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第10話嵐の予感【4】
———何のことだ・・・・・・?
「何でもなかったわ」
インガルはふいっと空を仰 ぐ視線が外され、二人の間に伸びていた緊張の糸はぷちんと途切れる。
「何でもなくないだろ、言えよ」
ジャレッドは解けた糸に追いすがるように、インガルを睨みつけた。
「うっせ、当たり前に命令すんな」
「してない!」
インガルには睨み返され、二人は睨み合う。
「・・・・・・ふっ、そんな怒んなよ。ほら戻るぞ。せっかく飾り付けたんだから最後まで見てくだろ?」
「は?」
笑って有耶無耶 にされたのが分かり、ジャレッドは俯いた。
インガルはうっかり何かを言おうとした。それは自分も無関係ではない話なのだ。しかし、もうじき夜が明ける、粘って聞き出したいが時間切れだ。
「いいや、見ていきたいが、朝になる前に帰らないとまずいから」
ジャレッドからの返答を聞き、インガルは何処となくほっとしたように見える———。
「俺が帰ってせいせいするのか?」
ジャレッドはつい憎まれ口を叩いた。
「は? ちげぇよ、王子様が王宮を抜け出したらまずいってことくらいわかるわ! 騒ぎになる前に早く帰れ帰れ」
面倒臭そうに言い返してくるインガルにカチンときたが、同時に素気ない声の調子に懐かしさが湧きあがる。
別れ際の寂しさには覚えがあった。
頭の片隅に大切にしまってあった幼い頃の思い出が、走馬灯みたいに頭に浮かぶ。
小さな手を振り合って別れ、次に遊びにくる日を信じて待っていた。結局その日はいつまでも訪れなくて、抗えようもなく思い出に変わってしまったのだ。
ジャレッドは広場を出る手間で足を止め、のんびりとあぐらをかいている少年を振り返った。
「さっきの話、諦めたわけじゃないから。絶対に話してもらう。だから・・・・・・、また来る」
するとしつこいなとでも言いたげに、インガルは眉間に不機嫌そうな皺を寄せる。
「何その顔、駄目なのかよ?」
「・・・・・・勝手にしろ、けど俺が話すかどうかは別だからな」
インガルは顔を隠すようにそっぽを向くと、ぶっきらぼうに返事をした。
広場を出たジャレッドは急いで隠し通路を走り抜け、地下階段を上がった。
厩舎の中に、大きな人影が佇んでいるのが見える。
「やはりここでしたか」
「げ、ギル」
ジャレッドは腕を組んで仁王立ちしている男を仰ぎ見た。
「どちらに行かれていたのですか?」
溜息混じりに訊ねられ、喉まで出かかった謝罪の言葉がしゅるしゅると引っ込む。
「ふん、子どもじゃないんだから放っておいてよ」
「子どもだとかそういう問題ではないのです。もう少し考えて頂かないと」
「考えるって何をだよ」
ジャレッドはむっとする。ギルの顔を見ていると、もやもやした気持ちが胸を支配していく。
今さっき見聞きしてきた出来事も相まり、頭の中がぐちゃぐちゃで、心も身体もコンディションは最低。言いたくないことも言ってしまいそうで、ギルとの会話を続けたくなかった。
ジャレッドは口をつぐみ、何も言わずにギルの横を通り過ぎようと決めた。そして一歩踏み出し、つま先に当たった固い突起物に足を取られた。
突起物の正体は釘だった。床から飛び出した釘に爪先が引っかかり、ぐらりと身体が前のめりに倒れる。苛立ちながら強く踏み込んだせいで、そのぶん盛大に足がもつれてしまった。
「うわ・・・・・・っ!」
ジャレッドは「ヤバい!」と心で叫んだ。この勢いで倒れたら確実におでこを打ち付ける。
しかしあっと思った次の間には、逞しい腕で受け止められていた。
「考えて頂きたいのは、ご自身のお身体のことです。ふらふらじゃないですか。昨晩もお食事をほとんど口にされていなかったと、うかがいましたよ。おまけに寝不足ですよね、クマがあります」
