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第23話 それから
——髪を、切ろうか。
ふと、思い立ったら、居ても立ってもいられなくなった。
「どうかしましたか? オデル。少し見ないうちに雰囲気が変わりましたが」
久しぶりに尋ねてきたイアンが、資料の上でぼうっとしているオデルに話を振った。このレナードの親友は、軽々に冗談か揶揄しか口にしないことを信条としているようでいて、周囲の変化には敏感だと、オデルは付き合うようになり、最近になって知った。そわそわと落ち着かない様子を取り繕い、視線を数字に戻したオデルは、軽く咳払いした。
「いえ、大したことでは……ただ」
「ただ?」
こんなことを言ってもいいものか、一瞬だけ判断に迷う。でも、隠しごとをして、ひとりで悩んでいるより、打ち明けた方が健全だし、イアンならば信用できることは、レナードの言葉とこれまでも行動からわかっていた。
「その、レナードは、どういう人が好みなのかと、考えてしまって……」
「レナードの、好みですか?」
「はい」
不思議そうに顔を上げたイアンに、オデルはもう少し説明すべきだったと言葉を足した。
「髪が……長いのと、短いのと、どちらがいいかとか、それから、他にも……」
「あいつが好きなのは、きみみたいな人だと思いますが」
「それでは困るのです……!」
「はぁ……困りますか」
「参考に……なりません。それに……」
知りたいのは客観的な意見だ。レナードを俯瞰して、冷静に答えてくれる人物で、普段から親しく、秘密を守ってくれなければ、最適ではない。オデルが気にしていることを、軽々にレナード本人に打ち明けないような、理性的な面も必要だ。
「おれより、レナード本人に訊いた方がいいのでは……?」
「そうでしょうか……? でも、ぼくはレナードを驚かせたり、喜ばせたりしたいのです」
オデルが縋るように言うと、イアンは珍しく頤を指で掴み、考え込んだ。
「でも、おれが何かを言ったとして、そこにおれの好みが反映されていないとは言い切れません。それを知ったら、きっとレナードは拗ねて焼きもちを焼くでしょうね。おれとしては、まあ、その方が面白いですが、種明かしをした途端に怒られそうなので、やめておきます」
「イアン……」
恨めしそうに睨んだオデルに、次の瞬間、イアンは耐えられずに破顔した。
「ははっ、そういうところですよ、オデル。脇が甘いです。まあ、冗談はともかく、レナードに率直に尋ねてみることです。こういうことは、特に」
「わかりました……やってみます」
釈然としない顔で頷いたオデルに、イアンは苦笑を浮かべ、頭をひと振りした。すっかり経理の勉強という気分ではなくなり、イアンは応接間にある、ひとり掛けのカウチに深く腰掛けると、脚と腕を組み、意地の悪そうな表情になった。
「レナードの屈辱に歪む表情を見たい気持ちもありますから、おれは短い方も見てみたいですね、と言っておきます。番ったら、きっと少し噛み跡が見えた方が、素敵ですよ。おれはあいつの百面相が見られる可能性が高い方を推します」
「イアンは……たまにレナードが悪態をつく気持ちがわかるようなことを、ぼくに言いますね」
「あー、まあ……最近のあいつは九割が惚気で、あとの一割は盛大な惚気ですからね。でも、顔色も良くなってきたし、きみがいるから心配しなくて済むし。医師からは、まだ何も?」
「はい。お医者様からは、くれぐれも養生するように、とだけ」
レナードの傷はもう半分ぐらいは塞がった様子だったが、医師が言うには、今、無茶をしてまた傷が開いたら、それこそ元の木阿弥だとのことだった。往診にきたのが昨日で、イアンが訪ねてきたのは四日ぶりだった。
「ふたりでたくさん養生してください。さて、おれはそろそろお暇します。次は、金曜日に伺います。その間に、何かあれば電話を」
「ありがとうございます、イアン。道中、気をつけてくださいね」
数日置きの来訪を欠かさなかったイアンのペースが落ちてきたことに、レナードの復帰が近い予感を感じ、オデルは安堵していた。イアンはまったく勝手知ったる様子でオデルに別れを告げると「動くウェッダーバーン伯爵邸」と名付けた車を運転し、きた時と同じ速さで帰っていった。
騒がしかった邸の空気が落ち着くと、オデルは自分が少し緊張しつつあるのを自覚した。
決闘で負った傷を理由にレナードが一階の客用寝室に籠城するようになり、もうひと月近くになる。イアンは順調に訪問頻度を落とそうと努めてくれているが、きっとオデルとレナードとの時間を奪わないように、との気遣いもあるのだろうとオデルは察していた。
レナードと和解し、膝に初めて乗った夜から今日まで、イアンがきた日もこなかった日も、夜になると、少しだけレナードと触れ合うのが日課になっていた。初めて口内を許した夜から、ベッドの上にいるレナードの膝の上で、少しだけ、レナードに甘い意地悪をされる。何度も柔らかく触れられるうちに、オデルの身体は変わってゆきつつあった。レナードの愛撫に感じると、乳首は摘めるまでに育ってしまっていたし、甘い声も我慢できなくなりつつある。
イアンがオデルの雰囲気に触れたのは、言外に、オメガのフェロモンが強くなってきていることを、警告してくれようとしているせいかもしれなかった。抑制剤はもう上限量に達しており、これ以上の処方は身体に負担をかけると、医師から忠告も受けいてる。レナードも、きっと知っているはずだが、オデルを奪おうとはしていない。オデルも、それを急かそうとしなかった。
それも含めて、レナードにいいようにされるのが心地よく、最中には求めてしまうようにすらなりつつあったが、いつか、溢れてしまう時を静かに待つ間も、オデルは心が何かで満ちてゆくのがわかった。
(……いつ、言おうか?)
最近は、愛の告白についてばかり考えている。
レナードに愛を囁かれるたびに、オデルも同じように、それを口にしたい気持ちが膨れ上がってゆく。レナードに導かれて、高みへ駆け出そうとするたびに、あと少しのところで止められ、翌夜に持ち越されることも多く、ストンと眠るのが難しい夜が続いていたが、この儘ならない熱を、疎ましいとは思わなかった。ひとりで処理する気にもなれず、今はただ、レナードが引いた線を、彼自らが取り払い、超えてくる瞬間を夢見ている。指折り数えて奇跡を待つ、子どものような心境だった。
うなじを衆目に晒す機会を避けてきたのには、婚前は、不用意に誰かを誘惑する可能性を摘むためで、婚姻後は、処女地であることを恥じる気持ちからだった。しかし、今はもう違う。畏れるものなどなかった。レナードとは絆が育ちつつあり、それが夜毎に確かなものに変わってゆくのをオデルは知っている。
抑制剤に添加されたアルコールが喉を灼く感覚に慣れても、レナードを前に湧き上がる衝動を抑えることの方が難しい。
だが今は、待つのが、好きになりつつあった。
ひたむきに、時がくるまで、ただその夜を予感とともに待つのが、嫌ではなくなっている。
よって、オデルが、我慢という抑制が、いとも簡単に崩落する夜が訪れることを、まったく予期できなかったとしても、致し方ないことだった——。
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