21 / 28
第21話 甘い罪と罰
「レナード、具合はどうですか?」
客用寝室の扉をノックして中へ入ると、オデルは久しぶりに見る伴侶のすっきり整った顔に一瞬だけ見惚れた。
「ホットミルクはいかがですか? イアンが、あなたがぼくに会いたがっていると」
サイドチェストには書類が山積みで、決済前のものには赤い付箋が貼ってある。決済済みの書類は床に平積みにされており、その一番上には、見覚えのある封筒が乗っていた。オデルの筆跡で住所が記されているのが見える。先日、アシュリー商会宛てに出した、小切手の封筒に間違いなかった。
レナードはベッドの上で大きなクッションに背を預け、書類に目を通していたが、オデルが傍へくると顔を上げた。むくみも、痛みのために眉間を寄せることもない、きれいな表情に、回復を感じたオデルは、仄かに期待する気持ちを押し込め、サイドチェストの書類を少し避けた場所へ、ホットミルクの入ったカップをトレーごと載せた。
「こちらへ、オデル」
レナードはイアンが使っていたと思われる椅子でなく、ベッドサイドに直接、座るよう、オデルに求めた。
「はい……」
死闘の末に、まだオデルに親愛を寄せてくれるレナードの気持ちがくすぐったく、舞い上がると同時に、アシュリー商会に出した小切手への後ろめたさが、オデルを苛んだ。挙動不審にならないよう自制し、オデルは言われたとおり、ベッドサイドのレナードが手を伸ばせばすぐ届くぐらいの距離へ腰掛けた。
「今日は調子がいいですか? あなたに呼ばれてぼくは……っ」
優しく笑いかけるレナードに嬉しかったと伝えようと顔を上げた瞬間、腕が伸びてきて、オデルは引き寄せられた。
「っ、ん……っ」
鳶色の眸が視界に広がったかと思うと、柔らかく唇を奪われる。驚いてほどいてしまった口内に舌が差し込まれ、反射的に身体を強張らせると、瞼を伏せる余裕もないまま、深く結びついた舌と舌が触れ合わされる。熱い接触に、レナードの匂いが肺に満ち、オデルはくにゃりと抵抗できなくなってしまった。
「ぁ、ん……んっ」
突然のキスは甘かった。身体の芯が震える感覚を、どうにか押し込める。レナードが何かに焦れている気配がした。オデルはとろんとなりながら、レナードの背中に縋ることで、どうにか体勢を維持した。
「ぁ……っ、レナー……ッ」
レナードの、もう片方の腕はオデルを包み、指がうなじに着地する。愛撫のような執拗な仕草に、期待が身体の内側を駆け抜け、それに耐えるためにオデルは伴侶の背に爪を立ててしまう。制御しきれない情動が、内部から崩壊しかねない熱さで急速に膨れ上がった。どうにか顔を上げると、名残惜しげに、あるいは労わるように、ちゅ、ちゅ、と頬や瞼、眦にバードキスが降る。
「……レ、ナー……ド」
初めて口内を奪われたことにも驚いたが、レナードの愛着の激しさに慄いた。そのわずかな気配をかぎ取るようにして、安堵させるためにか、レナードは呟いた。
「バレット・アシュリーの繊維工場の赤字は補填されます。私が買い支えましたから」
「えっ……?」
驚いたオデルの頬を、優しくうなじを撫でていた指先が、同じ強さでなぞる。
「きみの大切だった人だ。放ってはおけません。それに……今、テムズ川に身投げなどされたら、どんなゴシップが生まれるか。私と一緒ならともかく、きみひとりを野次馬連中の好奇の視線に晒すなど、言語道断です」
「それは……」
物凄い速さで疑問が脳裏を駆け巡り、喘ぐオデルに、レナードは微笑した。
「いいのです。きみは私に多くを与えてくれた。人の愛し方を……執着も悪くないと教えてくれたのは、きみです」
「そういうわけには……っ! あ、す、すみません……っ」
ぎゅ、とレナードの背中に回した腕に力を込めてしまい、痛みに少し顔を歪ませたレナードに、オデルは慌てて謝罪した。だが、拘束が緩んだのもつかの間、レナードの腕の中に引きずり込まれ、オデルは絡め取られてしまう。
「誤解しないで、オデル。先手を打つのが私のやり方です。数年、業態の改善に努めれば、業績が上向く見込みは十分にあります。繊維産業はこれからが勝負です。それに、これは波に乗るための投資です。……私怨がないとは言えば嘘になりますが、私はそこそこ実利主義者ですから、決めた以上、私情は挟みません。なるべくは」