ギルの手のひらが頬を包み込み、下瞼を親指の腹で擦られる。
「・・・・・・っ、うるさい、放せ」
「いいえ、できかねます」
たちまちジャレッドは軽々と抱え上げられ、男の腕に横抱きにされた。抵抗もできないまま、ギルは有無を言わさず歩き出す。
「おい、ギル、やめろ・・・・・・」
厚い胸板に心臓が高鳴り、聞こえたらと思うと羞恥で爆発しそうだ。
暴れて抜け出してやろうと目論 みつつも、ジャレッドは矛盾する気持ちに歯噛みしていた。
ふざけるなと悪態をついてやりたい、だけどこのままでもいたい。出来ることならば、そんな硝子 に触れるみたいな手つきじゃなく、もっと強く、ぎゅっとかき抱いて欲しいと思う。
「おや、大人しくなりましたね」
喉奥で笑われ、ジャレッドの胸がつきんと痛んだ。
「・・・・・・呆れたか」
「何がでしょう?」
「分かってるくせに」
ギルが足を止めて、ジャレッドを見つめる。
「ふぅ、ジャレッド様が我儘坊ちゃんに逆戻りしてしまったことがですか?」
溜息と共にはっきりと告げられ、とたんにざわっと不安が押し寄せた。
冷水を浴びせられた感覚がして、血の気がひく・・・・・・。
「やっぱり、我儘だって思ってたんだな」
だがおそるおそる見上げると、ギルは優しく眉尻を下げた。
「ええ、そうですね。けれどジャレッド様の成長は喜ばしくも、じつは寂しさを感じておりました。私は昔のように世話が焼けて嬉しく思いますよ」
「なにそれ、けっきょく子ども扱いかよ」
そう言って照れ隠しに視線を逸らし、ジャレッドは唇を尖らせた。
やがて使用人たちが目を覚まし、王宮に朝が来る。朝の挨拶を交わす声が、象のように巨大な建物のいたる所から聴こえてくる。
ギルは腕の中のジャレッドを気使ってか、いつもよりもゆっくりと王宮内を歩いた。二人の通る廊下には、たまたま誰も来ず静かだ。朝らしい、肌を切る冷たさと、肺を満たすパンが焼ける芳 ばしく甘い匂い。そうして始まっていく日常と、男の腕の中という非日常。
ジャレッドはすんと男の体臭を嗅いだ。
・・・・・・たまたま? 本当にそうだろうか。この男のことだ、使用人が使わない旧廊下を選んでくれている。
悔しい。
ギルが何気なく与えてくれる優しさが痛くて嬉しい。鷲掴まれた心の臓が、胸を突き破らんとするかのように震えてしまう。
気づけば仄暗い旧廊下を過ぎ、中庭をのぞめる二階の回廊に出ていた。
王宮の回廊には人の胴回りくらいの柱が規則正しい間隔で並んでいる。
眩しい朝日が空に昇り、タイル石のアイボリーと影のグレーが交互に整列する。間伸びした影が床に縞模様を作り出す。
眠気と疲労で頭がふわふわしているのかもしれない。二人の影が柱の影とちょうど重なり、姿が消えるたびに、二人丸ごとこの世から消え去ってしまったような、そんな錯覚に陥 った。
それならいっそのこと消え去ってしまえばいい。不意にそう思った。ギルと一緒に。ギルとなら、そうなりたい。
じゃあ、別の誰かなら?
そんなのはあり得ない。
そんなことになれば、存在しない架空の誰かを殴り殺してしまいそうなほどの怒りが湧くだろう。
やっぱり頭がひどくふわふわする。ぞくぞくする。身体の芯が溶ける。ジャレッドは太い柱の影に入った瞬間に、軍服の胸ぐらを力一杯引き寄せた。
この世界から二人が消えた一瞬、唇を押し付ける。男の唇は柔らかく沈み、何よりも甘くジャレッドの心を刺激した。
「ジャレッド様———・・・・・・?!」
唇を離し、ジャレッドはギルの胸ぐらを握り締める。
「・・・・・・はやく寝室に連れて行け」
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