬ不安を抱かせてしまったのは、私の至らなさです」
傷はすべて医師が処置してくれたが、絶対安静を押してバレットを見舞ったのは、きっとオデルひとりにゆかせるわけにはいかないとの、レナードなりの思いやりなのだろう。
「ぼくは……あなたに呼ばれるたびに、嬉しいのです……。政略婚だと割り切ることができなくて、たくさん迷惑をかけたこと、反省しています。いつも助けられてばかりで、レナードの気持ちが迷惑だったことなんて、一度もありません」
「オメガを守るのはアルファの矜持の一部ですよ、オデル」
「わかっています。でも、それだけじゃないでしょう? レナード」
アルファはオメガを、遺伝的習性から保護下に置きたがるきらいがある。だが、レナードの思いやりが習性的行為だったとしても、オデルを想う気持ちに嘘があるとは思えなかった。
「ぼくが嬉しかったことは、事実ですから」
求めることばかりに気を取られ、与える行為が喜びをもたらすことを忘れていた。だが、今はレナードにもらった分を、忘れないでいたかった。
「私は……きみを手放すことが、できません。どれだけ不自由を強いても、きっと諦められない。私の望みを、聞いてもらえますか?」
呼吸が乱れて、レナードが瞼を持ち上げた。オデルが振り返り、シーツの上のレナードの手に手を重ねると、レナードの頬に少しだけ安堵の色が浮かんだ。
「何で、しょう……?」
「傍にいてください」
「……はい、います」
「私の傍に、できるだけたくさん」
「もちろんです、レナード」
頷くだけでは足りない気持ちを、どうしたら伝えられるのか、わからない。
「飽きて、いずれ他の誰かに……恋をしてしまったとしても」
「っそんなこと……っ」
あるはずがないと否定しようとすると、指先が柔らかくレナードの指に包まれた。
「起きないとは限りません……だから、きみを束縛したくなるんです。誰に対してもわかるように、指輪をさせて、うなじを噛んで、社交には揃って出席し、適度な惚気話を披露して、浮かれた様子で新婚旅行に行き……。そんなものに、意味があるわけがないのに。望まない人生を強要することは簡単です。きみはオメガで、私はアルファですから。きみの唯一の番いになれる権利を私は持っている。だからこそ……そんな人生をきみに強いることが、良いアルファのおこないだとは思えないのです。だから……」
「レナード……」
レナードはそのまま息絶えんばかりに深く荒く呼吸を数回繰り返した。つい先日、命のやり取りをしたばかりだ。自分でも何を喋っているのか、よくわからないまま弱音を吐いているだけなのかもしれなかった。だが。
「ぼくは……」
もう、レナードにも、わかっているだろう。
それでも口にする必要が、時にはある。
「あなたが、す……好きです、レナード」
赤子のように握られた指に、指を重ねて組み直す。
「最初は政略婚でしたが、すぐに自分が、度し難い期待を抱いていることに気づきました。覚えていますか? 初夜のことを。あなたは……自分を恥ずかしいと、獣だと仰って、ぼくを遠ざけた。選択肢を与えることで、ぼくにかけがえのない自由を、くださった……」
もしも、あの夜、発情促進剤を使って抱き合っていたら、オデルはきっとレナードを、諦めとともに愛しただろう。オデルが失望と同時に、未来に期待している自分に気づくことができたのは、レナードのもたらした自由のおかげだった。
「ぼくが……気持ちを話して、容体が悪化したら困りますから、話し合いは、傷が癒えてからしましょう、レナード。ぼくはあなたを置いて、他の誰かのところになど、いきません。絶対に。どれだけあなたが、ぼくを変えたか……」
オデルはそこで言葉を切った。
体力の限界がきたのだろう。レナードは花がしぼむように呼吸を浅くし、本格的な眠りに落ちていったようだった。これ以上、話しかけるのは、きっと負担になる。オデルはそっと息をつくと、休息させてやるべきだと判断し、いつしか目を閉じたレナードの、絡めた指をそっとほどいた。
「……おやすみなさい、レナード」
ベッドサイドで囁くと、オデルは足音を忍ばせて、自分の身を剥がすように扉まで引き返した。薄く開いた隙間に滑り込む直前に振り返ると、柔らかな口調で囁く。
「ぼくを……叱ってください。待っています。ずっと……」
オデルは、レナードが反応しないことを再び確認すると、今度こそ本当に背を向け、部屋の外へとまろび出た。
人は、誰もが簡単に獣になりうると、決闘を間近で見て、オデルは痛感していた。
それは、命懸けで争った者らだけではない。衆目も、当事者のオデルでさえも、簡単に獣になりうる。
レナードを奪ってしまいたい衝動にかられるオデルもまた、例外なく獣なのだった。
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