レナードはさらに先回りするように、オデルの疑問に応えようと続けた。
「それと、バレット卿が融資を迫ったのは、きみだけではないことも、言い添えておかなくては。ガジャージュ伯爵をはじめとする他の貴族らにも、かなり強引な手段で出資をせびっていたそうです。事実上、強請られたと判断できる証言が数件、出ている上に、強くて優秀ときている。こちらとしては、そういう人間は敵にするよりは、手の中の駒にしておきたい。……それに、これは今、きみに言うべきことではないかもしれませんが、いずれ第二種性別はなだらかに平板化してゆくでしょう。今はまだ、区別が必要だとしても、やがて我々の血は混ざり合い、アルファだのオメガだのと、些細なことに拘る輩は消えてゆくでしょう。そもそも、第二種性別を理由に権利を制限するのも、私は公平ではないと考えています。ですから」
気にしなくていい、とレナードは言う。だが、その表情は晴々としているどころか、どこか苦しそうにオデルには見えた。何かに怯えるような、無理に抑制しているものが表出している顔だった。
「レナードは……ぼくを監視していましたか?」
つい、イアンから小切手の件を知らされた時に、思ったことが言葉になった。どんな手段かはわからないが、オメガとして数多のアルファからの視線を浴びてきたオデルは、その中に少しだけ、今まで感じたことのない、異質で冷めた目があることに気づいていた。また、先ほどのレナードの口ぶりから、フレイムトラスト社の号外に採用されたガジャージュ伯爵のコラムにも、何らかの形で関わっているのかもしれないとも、思った。
「そうだとしても、怒りません。ぼくに信用がないのは、わかっていますから……。でも、ぼくはそんなあなたも好きです。こんなぼくを、どうしてそこまで好いてくれるのか、わからないけれど……。気持ちに嘘がないことを知っていただきたくて、今日はきました。ぼくは、あなたの視ているものに、触れてみたいです。レナード」
オデルが話すうち、レナードの鳶色の眸に昏い影が差し込んできた。ランプの揺れる炎を反射し、揺蕩うさまが美しい。
「……きみを傾国のオメガだなどと呼ぶ連中を、根絶やしにしたい」
その声がわずかに震えていて、オデルは目を瞠る。同時に、レナードの真実の断片と、やっと邂逅できた気がした。
「失望、しましたか……? きみに対する執着心が、これほど強いものになるとは、自分でも不思議なのです。でも、きみは私の運命だと、再会した時に確信しました。無垢な蕾を荒らす不届き者たちを黙って見過ごすことが、できなかった。ですから、きみがバレット卿の凋落を無視できなかった気持ちも、少しはわかるのです」
レナードは吐き出すと、オデルから怯えるように視線を逸らした。
「本当の私は、まったく子どもなのです。あの頃の、臆病なままの、小さな人間です」
「レナード……」
俯いたレナードの背中に添えられた手が震えていた。
「きみが誰かと話すたび、相手が、なぜ私でないのだろうと思っていました。きみの視線が遠くに流れるたびに、誰を想っているのか、不安で仕方がなくなるのです。きみの幻を追いながら生きるうちに、私は数多のものを手に入れられる立場になりました。でも、本当に欲しいものが……何もないのです。きみ以外は。きみしか、欲しいと思わない。きみが私を理解したいと言ってくれた時、どれほど舞い上がったか……。きみの目が私を捉えるたびに、心の奥底にある何かが動いて、苦しくなってしまうのです。これを……恋……と言うのでしょうか? これほど、もどかしいものだとは……」
レナードを悩ませる原因がオデルにあることが、申し訳ない反面、どこか嬉しさも感じてしまう。罪深いことだった。オデルは、もう片方の手をレナードの背中に回し、少しだけ力を込めた。
「あなたに……言わなければならないことが」
「……はい」
「ぼくは、あなたに誠実では、ありませんでした」
互いに抱き合ったまま、オデルが呟くと、レナードは身体を強張らせた。
「……知っています、オデル」
