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第4話悩みの種【1】
青いキャンバスに子供がサッと落書きしたような薄い雲。秋口に差し掛かった高い空は、爽やかで清々しい。
その一方、ヴィエボ国第二王子の機嫌はすこぶる悪かった。
いつもは王宮を訪れる来客者や使用人からの声かけに快く応えている彼であるが、それもおざなりとなり、酷く激昂 した足取りで王宮内の回廊を渡っていた。
「ん? あれは」
ジャレッドがふと中庭に目をやると、薔薇園の#垣根からキャスケット帽が見え隠れしている。
剪定鋏 を手に薔薇の花弁へ顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らすのは下働きのチェロル。肩下まで伸ばしたふわふわの赤毛を後ろで束ね、頬にはそばかす、帽子の下にはぶちのある垂れ耳が覗く。
イヌの耳と尻尾、イヌ特有の優れた嗅覚をもつチェロルは他国から移り住んできた獣人族の少年。齢 は十一。
ジャレッドは彼と親しく、中庭で見つければ必ず声をかけている。
働きに見合った賃金は得ているはずだが、また今日も飾り気のない白ブラウスの上に、チョッキを羽織った質素な身なり。華々しい王宮とは不釣り合いで、こう言っては何だが、王都の外れにある貧困窟の方がよっぽど似合ってしまう。
「チェロル、今日は一人なのか? 珍しいな」
「ジャレッド殿下!」
手を振りながら近寄るジャレッドに、チェロルは慌てて服の土汚れを払う。
「・・・・・チェヤンは、実は、その、風邪をひいてしまったようで。今朝から具合が良くなさそうなのです」
彼には双子の妹チェヤンがおり、垂れ耳の模様、そばかす、鏡合わせに瓜二つの顔立ちをしている。
髪を下ろせばきっと入れ替わっていても気が付かない。
「それは大変だな、医者には見せたのか?」
気遣うジャレッドの言葉に、チェロルは「はい」と大きく頷く。
「王妃様に良くしていただいてますので」
「そうか・・・・・、それは、何よりだ」
良い返事を返され、ジャレッドは少しだけ肩を落とす。母が世話したのなら自分の出番はない。
一年前、幼い兄妹を助けたのはジャレッドだった。
出会った当初から、二人には親がいない。王宮の塀に寄り添って座り込み、野垂れ死にしかけていたところを偶然に見かけ、ちょうど薔薇園管理のための下人を探していた母マルティーナに口利きをしてやったのである。
嗅覚の鋭い双子はよく働き、マルティーナのお眼鏡にもかない無事に気に入られた。以降、王宮内の離れに用意された部屋で二人仲良く、慎 まやかに暮らしている。
「あの、なにかございましたか?」
「え?」
おずおずとチェロルが口を開く。
「今日はジャレッド様のご様子が変だと、使用人の方々が噂されていて・・・・・・」
ジャレッドはひくりと眉を吊り上げた。
不機嫌の原因は今夜予定されている閨 教育の実践だった。
実は、ジャレッドにはこれまで一度も閨教育という単語が聞かされたことがなかった。
王家に生まれた者なら誰しもが受ける教育の一環であり、他国でいえばむしろ遅いくらいだと、朝餉 の時間に初めて聞かされ大層驚いた。
であるが、王家の子孫を残す義務があるという点では納得できる教育だ。男女の営みは自然な行いであり、あえて拒否すべきことでもないと率直に思った。
その閨教育を母に勧めたのがギルであると知らなければ、今でも素直にそう思えてたかもしれない。
一ミリも感情の変化など起こさず夜を迎え、何事もなく終えていたのだろう。
———なぁにが、良い機会ですので。だ!
澄ましたあの男の顔で、声で、口調で、女を抱いてこいと間接的に言われたようなもの。
何故突然そんなことを言い出したのか。
自分の発言が原因だとしたら・・・・・・突き放されたみたいでひどく悲しいし、胸が絞られて凍える思いがする。
こんな気持ちにさせられるなんて、まさに青天の霹靂。事実無根の言い掛かりと罵られようがなんだろうがどうしても腹が立つのだ。
しかしそれをこの場では言えない。
「案ずるな、大したことではない」
「そ・・・・・・うですか、であればよいのです」
少し冷たく言い過ぎただろうか。
イヌ耳が見るからにしゅんとしてしまい、ジャレッドは付け加える。
「いや、心配してくれたんだろう? ありがとう」
「い、いえっ、出過ぎた真似を致しました」
謙虚に首を振る下で尻尾がぱたぱたと揺れ、チェロルは「あ、あ、こら」と懸命に尻尾を押さえ付けた。
その姿が可笑しくて、可愛らしくて、影を落としていた心持ちがほんのりと軽くなる。
「・・・・・・一つ聞いてもいいだろうか」
ハッと、チェロルの顔が華やぎ明るくなる。
「もちろんです、なんなりと!」
「はは、うん、チェロルは人を好いたことがあるか?」
ジャレッドが訊ねると、チェロルはどんぐりのような大きな瞳で一瞬まばたきをし、「ええ、ありますよ」とはにかんだ。
「へえ・・・・・・」
意外な答えにジャレッドは面食らう。
「僕は、妹を一番に愛しております」
「あ、そっち」
うっかりそう言ってしまったが、満面の笑みが返ってくる。
「はい、妹は僕の全てです」
その時のチェロルの顔は温容 そのものだった。ついコチラもほっこりとした気分にさせられる。
彼にとっては唯一無二の大切な家族、聞きたかった回答とは多少違ったが、彼の妹を想う情の深さを誰が笑えよう。よっぽど自分よりも慈愛 の心を知っている。
ギルへの怒りはともかく、周囲に機嫌の悪さを撒き散らしていた自身の行動が恥ずかしく思えた・・・・・・。
「こほん、チェロル、これからはぜひ師匠と呼ばせて頂く」
咳払いをしてまじめ腐った声を出すと、チェロルの顔は一転して仰天する。
「え? え? 何故でしょうっ、そんなっ」
ジャレッドは微笑み、慌てふためいてしまったチェロルの頭を撫でた。
こう見るとまだまだ幼い少年である。
「ふ、冗談だよ。よい話を聞いた礼に、のちほど見舞いの果物でも届けさせよう。チェヤンが好きだったよな?」
「? それはそうですが・・・・・」
突然の申し出にチェロルは首を捻った。
そうして最後まで目を白黒させたまま、鼻歌混じりに立ち去ろうとするジャレッドの背中を見送った。
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