「指輪の件と、融資の件も……。ご存知だと思いますが、ロイヤル・アスコットのあとで、フレイムトラスト社を訪ねました。イアンに無理を言って、指輪を担保に小切手を切ってもらいました。サイズが合わなくなったから、直しに出しているというのは嘘です。……ごめんなさい、レナード」
「おいたをしたわけですね、きみは……指輪は今、どこに?」
「……ここに」
レナードに答える形で、オデルは懐から、先ほどイアンより戻された封筒を取り出した。逆さに振ると、レナードの膝に、ころりとした歪な形の石の婚約指輪が転がり出た。
「そうでしたか……八方手を尽くしても見つからなかったので、半分諦めていましたが……灯台下暗しですね」
頷いたレナードは、伴侶のオデルがつく嘘を、否定も肯定もしようとしなかった。まるで裸のまま踊っていたようで、心がざわつくが、すべてを知られることへの抵抗は、わずかな快楽を伴っていた。レナードは、さらに言い足した。
「イアンの名誉のために言いますが、彼は私がどう揺さぶっても、何も明かしませんでした」
「イアンは、ぼくにも冗談ばかりで、大事なことは何も」
「そうですか。……まったく、イアンときたら……」
「指輪の代金に上乗せして借りた一万ポンドは、ここに」
持ち歩いて少し縒れた封筒を、オデルは懐から出し、レナードに手渡した。今となっては後悔しかない、愚行の証拠だ。
「どうして、あなたを軽んじる真似ができたのか、自分でも説明ができません。でも……バレット卿を無視することが、できませんでした」
もしも、もっと広い視点でバレットのことを見られていたら、こんな愚かなことはしなかったかもしれない。が、そう考えたあとで、それでも万が一、命を絶つ可能性を示唆されたら、やはり放ってはおけなかっただろうと思った。
オデルの言葉に食いつくように、レナードが確認する。
「今はもう別れたのですから、今後、関わることはないですね?」
「はい……二度と。二度と、彼と関わることはしません」
しかし、オデルの返答に、レナードは憂鬱を濃くした。
「違う、こんなことを言いたいんじゃない……私は、きみを……」
自己嫌悪を露わに、思い切り眉間を寄せたレナードの声は、酷く掠れていた。
「レナード……?」
オデルが問うと、些細な沈黙の後、震える声でレナードは切り出した。
「確かに……きみのおこないに、私は、いたく傷つきました。あの指輪は我が家で一番、価値のあるものでしたし、私の気持ちでしたから」
オデルを抱える手に、無意識だろうか、力が込もる。
「……きみの疑問にまっすぐ応えるのは、私には少し難しいです」
そう前置きすると、再びレナードは口を開いた。視線は、オデルを避けるように伏せられ、睫毛が少し震えている。
「ロイヤル・アスコットには、私の昔の仕事仲間がたくさんいます。八百長はご法度なのでしませんが、誰が何をどこで話しているかなど、知ろうと思えば簡単なのです。ですから、きみの行動も、接触してきた人物を洗うことも、簡単にできました。決闘は、頭に血が上ってしまった結果でしたから、どうにもなりませんでしたが、きみの親しい友人だったバレット卿のことは、特に注意していましたので……遅かれ早かれ、ぶつかることになるだろうと思っていました。決闘後、ここを去る直前、バレット卿には、きみからもらった小切手を返したら、事業再建のチャンスをやる、と条件を付けました。——がっかりしましたか?」
アルファの執着の強さに慄いたとしても驚かない、という顔で、レナードはオデルを覗き込んだ。
「いえ……、でも、納得しました」
オデルが頷くと、レナードは少し安堵したようだった。
追い詰められていたであろうバレットが、なぜ送ったはずのオデルの小切手をすぐに現金化せずに手元に置いていたのか、事情はわからないが、もしも未練がそうさせたのだとしたら、やり切れなかった。
だが、もうオデルは、レナードを選んでしまった。
そして、それがどういうことなのかを、今は認識していた。
「あなたがぼくを、どうしたいとしても……ぼくはあなたを知りたいし、知れば、きっと好きになってゆく気がします」
オデルの言葉に、レナードは右手でオデルの左手を、そっと持ち上げた。
「もう一度……指輪を嵌めていただけますか?」
「その資格があるのなら、是非。あなたへの裏切りを、どうお詫びすればいいでしょうか。考え足らずに行動して、あなたを傷つけたぼくを、ちゃんとしっかり、叱って、罰していただけますか……?」
オデルの声は、半分、懇願だった。
レナードは、オデルがおずおずと顔を上げるのを待ち、視線が絡むと、そっと囁いた。
「私のものになりますか? オデル」
「は、い……なり、ます」
その言葉が、何を意味するか知っている。オデルが頷くと、左手の薬指を選び出され、その根本に婚約指輪を通された。まるでもう一度、結婚式の朝をやり直したようだった。
婚約指輪はずしりと重いが、サイズはぴったり合っていた。指輪を手放そうだなどと、一時的にでも馬鹿なことを考えたばかりに、レナードを心身両面に傷つけてしまったことを、酷く後悔していた。
「……これで、きみは私のものです。後悔しませんか?」
「後悔を……したとしても、その感情ごと、あなたを好きになります。レナード」
オデルの気持ちの在り処を知りたがるレナードの気持ちが、少しだけだがオデルに作用し、温かいものが満ちる。オデルが政略婚を呑んだ理由を承知していたからこそ、レナードは不安だったのだろう。
「オデル……私は、きみを愛しています」
うっとりと、まだ少し控えめに、オデルの髪を一房、指先ですくったレナードの薬指に、対になる石を見たオデルは、心臓が跳ねた。レナードの気持ちを垣間見た気がして、身体の内部が熱くなる。
「レナード……ぼくは……、ぼくも……っ」
オデルが気持ちを言おうとすると、唇を人差し指が制止した。
「私は、大変傷つきました。どうして相談してくれなかったのか、と……。ひとりで決めてしまうだなんて、きみは酷い。しかし、きみは美しい選択も、しました。反発や逆恨みを買ってまで、人の命を助けようとした。金持ちの偽善だとやっかまれても、かまわないと考えたのでしょう。きみがそういう人だから、私は……、私も、傷ごと、きみを好きになっていきます。いつか、すべてを分かち合える日がくることを、聞き分けのない子どものように待っているのです。だからもし、きみが決断した時は、こう言ってください。——『愛しています』と」
「っ……」
指輪の嵌まったオデルの手に、レナードが手を重ねて催促する。
「ほら、あと少しです。がんばって。リピート・アフター・ミー」
戯けて催促されると、レナードに触発されたオデルは泣き笑いを浮かべてしまう。
「『愛しています』……レナード、あなたを……」
甘い傷だった。レナードからもらったものなら、容易く受け入れられると思うぐらいには。本心を開示するのが怖くて怯えていた頃が嘘のように、言葉は素直に唇に乗った。
しかし、レナードは複雑で苦い笑みを見せた。
「やはり……こういうことは、強制するものではないですね」
「レ……」
信じてもらえていないことに、オデルは心がぎゅっと冷えた。真実を口にしても相手にされないことが、これほど堪えるとは知らなかった。レナードが抱え続け、示し続けてくれた情愛の深さを、オデルはこの時、思い知った。
「どうしたら、あなたに近づけるでしょうか? あなたの隣りに立ちたい。レナードに、許されるには、どうすればいいでしょうか?」
「きみって人は……」
囁いたオデルへ、レナードは驚いた表情で零した。
「オデル、私の愛しい伴侶。きみが最近、財務諸表を読めるようになってきたと、イアンから聞きました。あとでアシュリー商会の内情をきみにも説明しましょう。大丈夫。無理な買い物ではないと、納得するはずです。それから……」
レナードは何か悪戯でも思いついた顔で、オデルを覗き込むと、こう囁いた。
「今日は些か疲れました。きみを少し補給したいのですが、かまいませんか?」
「はい……ぼくもその方が」
「本当に? それは嬉しいです」
咲いた花が香るような笑みを浮かべたレナードが、オデルを抱きしめる。
オデルもまた、レナードの温もりに安堵し、背中に腕を回し、愛しい伴侶を抱いたのだった。
ともだちにシェアしよう!

